徳川家霊廟|徳川家のお墓っていったいどんなところ?霊廟と将軍について完全ガイド(東京都 増上寺/寛永寺)

どうする家康
どうする家康徳川家康東京都

増上寺境内に祀られている徳川家の歴代将軍の墓所が一般公開されていると知り、増上寺へと向かった。境内のこじんまりとした一角に将軍たちが埋葬されているが、戦前までは立派な霊廟が立ち並んでいたそうだ。当時に思いを馳せながら手を合わせる。

訪問日:2023年2月9日
スポンサーリンク

徳川将軍家 墓所の紹介

  • 戦前までは、徳川家霊廟が今の大殿南北に建ち並ぶ壮観な眺めだった
  • 東京大空襲により、ほぼすべてが焼失
  • 昭和33年夏に発掘調査が行われ、荼毘に付された後現在の墓所へ改葬
  • 埋葬されている将軍
    • 二代秀忠、五代綱吉の兄弟・綱重、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂
  • 埋葬されている将軍正室
    • 二代秀忠夫人崇源院、六代家宣夫人天英院、十一代家斉夫人広大院、十三代家定夫人天親院、十四代家茂夫人静寛院
  • 埋葬されている側室
    • 三代家光の桂昌院、六代家宣の月光院など5人
  • 将軍の子女も含めて計38人が埋葬されている

徳川家墓所 増上寺

正式名称

 徳川将軍家墓所  増上寺及び寛永寺

スポンサーリンク

徳川将軍家墓所のみどころ

増上寺境内にある「徳川将軍家墓所公開」の入口

徳川家墓所 増上寺
徳川家墓所 増上寺

少し前までは非公開であったが、現在は通常公開となっている。

徳川将軍家墓所「御霊屋(おたまや)」

徳川家墓所 増上寺

増上寺の裏手に回ると見えてくるのが、「徳川将軍家墓所」

徳川家墓所 増上寺

国宝指定されていた霊廟は、第二次世界大戦にて消失してしまったとのこと。
本当に悲しい。

徳川将軍家墓所の入口「鋳抜門」

徳川家墓所 増上寺
徳川家墓所 増上寺

六代将軍「家宣公」の宝塔前にあった「中門」を移築したのがこの門である。
両側には龍が鋳抜かれている。近づいてじっくり観察すると、とても細か造りになっていることがわかる。

徳川家墓所 増上寺
徳川家墓所 増上寺

「鋳抜門」の裏側。こちらにも龍の姿がある。

徳川将軍家墓所内案内図

※クリックで拡大できます

入場料

徳川将軍家墓所 大人:500円 中高生および小学生以下:無料

徳川将軍家墓所へ

徳川家墓所 増上寺

鋳抜門から入るのかと思っていたら、左横にドアがあり、こちらから入るとのこと。

徳川家墓所 増上寺

あっ、なるほど。そりゃ正門から入るワケないか。

当時の霊廟の写真

徳川家墓所 増上寺 説明

旧増上寺御霊屋の説明看板。白黒画像ではあるが、当時の荘厳な様子がわかる。全て戦争で灰になってしまったことが悔やまれる。

台徳院(二代秀忠公)霊廟 本殿内部
写真から、とてつもなく豪華な霊廟だったことが伺える。カラーで見たかった。

台徳院(二代秀忠公)霊廟 本殿内部の写真

文昭院(六代家宣公)霊廟 拝殿内部
こちらも広くて豪華。欄間の透かし彫りが美しい。

文昭院(六代家宣公)霊廟 拝殿内部の写真

文昭院(六代家宣公)霊廟 相之間内部
同じく家宣の霊廟内部だが、写真を見るだけでも威厳を感じる。すごい。

文昭院(六代家宣公)霊廟 相之間内部の写真

文昭院(六代家宣公)霊廟 唐門側面
この造りを見ると、お墓なんだな、と実感する。奥にも、別の将軍の霊廟が建っていることもわかる。建ち並んだ姿は、さぞかし壮観だっただろう・・。

文昭院(六代家宣公)霊廟 唐門側面の写真

有章院(七代家継公)霊廟 勅額門
門の細工が目を見張る美しさ・・・・!龍が今にも飛び出しそうである。門の前にはたくさんの石灯籠と思われる姿もある。増上寺へ向かう途中、石灯籠が並んでいたであろう残骸をいくつも見つけたのだが、あれもこれらの痕跡だったりするのだろうか。

