良玄寺(本多忠勝の墓所)|徳川四天王の一人「本多忠勝」のお墓へ行ってきた(千葉県 大多喜町)

どうする家康
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大多喜城下町の名残を残す町並みに、ひっそりと佇む良玄寺。大河ドラマ「どうする家康」でも活躍中の本多忠勝と、大坂夏の陣で戦死した息子「忠朝」が眠る墓所がある。遠くには大多喜城も望むことができる。

参拝日:2023年5月14日
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お寺の紹介

  • 1595年(文禄4年)、大多喜城主「本多忠勝」が菩提寺として「良信寺」を創建
    • 開山は照誉了学
  • 大坂夏の陣で息子「忠朝」が戦死すると、忠朝の法号を取って現在の「良玄寺」に改称
  • 忠勝の分骨が埋葬されている
    • 「勢州桑名城」へ領地を変えており、桑名のお寺に埋葬されたため分骨された

正式名称

 金澤山きんたくざん 山王院さんのういん 良玄寺りょうげんじ

宗派

 浄土宗

御本尊

 阿弥陀如来

御朱印

 なし

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みどころ

良玄寺の説明看板

あの猛将「本多忠勝」が菩提所として開山した「良信寺」が現在の「良玄寺」の起源である。

良玄寺の説明

大多喜メモリアル・ルート
良玄寺 浄土宗

天正十八年(一五九〇)十万石の領主として大多喜へ入城した本多忠勝は、菩提所としてここに良信寺を建立して、下総小金(現、松戸市) 東漸寺の僧了学を招き開山とし、寺領に百石を寄進しました。
 慶長五年(一六〇〇)関ヶ原合戦の翌年に忠勝は、伊勢桑名へ移封となり、二男の忠朝が五万石で大多喜城主になりました。元和元年(一六一五)忠朝は大坂夏の陣で戦死し、甥にあたる政朝があとをつぎ、寺の名を忠朝の法名をとって良玄寺と改めました。
 この寺を開いた了学は、のちに、飯沼弘経寺(現 水海道市)を再興しましたが、忠勝没後、桑名に西岸寺を開いて、再び弘経寺へ帰りました。そののち寛永九年(一六三二)了学は、徳川秀忠に召されて江戸に入り、芝増上寺十七世となりました。
 寺に伝来する紙本着色本多忠勝画像は、特色ある 武将の像としてすぐれた作品であり、県指定文化財になっています。 
 また、境内にある忠勝・忠勝夫人・忠朝の五輪の墓碑や寺領寄進状などは、町指定文化財になっています。
 平成二年三月 大喜町

良玄寺前にある案内看板より

良玄寺本堂

大多喜町の街道から少し入った「良玄寺」。あたりに人がいる気配がなく、御朱印の授与場所が最後まで分からなかった。残念。

白地に赤い文字で「本」と書かれた旗があるが、その前は小さなお堂が建っていた。

良玄寺前にある小堂の地蔵菩薩

良玄寺の前に建つ、小さなお堂。早速中を覗いてみよう。

どれどれ

地蔵菩薩が金色に輝いていた。説明看板等が無く由来はわからなかったが、地元を見守っているのだろう。

良玄寺の扁額

良玄寺の山号「金澤山きんたくざん」と書かれている。

良玄寺の本堂内

本堂の扉には小さな窓があり、そこから中を覗くことができた。早速カメラを突っ込んで内部をパチリ。

建物の中は、美しい装飾が施されており、圧倒された。特に天井絵の美しさには、思わず息を呑むほどだった。

写真を反転するとこんな感じ。美しい天女と色とりどりの花や鳥たちが描かれている。

右側には、徳川家康の重臣である本多忠勝の肖像画、「紙本著色本多忠勝像」の複製が飾られている。この絵は良玄寺が所有しているのだそう。

本堂左側はこんな感じ。

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本多忠勝の紹介

  • 戦国時代から江戸時代前期にかけての武将で、徳川氏の家臣
  • 徳川四天王の一人(本多忠勝・酒井忠次・榊原康政・井伊直政)
  • 徳川十六神将徳川三傑の一人でもある
  • 上総大多喜城主伊勢桑名藩初代藩主
  • 生涯で、大小合わせて57回の合戦に参加し、かすり傷一つ追わなかったと伝えられる

鹿角脇立付兜ろっかくわきだてつきかぶとをかぶり白毛采配しろげさいはいを手に持つ姿は、勇猛果敢な戦国武将の勇気・決断力を表している。

本多忠勝公のお墓へ

本多忠勝・忠朝の墓碑は、お寺右手「忠勝公園」の奥にある。

良玄寺の説明

忠勝公園

 大多喜城主となった本多忠勝は、文禄四年(一五九五)下総小金(松戸市) 東漸寺の住職了学上人を招いて、菩提寺良信寺を建立し、寺領として百石を寄進した。
 墓地には本多忠勝、同夫人、次子忠朝の墓がある。忠勝は慶長一五年(一六一〇)六三歳で桑名また、一説には江戸で没したともいわれ、桑名浄土寺に葬られたが、分骨して建立したものである。
 忠勝夫人は、忠勝が桑名へ転封後もこの地に残り、慶長一八年(一六一三) 大多喜城で没したと伝えられている。忠朝は、大阪夏の陣で壮烈な戦死をとげ(時に三四歳) 大阪一心寺に葬られたが、分骨しここに埋め、その法号により良信寺は良玄寺と寺号を改めた。
 現在もこの墓所は、町指定文化財として残っており、平成一七年三月墓所に隣接した場所に公園が整備され、忠勝公園として、地域住民に親しまれ今日に至っている。
(「大多喜町の歴史と史跡」より)

忠勝公園にある案内看板より

お寺・墓地と隣接する形で、小さな公園がある。本多忠勝ゆかりの地として、平成17年に公園が整備されたとのこと。ちょっとした休憩に良い。

この公園を抜けるたすぐ先に墓地がある。

墓地の一番奥まで進むと、本多忠勝の墓がある。

本多忠勝公墓所

|忠朝(忠勝公の次男)
中央|本多忠勝
|忠勝夫人

本多忠勝は1610年に亡くなった。当時、桑名の藩主だったので、そのまま桑名の浄土寺に葬られた。しかし、千葉県大多喜町の良玄寺にも分骨された。

[本多忠勝]
 法名|西岸寺殿前中書長誉良信大居士
 大多喜城主 本多中務大輔忠勝候 慶長十五年十月十八日卒去行年六十三歳
[本多忠朝]
 法名|三光院殿前雲州岸譽良玄大居士
 大多喜城主 本多出雲守忠朝候 元和元年五月七日大坂夏の陣に於て戦死行年三十四歳

おしまい

良玄寺からは大多喜城が良く見える。忠勝は城から今でも大多喜を見守っているのかもしれない。

アクセス

住所

所在地千葉県夷隅郡大多喜町新丁180
最寄駅「いすみ鉄道 大多喜駅」下車 徒歩15分
駐車場情報専用の無料駐車場あり(若干数)
公式サイトhttps://www.jodo-chiba.jp/contents/syokai/4077_ryogenji.htm(浄土宗千葉教区)

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