高幡不動金剛寺の御朱印|新選組副長土方歳三ゆかりのお寺に行ってきた(東京都 日野市)

土方歳三
土方歳三寺院新選組!東京都
数年前に一度訪れたお寺に再び足を運んだ。このお寺は新選組のゆかりでも有名で、ファンとしては一度は訪れたい場所だ。また、関東三大不動の一つに数えられる不動堂があり、そこには他では見られない少し変わった像が安置されているのも見所の一つだろう。

参拝日:2023年2月27日
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お寺の紹介

  • 関東三大不動(成田山 新勝寺・不動ヶ岡不動尊 總願寺)のひとつ
  • 平安初期、清和天皇の勅願により「慈覚大師円仁」が山中に不動堂を建立したのが始まり
  • 1335年(建武2年)、大風で堂宇が倒壊し、麓に移したのが現在の不動堂
    • 仁王門と並び、重要文化財に指定
  • 「汗かき不動」と呼ばれ、鎌倉時代には多くの武将から尊崇された
  • 江戸時代には火防の不動尊として人々から信仰された
    • 関東十一檀林として多くの僧たちが学んだ
  • 新選組副長「土方歳三」の菩提寺で、境内には歳三の銅像や碑がある
    • 奥殿には歳三の書簡の他、多くの新選組に関する資料を展示
    • 歳三の墓所、石田寺はここの末寺の一つ
高幡不動尊 薬師堂

正式名称

 高幡山 明王院 金剛寺こんごうじ  通称|高幡不動尊

宗派

 真言宗 智山派ちさんは 別格本山

御本尊

 不動堂|不動明王ふどうみょうおう

 大日堂(本堂)|大日如来だいにちにょらい

よく分かる!「高畑不動尊」御朱印の説明

解説

①[奉拝ほうはい
謹んで参拝をすること。
お寺に参拝したことを意味する。
②[多摩新四國第八十八番]の印
多摩新四国八十八ヶ所霊場の最後の場所。
③[弘法大師御作]
空海が不動明王を置いたことが始まりとされている。
④[梵字と不動明王
不動明王を表す梵字(カーン)が書かれている。
宝印
不動明王を表す梵字「カーン」の宝印。
[武州 髙幡山」
武州は旧国名の「武蔵国」を指し、東京と埼玉及び神奈川の一部を含む一帯の地域を指す。
【武州高幡山】の印
お寺の印。

御朱印

高幡不動尊の御朱印
高幡不動尊の御朱印

御朱印所

高幡不動尊の御朱印所

奥殿の裏手に町役場のような建物があり、そこで御朱印をいただくことができる。

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みどころ

境内MAP

高幡不動尊の境内案内図

高幡不動尊の社号標柱

高幡不動尊の寺号標柱

標柱には「金剛密寺こんごうみつじ」と彫られている。

高幡不動尊の仁王門

高幡不動尊の楼門

銅板葺きの楼門。扁額には山号の「高幡山」の文字が書かれている。

高幡不動尊 金剛寺仁王門の説明

重要文化財(建造物) 金剛寺仁王門 昭和21年(1946) 11月29日指定

 桁行3間、梁行2間の堂々たる威容を誇る仁王門は建築時期を特定できる史料がないが、 建築様式から室町時代後期(15世紀中頃から16世紀中頃)の建立と考えられている。江戸時代の地誌には単層茅葺、楼門 (2階建)、二様の図が見られ、仁王門は何度かその上部構造を変えてきたようである。昭和34年から35年にかけて行なわれた解体修理工事時の木組の調査で、当時は外見上単層となっていたが、本来は楼門として計画されていたことを疑う余地がなくなった。そのため、重層入母屋造に復原され、屋根は茅葺型の銅板葺となった。平成27年には屋根の葺替と耐震補強工事が行われた。
 平成27年(2015)10月1日 日野市教育委員会