有章院(七代家継公)霊廟 勅額門の写真

崇源院(お江の方)霊牌所 内部
写真を見ると、3つ並んでいるようだが何故?また調べてみたい。

崇源院(お江の方)霊牌所 内部の写真

大正時代の貴重な写真

大正時代の徳川氏霊屋
増上寺の本堂を挟む形で、将軍たちの霊廟が南北に建ち並んでいたとのこと。

各お墓について

徳川家墓所 増上寺 説明
徳川家墓所 増上寺 説明

内部は、コの字型に整列して埋葬されている。それぞれ、形が微妙に異なり趣が違う。作られた時代背景を感じることができる。


2代将軍 秀忠公 宝塔

・家康公第三子
豊臣秀吉から一字貰い「秀忠」とする
・54歳没

2代将軍 秀忠公 宝塔
2代将軍 秀忠公の説明

6代将軍 家宣公 宝塔

・家光公三男綱重の子
生類憐みの令を廃止
新井白石を重用し、正徳の治を   成し遂げた
・51歳没

6代将軍 家宣公 宝塔
6代将軍 家宣公の説明

7代将軍 家継公 宝塔

・家宣公の第3子
わずか3歳で7代将軍職を継ぐ
・7歳没

7代将軍 家継公 宝塔
木陰で見えづらいが「家継」と書かれた看板がある。
7代将軍 家継公の説明

9代将軍 家重公 宝塔

吉宗公の長子
・生まれつき病弱であった。
・後継者争いを避けるため、「現将軍の最長子が相続者」とのことで将軍職を継いだ。
・51歳没

9代将軍 家重公 宝塔
9代将軍 家重公の説明

12代将軍 家慶公 宝塔

・家斉公第2子
・老中首座水野忠邦による「天保の改革」を行った。
・父である家斉派を粛正
黒船来航時の将軍
・60歳没

12代将軍 家慶公 宝塔
12代将軍 家慶公の説明

14代将軍 家茂公 宝塔

14代将軍 家茂公
・11代家斉公の養子、斉順の子
・日米通商問題
井伊直弼の安政の大獄
皇女和宮を正室に迎える
・20歳没

14代将軍 家茂公 宝塔
14代将軍 家茂公の説明

和宮の宝塔

和宮の画像

・14代家茂公の正室
江戸城無血開城に尽力
・31歳没

和宮の宝塔

この宝塔は当時のもので、家茂の石塔に対して青銅製となっているそう。菊の御紋章があるとのことだが、あとから知ったので確認できず。残念。

和宮の説明書き

合祀の宝塔

合祀の宝塔
合祀塔の説明

スポンサーリンク

旧台徳院霊廟惣門(2代将軍 秀忠公)

旧台徳院霊廟惣門(2代将軍 秀忠公)
旧台徳院霊廟惣門(2代将軍 秀忠公)

旧台徳院霊廟惣門(2代将軍 秀忠公)
増上寺から少し歩いた場所にある。あたりが少し開けており、後ろには東京タワーが見える。良い眺め。

徳川家綱霊廟勅額門(4代将軍 家綱公)

家光公の長子
・保科正之(2代将軍家光の子)を重用し、文治政治を行った。
・39歳没

徳川家綱霊廟勅額門(4代将軍 家綱公)

こちらは上野寛永寺にある

徳川綱吉霊廟勅額門(5代将軍 綱吉公)

家光公の四男
・館林徳川家の創設
・堀田正俊を大老とした
生類憐れみの令を行う
・66歳没

徳川綱吉霊廟勅額門(5代将軍 綱吉公)
徳川綱吉霊廟勅額門(5代将軍 綱吉公)

徳川将軍家のもう一つの菩提寺である上野寛永寺については、下記のサイトを参考ください。

まとめ

徳川墓所を巡る東京散歩が終わった。地図上で見ると狭い範囲だが、たくさんのポイントが詰まっており、全て見て回るには半日必要だった。徳川の在りし日をしのぶことが出来る、貴重な日となった。

アクセス

住所 増上寺 徳川将軍家墓所(御成門)

所在地東京都港区芝公園4丁目7
最寄駅「JR線・東京モノレール 浜松町駅」下車 徒歩10分
「都営地下鉄三田線 御成門駅」下車 徒歩3分
「都営地下鉄浅草線・大江戸線 大門駅」下車 徒歩5分
「都営地下鉄大江戸線 赤羽橋駅」下車 徒歩7分
「東京メトロ日比谷線 神谷町駅」下車 徒歩10分
駐車場情報駐車場なし
公式サイトhttps://www.zojoji.or.jp/

GoogleMap

住所 寛永寺 徳川将軍家霊廟(上野)

所在地東京都台東区上野桜木1丁目16−32
最寄駅「JR線・上野駅」下車 徒歩20分
「京成線・京成上野駅」下車 徒歩20分
駐車場情報駐車場なし
公式サイトhttps://kaneiji.jp/#gsc.tab=0