仁王門前の案内看板より

仁王尊

高幡不動尊の仁王像
高幡不動尊の仁王像

この仁王尊は室町時代の作で、歴史を感じる。

高幡不動尊の楼門

門の裏側はこのようになっている。枝垂桜と門が調和していて、とても美しい。

高幡不動尊の手水舎

大きな楼門を抜けると左手すぐに、手水舎がある。

土方歳三の銅像

高幡不動尊 土方歳三像

門を入って左手には土方歳三の銅像が立ち、境内を見下ろしている。幼いころ、ここ高幡不動の境内で彼は遊んでいたと言われている。

高幡不動尊 土方歳三像
高幡不動尊 土方歳三の説明

幕末新選組副長土方歳三義豊は土方義淳の第四子として日野の石田に生る 
生来聡明多感にして剣の道を天然理心流近藤邦武先生に学ぶ 
文久三年幕府の募集に應じて浪士組に参加将軍家茂公警護の為上洛す 
京都守護職松平容保公の預りとなり更めて近藤勇を頭に新選組を結成し自らは副長として市中見廻り警護につとめ池田屋事件禁門の変等に勇名を轟かす 
然し激動の時代こと志と違って賊軍の汚名を被せられ鳥羽伏見の戦の後、慶喜公に従って海路江戸に戻り、以後勝沼、宇都宮、会津と転戦し、明治二年五月十一日箱館戦争のさ中に戦死す
多摩の風土に育まれ義に生き節に殉じた歳三の三十五年の生涯は、没後百数十年を経た今も男の美学として廣く語り継がれている
先に明治九年高幡山第二十九世賢雅和上は境内に近藤・土方両雄の碑を建ててその殉節を顕彰するも更に此の度東京日野ロータリークラブ会員一同、クラブ創立三十周年記念事業として、弁天池々畔に出陣姿の土方歳三像を建立してその事績を永く後世に伝えんとするものである
維時 平成七年十一月三日 高幡山金剛寺中興第三十三世 貫主裕勝撰弁書
東京日野ロータリークラブ

土方歳三像の案内看板より

銅像の裏手には、土方歳三の生涯が書かれている。

高幡不動尊 土方歳三像

いったいどこを見ているのか。

高幡不動尊 土方歳三像

高幡不動尊の不動堂

高幡不動尊 薬師堂

こうして見ると、日本昔話に出てきそうな建物だ。

高幡不動尊 薬師堂
高幡不動尊 薬師堂

こちらの仏殿に、不動堂の御本尊である不動明王が祀られている。

花まつりと花御堂

花まつりと花御堂
高幡不動尊 四月八日花まつりの説明

四月八日花まつり
およそ二千五百年前の四月八日、お釈迦さまの誕生を祝って空より竜王が甘露の香水を濯きかけ、諸天神が美しい花々を散らしたという言い伝えから花御堂に釈迦誕生仏をまつり甘茶をかけて誕生をお祝いするのです

不動堂前 四月八日花まつりの案内看板より

花まつりと花御堂

四月八日のお釈迦様の誕生を祝って、空から竜王が甘露の香水を掛け、美しい花が咲いたとの伝説から、釈迦誕生仏を祀り、甘茶を掛けて誕生をお祝いするそう。

高幡不動尊 不動堂内

不動堂内は広く、中央に御本尊が祀られている。

不動明王坐像

よく見ると、不動明王の右側の像が不動明王の方を見上げている。こんな像はなかなか見ない。面白い。この後も同じような像が出てきた。

高幡不動尊の奥殿

丈六不動三尊像を中心に、様々な文化財を収蔵・展示するための御堂。

高幡不動尊 木造 不動明王像及び両童像の説明

重要文化財 木造 不動明王像及び両童子像 (十一世紀~十二世紀初頭)

関東地方唯一の平安時代作の巨像である。南北朝時代に大修理を受けているが気宇の大きな造形は関東武士勃興期の気分を十分に伝えている。
古来日本一の不動三尊と称えられ火炎を含めた三尊の総重量は一、一〇〇キロを越す。材質は中尊が檜と榧・こんがら童子は朴・せいたか童子は橡とそれぞれである。不動明王像は正統的な作風を示すが、二童子像はユーモラスな姿体で地方的な味わいがある。

奥殿 不動明王前の案内看板より

扉は閉まったままで、中に入ることはできない。

内部は撮影禁止のため、この角度から。
外から覗いてみると、とても綺麗で大きな不動明王が座しており、その両隣にある童子の像が安置されていた。先の不動堂内部の配置と同じように安置されていた。童子の像のうち1体は不動明王を見上げるような仕草をしており、他のお寺ではなかなか見られない面白い姿だ。

上杉憲顕の墳

奥殿の右側の建物が、上杉憲顕のりあきのお墓とされる「上杉堂」。

高幡不動尊 上杉堂の説明

上杉堂(上杉憲顕の墓)

上杉憲頭は氏憲(禅秀)の子、享徳四年正月 (一四五五年)足利成氏の軍と立川原に合戦、深手を負い高幡寺に入り自刃した。自然石はその墓標で、俗間信仰に茶陽石(服石)と言い百か日、忌沸い供養の伝承がある
(鎌倉大草紙)

上杉堂前の案内看板より

関東公方(室町幕府による鎌倉府の長官)の足利氏と関東管領の上杉氏の戦いにより、足利成氏が上杉憲顕をここ高幡不動に追い込み、自害させたと伝えられているとのこと。

中は千羽鶴など供養の品が多数ある。

高幡不動尊の「山内八十八ケ所巡拝」

時間に余裕があったため、普段は決して行わない「山内八十八ヶ所巡り」を試みてみた。

あまり変わらないように見えて、一体一体表情や恰好が少しずつ異なる。

一旦ここで、写真を撮るのを断念。

丁度半分の四十四番まで来た。
と、言っても距離ではまだ1/3と言ったところか。

見晴台からの景色

そこまで高い山に登った感じはなかったが、眺めは素晴らしかった。

高幡城址

高幡不動尊 高幡城址の説明

高幡城址

不動ヶ丘一帯に中世高幡城が築かれました
頂上の広場は本丸あとと伝えられています
麓には根小屋陣川戸等城址ゆかりの地名が残っています

高幡城址前の案内看板より

ここに高幡城があったのか。
気になるので、ちょっと寄り道をしてみた。

当時のお城の名残が残っているのかな。と期待を胸に。

石段を登り、少し開けた広場にでる。何か看板でもあるかと思い、更に奥へ進んでみたが特にこれと言った遺構を発見することはできなかった。やはり、何も目印が無いと発見するのは難しい。あとから調べてみると、やはりこの場所に簡素な城が建築されていたとのこと。室町時代には既に築城されていたらしい。
馬場跡もよく分からなかった。残念・・。

さて、気を取り直して続きの山内八十八ケ所巡を行う。
途中、五重塔の裏手に来た。

五重塔を少し見下ろす位置にいる。結構高いところまで来たんだな。

道を進むと、やがて五重塔が段々と近づいてくる。終わりが見えて来た!

そして

ついに最後の八十八番まできた!ありがたや~。

八十八個のお願いを一日ですることは無いかもしれないが、とても面白い体験だった。いつか本家の四国八十八か所お遍路をしてみたい。

高幡不動尊の五重塔

朱塗りの五重塔、美しい。

高幡不動尊の五重塔の内部

この仏像は「観世音菩薩」と言い、タイの仏様なのだそう。確かに、どことなく腕や指先にタイの香りを感じる。

大師堂

ちょっと落ち着いた雰囲気のある空間。このようなお寺がとても好きだ。

真新しい建物であるが、これは1779年の焼失以来、230年ぶりにようやく再建されたとのこと。

大師堂内へ

広い部屋ではないため、この祭壇の存在感がすごい。そして、弘法大師様が美しく輝いていらっしゃる。

南無遍照金剛南無遍照金剛南無遍照金剛南無遍照金剛南無遍照金剛南無遍照金剛南無遍照金剛・・・

天井の装飾が、とても見事だ!

大日堂

この大玄関は桃山時代の様式で、至る所に彫刻が施されている。
※この奥が高幡不動尊の本堂であるが、写真を撮り忘れる失態。次回の再訪が決まった。

弁天堂

駐車場の近くにあるのがこの弁天堂。

お寺から、急に神社の朱塗りの小堂が現れるのは面白い光景だ。

この弁天橋を渡ると、弁天堂がある。

福徳弁財天を祀っているとのこと。

高幡不動尊 弁天堂の石燈籠

なんとも愛嬌のある燈籠に見え、気に入ってしまった。

灯篭をパチリとしたら、遠くにお饅頭のお店と歳三が入り込み、ベストショット。

おしまい

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アクセス

住所

所在地東京都日野市高幡733
最寄駅「京王線 高幡不動駅」下車 徒歩3分
駐車場情報専用の無料駐車場あり
公式サイトhttps://www.takahatafudoson.or.jp/

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