GoogleMap

合わせて読みたい徳川家に関連する記事

上野東照宮の御朱印|江戸初期に建立された当時の社殿は華やかで荘厳な造りであった(東京都上野)
あの徳川家康公を祀る神社。それが東照宮。ここは江戸の人々にもお参りに行けるよう、日光東照宮に準じた豪華な社殿が立てられた。戊辰戦争にも、関東大震災にも、東京大空襲にも難を逃れ、江戸初期の姿のまま残っている貴重な社殿である。
増上寺の御朱印|徳川将軍家菩提寺の御朱印を徹底解説!境内の案内板も詳しく掲載します。(東京都 芝)
増上寺は、歴代徳川将軍の墓所が置かれており、徳川家の菩提寺となっている。家康が大切にしていた「黒本尊」も祀られており、とても縁の深いお寺だ。
日光東照宮の御朱印|何が違う?平成の大改修を終えた日光東照宮(栃木県 日光市)
日光東照宮の御朱印 1617年(元和3年)、徳川家康(東照大権現)をご祭神に祀った神社 「久能山東照宮」「上野東照宮」とともに三大東照宮に数えられる 家康が亡くなった翌年に、遺言状に従う形で久能山から日光東照宮へ遷された 1645年(正保2年)、宮号を賜り「東照宮」と呼ばれるようになる 現在の主な社殿は、3代将軍家光により、1636年(寛永13年)に建て替えられたもの 隣接する輪王寺は、源頼朝の時代から東国の宗教的権威となっていた 家康が東照宮をここに置いた理由と考えられる
徳川家霊廟|徳川家のお墓っていったいどんなところ?霊廟と将軍について完全ガイド(東京都 増上寺/寛永寺)
増上寺境内に祀られている徳川家の歴代将軍の墓所が一般公開されていると知り、増上寺へと向かった。境内のこじんまりとした一角に将軍たちが埋葬されているが、戦前までは立派な霊廟が立ち並んでいたそうだ。当時に思いを馳せながら手を合わせる。
赤坂氷川神社の御朱印|徳川吉宗が建立した当時の姿をそのまま今に残す神社(東京都 赤坂)
「東京十社」に数えられる赤坂氷川神社は一千年以上の長きにわたり、「厄除け」と「縁結び」の信仰を受け継ぐ歴史ある神社だ。徳川吉宗公によって建立された社殿は、多くの災害を免れ、建設当時の風格を今に伝える貴重な建築物と言える。その立地は都心の一等地にあるにもかかわらず、境内は美しい緑に囲まれており、江戸時代の趣を感じさせる鳥居、狛犬、灯籠など、数多くの貴重な江戸の景観が残されている。
良玄寺(本多忠勝の墓所)|徳川四天王の一人「本多忠勝」のお墓へ行ってきた(千葉県 大多喜町)
大多喜城下町の名残を残す町並みに、ひっそりと佇む良玄寺。大河ドラマ「どうする家康」でも活躍中の本多忠勝と、大坂夏の陣で戦死した息子「忠朝」が眠る墓所がある。遠くには大多喜城も望むことができる。
喜多院の御朱印|江戸城の徳川家光公誕生の間が残っているお寺!(埼玉県 川越市)
喜多院の一部は、江戸城の建物を移築して建立されていることで知られる。その喜多院には江戸城の風情が残されており、戦乱や火災による炎上を何度もくり返しながらも復興を繰り返し、その姿を今に伝えている。参拝日:2015年6月24日お寺の紹介「元三大...[続きを読む]
日光山輪王寺の御朱印|徳川三代将軍「家光」が眠る輪王寺(栃木県 日光市)
輪王寺の御朱印 徳川家光の霊廟である「大猷院廟」がある、世界遺産のお寺 「東照宮」「二荒山神社」「輪王寺」を総称して「二社一寺」と呼ばれる 766年(天平神護2年)に、勝道上人が開山 平安時代、空海・円仁が訪れる 鎌倉時代、源頼朝の寄進などにより東国の宗教的権威として栄える 江戸時代、徳川家康の東照宮、三代将軍家光の大猷院廟(家光の法号)が建立される 天海大僧正(慈眼大師)が住職となり家康公を「東照大権現」として日光山に祀る さらに慈眼大師・三代将軍家光も祀られ、後続出身の僧侶が幕末まで管理するようになる
芝東照宮の御朱印|徳川家康を祀るあの東照宮が東京タワーの近くにあった??(東京都 港区芝公園)
芝東照宮の御朱印 江戸時代初期の1617年、増上寺の境内に創建 増上寺は徳川家の菩提寺 家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」より「安国殿」と呼ばれている 徳川家康の「寿像」をご神体とする 還暦記念に自身の像を家臣に彫らせたもの 「芝東照宮」「日光東照宮」「久能山東照宮」「上野東照宮」は四大東照宮と呼ばれる 明治の神仏分離令により増上寺から切り離され、現在の芝東照宮となった 1945年の東京大空襲により「寿像」と神木であるイチョウを残し、全て焼失 1969年に現在の社殿が再建された
最福寺の御朱印|徳川家康と日善上人の関係性とは(千葉県 東金市)
ご朱印 最福寺  最福寺の住職であった日善上人と徳川家康との出会いは、鷹狩りのため家康公が東金を訪れたことがきっかけだった。鷹狩り期間中、最福寺御殿にて対談したとの記録が残っている。半年後、豊臣征伐の決断ができずにいた家康公は、駿府城へ日善上人を招き密談を行っている。ここでのやり取りが決定的となり、家康公は豊臣征伐を決定し、後の大坂夏の陣へと進んでゆくのであった。

Translate »
error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました