江戸傳馬町牢屋敷跡|明治初期まで260年以上、延べ数十万人を収容した江戸時代最大の牢獄(東京都 日本橋小伝馬町)

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伝馬町牢屋敷は名前に「牢屋」とあるものの、実際には未決囚を収監したり、死刑囚に刑を執行する場所として機能していた。現在の「拘置所」に近いと言われている。今では子供たちでにぎわう公園に姿を変え、ここに牢屋があったことは誰も知らないかのような様子である。ただ、隣接するお寺やひっそりと建てられている石碑が当時の様子を今に伝えているのみだ。 訪問日:2023/6/4

目次

傳馬町牢屋敷跡(てんまちょうろうやしき)とは

  • 現在の日比谷線「小伝馬町駅」周辺にあった江戸最大(2,618坪)の牢屋敷
  • 刑務所ではなく、未決囚を収監し死刑囚を処断する「拘置所」に近い施設だった
    • 江戸時代の刑法には懲役刑や禁固刑が存在しなかった
  • 天正年間に常盤橋外に設けられた牢屋敷が、慶長年間に小伝馬町へ移設された
  • 1875年(明治8年)、「市谷監獄」設置により閉鎖
  • 収容された有名な人物:吉田松陰・高野長英・橋本左内・渡辺崋山・八百屋お七・平賀源内
    • 吉田松陰は、1857年「安政の大獄」の際、老中暗殺計画の咎により死刑となった
  • 牢屋敷の責任者である牢屋奉行は「石手帯刀」と名乗り、石手家の代々世襲であった
    • 配下には40~80人程度の牢屋役人と、獄丁(いわゆる看守)50人程度がいた
  • 牢獄は東牢と西牢に分かれ、囚人は身分によって収容される牢獄が異なっていた
    • 大牢・二間牢:庶民
    • 揚屋:御目見以下の幕臣(御家人)、僧侶、医師、山伏など
    • 揚座敷:御目見以上の幕臣(旗本)、身分の高い僧侶、神主など
      • 1683年(天和3年)に新しく設置された
    • 西牢の揚屋(女牢):身分関係なく女囚全般
  • 収容者は大体300~400人程度
  • 牢内は囚人によって完全な自治制度が敷かれていた
    • 牢屋役人ですら権限の及ばない世界
    • 囚人の中から「牢名主」として幕府から指名された者が、牢屋内の取り締まりの頭となる
    • 収容人口が増えすぎると「作造り」と呼ばれる口減らしが横行した
      • 標的:規律を乱す者、元岡っ引き、密告者、鼾のうるさい者、金品の差し入れがもらえない者など
      • 死亡時には病死として届け出られ、特にとがめられることもなかった
  • 牢獄内の環境は劣悪だった
    • 窓は無し、風通しも悪く、日光も入らない
    • 栄養状態は悪く、トイレが牢内にあった
    • 飛び火や疥癬などの皮膚病が蔓延
    • 体を壊したものは、牢屋よりやや処遇が緩和された「溜」に収容される

伝馬町牢屋敷(十思公園)の看板

十思公園 江戸三縁史蹟~銅鏡石町時の鐘の説明

十思公園ご案内
東京都指定有形文化財 銅鏡石町時の鐘 一口
所在地 中央区日本橋小伝馬町 
所有者 中央区
銅 鐘 高さ一七米口径九三糎 宝永辛卯四月推名伊豫藤原重休
    昭和二十八年十一月三日 東京都教育委員會

 江戸時代最初の時の鐘で、二代将軍秀忠の時は江戸城内の西の丸でついていたが鐘楼堂が御座の間の近くで差障りがある為、太鼓にかえて鐘は日本橋石町に鐘楼堂を造って納めたのが起源で、明暦三年、寛文六年、延宝七年と三度も火災にあい破損したので、その後身として宝永八年に鋳造されたのがこの宝永時鐘である。音色は黄渉調長久の音という。享保十年旧本石町三丁目北側の新道の間口十二間奥行十九間三尺の土地に鐘楼堂を建て、時銭として一軒につき一ヶ月永楽銭一文ずつ当鏢で四文ずつを商業地區の大町小町横町計四百十ヶ町から集めて維持していた。鐘役は最初から代々辻源七が当たっていたので、辻の鐘とも呼ばれていた。鐘楼下では俳人蕪村が夜半亭と名づけて句会を催して深川の芭蕉庵と共に有名であった。当時江戸には日本橋 石町、浅草、本所、横川町、上野芝切通、市ヶ谷八幡、目黒不動、赤坂田町、四谷天竜寺の九ヶ所に時鐘があったが石町時鐘はその最古のものである。石町鐘楼堂から二丁程の所に伝馬町獄があった。囚人たちは種々な思いをこめてこの鐘の音を聞いたことであろうし、処刑もこの鐘の音を合図に執行されたが処刑者の延命を祈るかのように遅れたこともあって、一名情けの鐘ともい伝えられている。 幕末時鐘廃止後は 石町松沢家の秘蔵となっていたが、十思後援会が寄進を受けて昭和五年九月十思公園に宝永時鐘々楼を建設し当時の市長永田秀次郎殿で初撞式を挙行した後東京都に寄進した。

十思公園前の案内看板より

十思公園 江戸三縁史蹟~傳馬町牢屋敷跡の説明

東京都指定旧跡 傳馬町牢屋敷跡

所在地 中央区日本橋小伝馬町五
所有者 東京都 (中央區管理)
地 積 一三四五坪(二二尺四方)
昭和二十九年十一月三日 東京都教育委員會

 伝馬町牢は慶長年間、 常盤橋際から移って明治八年市ヶ谷囚獄が出来るまで約二百七十年間存続し、この間に全国から江戸伝馬町獄送りとして入牢した者は数十万人を数えたといわれる。現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、十思小学校、十思公園を含む一帯の地が伝馬町牢屋敷跡である。 当時は敷地総面積二六一八坪、四囲に土手を築いて土塀を廻し南西部に表門、北東部に不浄門があった。 牢舎は揚座敷、揚屋、大牢、百姓牢、女牢の別があって、揚座敷は旗本の士、 揚屋は士分僧侶、大牢は平民、百姓牢は百姓、女牢は婦人のみであった。
 今大安楽寺の境内の当時の死刑場といわれる所に地蔵尊があって、山岡鉄舟筆の鋳物額に「為囚死群霊離苦得脱」と記されてある。牢屋敷の役柄は牢頭に大番衆石出帯刀、御啄場死刑場役は有名な山田浅右エ門、それに同心七十八名、獄丁四十六名、外に南北両町奉行から与力一人月番で牢屋敷廻り吟味に当たったという。伝馬町獄として未曽有の大混乱を呈した安政五年九月から同六年十二月までの一年三ヶ月の期間が即ち安政の大獄で吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等五十余人を獄に下し、そのほとんどを刑殺した。その後もこゝで尊い血を流したものは前者と合わせて九十六士に及ぶという。これ等愛国不盡忠の士が石町の鐘の音を聞くにつけ「わが最期の時の知らせである」と幾度となく覚悟した事であろう。尚村雲別院境内には勤王志士九十六名の祠と木碑が建てられてある。

十思公園前の案内看板より

十市公園 江戸三縁史蹟~吉田松陰先生終焉之地の説明

吉田松陰先生終焉之地

 吉田松陰先生は天保元年(西暦一八三〇年) 八月四日長州萩の東郊松本村で杉家の二男として生まれた。幼い頃に吉田家をついだ。成人しての名を寅次郎という。吉田家は代々山鹿流兵学師範の家であったので、早くから山鹿流兵学その他の学問を修め、その道を究めて、子弟の教育につとめた偉人である。 安政元年三月師の佐久間象山のすゝめで 海外渡航を計画し、下田から米艦に便乗しようとして失敗、下田の獄につながれたが伝馬町獄送りとなって途中、高輪泉岳寺の前で詠んだのが有名な次の歌である。「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」 同年九月まで約六ヶ月間伝馬町獄に留置されていたが、国元萩に謹慎の身となって帰って後の松下村塾での教育が最も偉大な事業であろう。薫陶を受けた中から有爵者六名、贈位者十七名、有位者十四名等多くの著名の士が出て中でも伊藤博文、山県有朋、木戸孝允等は、明治維新の大業に勲功のあった人物である。わが国歴史の上での三大変革といえば大化の改新、鎌倉幕府の創立、明治維新の三であるが、その明治維新にこれら松下村塾生の働きが大きな力となったことを深く考えたいのである。 後松陰は安政の大獄に連座して再び伝馬町獄に入牢となった。安政六年七月九日江戸の長州藩邸から始めて評定所に召出されたが、その時「まち得たる時は今とて武蔵野よいさましくも鳴くくつわ虫かな」と決心を歌にのべている。しかし幕府の役人を動かすことが出来ず、その後の三回の取調べで死刑を覚悟した十月二十二日に父、叔父、兄へ宛て永訣の書を送っているがその中にあるのが「親思ふ心にまさる親ごころけふのおとづれ何と聞くらん」の一首である。また処刑の時の近づいたのを知って 十月廿五日より廿六日の黄昏までかゝって書きあげたのが留魂録でその冒頭に「身はたとひ武さしの野辺に朽ちぬともとゞめ置かまし大和魂」十月念五日 二十一回猛士 と記してある。 松陰はこれを同囚で八丈島に遠島になった沼崎吉五郎に託したが二十年後当時神奈川県令で塾生であった野村靖に手渡したものが現在残っている留魂録である。それによって当時の法廷の模様、訊問應答の次第、獄中の志士の消息等がわかり、自己の心境と塾生の行くべき道を示したもので崇高な松陰魂の指南書ともいえるものである。安政六年十月二十七日は処刑の日であった。 揚屋を出る松陰は次の詩を高らかに朗吟して同囚の士に訣れを告げたのである。「今吾れ国の為に死す 死して君親に背かず 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」次いで刑場では「身はたとひ」 の歌を朗誦して従容として刑についた。行年三十歳明治廿二年二月十一日正四位を贈位され昭和十四年六月十思小学校々庭に留魂碑が建設された。

 平成二十六年八月公園整備に伴い由来板を作り直しここに設置するものである。 (昭和二十九年十一月 「江戸史跡保存協賛會の江戸三縁史蹟」 より作成)
中央区環境土木部水とみどりの課

十思公園前の案内看板より

現在は十思公園じっしこうえんとして知られているが、この公園だけでなく、現在の大安楽寺、身延別院、十思スクエアを含む一帯の地がかつては伝馬町牢屋敷だったそう。敷地総面積は2,618坪と広大であり、四方を土手で囲まれ、2か所の門で閉ざされていた。その広さは驚くべきもので、さすが江戸最大の牢屋敷と言える。

十思公園

訪れたのが日曜日だったこともあるのか、子供たちが元気に遊んでいた。また、ご年配の方々も見受けられ、この地域の人々にとっては憩いの場となっているようだ。この土地の歴史を知ると、現在の平和な光景は本当に心が安らぐ。

伝馬町牢屋敷(十思公園)時の鐘

公園内には珍しい、鐘がある。
この鐘はもともと日本橋石町こくちょうの「時の鐘」であると言われており、1930年にこの十思公園へ移設されたとのこと。この場所へ移設されたのは、刑の執行時間を正確に期するためと言われている。

十思公園 銅鐘 石町時の鐘の説明

東京都指定有形文化財
銅鐘 石町こくちょう時の鐘
所在地 中央区日本橋小伝馬町五 十思公園

 江戸で最初の時の鐘は、本石町三丁目(現在の本町四丁目・室町四丁目の一部)に設置された石町の時の鐘であるといわれています。江戸市中に時刻を知らせた時の鐘は、市街地の拡大にともない、浅草・本所・上野・芝・市谷・目白・赤坂・四谷などにも設けられました。
 石町時の鐘は、鐘撞き役であった辻源七の書上によると、寛永三年 (一六二六) に本石町三丁目へ鐘楼堂を建てて鐘を撞いたことが記されており、鐘の音が聞こえる範囲の町からは「鐘楼銭」を集めて維持・運営が図られていました。
 本石町に設置された時の鐘は、何度か火災にあって破損したために修理や改鋳が行われました。現在の銅鐘には「寛永辛卯四月中浣 鑄物御大工 椎名伊豫藤原重休」の銘文が刻まれており、宝永八年(一七一一)に 鋳造されたことがわかります。
 「石町は江戸を寝せたり起こしたり」と川柳にも詠まれた石町時の鐘は、明治をむかえて廃止されましたが、昭和五年(一九三〇)に本石町から十思公園内に完成した鉄筋コンクリート造の鐘楼へ移設されて現在に至っています。
 平成十七年三月 中央区教育委員会

 十思公園 時の鐘の案内看板より

石町から小伝馬町まではおよそ100メートル(二丁)の距離だった。この地域では、かつて時の鐘として鳴らされていた。囚人が処刑される際にもこの鐘が鳴らされたが、処刑者の延命を祈るかのように僅かに遅れて鳴らされたことから、「一名情けの鐘」とも呼ばれていたそう。牢屋敷に収監されていた囚人たちや、周辺に住む人々にとって、この鐘の音は非常に恐ろしかったことだろう。

吉田松陰終焉之地

十思公園の一角には「吉田松陰終焉之地」がある。

老中暗殺を企てた首謀者として、安政の大獄で逮捕され、伝馬町牢屋敷に投獄された後、ここで処刑された。

吉田松陰先生終焉之地の石碑

「吉田松陰先生終焉之地」と刻まれた石碑がある。

十思公園 吉田松陰先生略歴の説明

吉田松陰先生は天保元年長門の國萩の町はづれ松本村に生まれました。兄弟思ひ親思ひ忠義の志の厚かつた人です。
小さい時父や叔父の教を受け熱心に勉強して兵法の先生になりました。それから日本中を旅行した。多くの書物を讀んだりして一層修業を積み、ある時はアメリカの軍艦に乗つて外國を研究に行かうとしたこともありました。のち郷里の松下村塾で多くの人を教へましたが、その門人の中から木戸孝允、伊藤博文、山縣有朋をはじめ忠義でえらい人がたくさん出ました。
先生は天子様に忠義をするために幕府をあなどつたといふので、安政六年傳馬町の牢屋に入れられましたが、その年の秋この地でりつぱな最期をとげました。時に三十歳でした。
先生のまごころは永く、この土地、この世に留まつて忠義な人が次々に出るのを願つて居ます。

十思公園 吉田松陰先生終焉の地の石碑より

安政6年10月27日、吉田松陰が処刑された。刑場で彼は以下の歌を詠んだ後、処刑された。

十思公園 吉田松陰先生略歴の説明

身はたとひ 武さしの野辺に朽ちぬとも とどめ置かまし大和魂
十月念五日 二十一回猛士

十思公園 吉田松陰先生終焉の地の石碑より

伝馬町牢屋敷についての説明看板

十思公園内 牢屋敷の石垣についての説明

 江戸時代、この地には牢屋敷がありました。 天正18年(1590)、江戸の地に徳川家康が入った当初は、牢屋敷は常盤橋門外、今の日本銀行あたりに置かれていました。この地に移転したのは慶長18年(1613) ころといわれ、その後は江戸時代を通じて牢屋敷がありました。明治維新後、明治8年(1875) 市ヶ谷の監獄に囚人を移し、この地の牢屋敷は取り壊されました。
 平成24年、この地で中央区の施設が建設される前に、中央区教育委員会が 「伝馬町牢屋敷跡遺跡」として発掘調査を実施しました。遺跡からは、ここに移築復元した石垣をはじめとして、複数の石垣の連なりが発見されました。 牢屋敷は高さ7尺8寸 (約2.4m) の高い塀で囲われていたようですが、出土した石垣は、さらにその内側でもしっかりと敷地内を仕切っていたことがわかった貴重な発見です。石垣には一部途切れる箇所があり、そこに門柱の礎石が見つかりました。これは、角度によって門が見えにくい「埋門」と言われる、お城などによく用いられた施設と推測されます。
 このほか、多数の上水木樋が見つかっています。木で組まれた水道管が地中に埋められたもので、水は井の頭池などに水源のある神田上水から引き込まれたものと思われます。
 ここに展示してあるのは、図中の石垣Aを出土時とほぼ同じ形に積み直して移築復元したものです。これ以外のものには、当時の姿ではありませんが、同じく牢屋敷跡から出土した 石を使って積んだものもあります。石は伊豆周辺で切り出された、主に安山岩が四角錐に加工されたものです。 石には切り出す際についた矢穴という窪みが見られるものもあります。
平成26年 中央区教育委員会

十思公園 牢屋敷の石垣の案内看板より

平成24年に区の施設建設の際、発掘調査が行われた。その結果、当時の遺構が発見された。

十思スクエア

十思公園に隣接する場所には、かつて旧十思小学校があったが、現在は「十思スクエア」という建物が立っている。この十思スクエアの一角にある小伝馬町牢屋敷の展示館(と言うより展示エリア)を見学した。

十思スクエア 小伝馬町牢屋敷展示館の説明

小伝馬町牢屋敷展示館
まちかど展示館は、地域に根づいたまちの歴史や記憶を区民等が自ら掘り起こし、展示や公開をすることで、地域文化の継承や住むまちに誇りや愛着心を育んでいただくため、区が公認し設置しているものです。

小伝馬町牢屋敷 模型
牢屋敷は、慶長年間(1596年~1615年) に常盤橋際から移って、現在の日本橋小伝馬町の旧十思小 学校、講演、大安楽寺、見延別院などがある一帯の地域にありました。その面積2,618坪 (8,637平方メートル)。周辺に土手を築いて堀をめぐらし、土塀に囲まれた場内に模型の諸施設がありました。
明治8年(1875年) に市ヶ谷監獄ができるまでの約270年間に入獄した者は数十万人を数えたといいますが、幕末にいたり、蛮社の獄で渡辺峯山や高野長英が投獄され、また安政の大獄の際、吉田松陰、橋本左内ら多くの志士たちが斬首の刑に処せられた痛ましい歴史を残しました。なお、磔や火刑に処せられる大罪人は、江戸市中引廻しのうえ、小塚原や鈴が森へ送られました。

中央区まちかど展示館

十思スクエア 小伝馬町牢屋敷展示館の案内看板より

東京の品川に「鈴ヶ森処刑場」があり、そこへ伝馬町牢屋敷から罪人が送られ、処刑された。鈴ヶ森処刑場に送られる罪人たちは、主に「放火」などの重罪を犯した者であり、彼らは「磔刑」や「火炙りの刑」に処された。

十思スクエア内 伝馬町牢屋敷平面図の説明

伝馬町牢屋敷平面図
牢屋敷の中には身分で分けられた獄舎が並び、塀を隔てて囚獄(牢屋奉行) の石出帯刀の屋敷、 牢屋同心 (牢役人) の長屋等がありました。
囚人間には、 町奉行も認める牢名主をトップとした厳しい階級社会があり、ツルと呼ばれる賄賂も横行していました。

①二間牢
最大の獄舎には、 中央に監視用の当番所、これを挟んで東西に口揚屋・奥揚屋大牢・二間牢があった。庶民は二間牢と大牢に収容されたが、 無宿者 (戸籍のない者) は柄が悪く他に悪影響があるため二間牢に分けられるようになった。

②大牢
広さは各30畳で一般の町人を収容。各房には名主を頂点に上座 中座・下座・小座等の階級があり、 上座は畳1枚に一人だが、 小座は最大18人も詰め込まれ横になることもできなかった。

③奥揚屋
御目見以下の武士とこれに準ずる僧侶、山伏、 医者等を収容。 諸藩の武士は一律に奥揚屋に入れられたため、蛮社の獄の渡辺崋山、安政の大獄の吉田松陰などもここに収容された。

④東揚屋
遠島 (流罪) の判決が確定した者は、原則として東の口揚屋に収容されたことから、ここを「遠島部屋」とも称した。

⑤西口揚屋
女囚は原則として西の口揚屋に収容さ れたことから、ここを 「女牢」とも称した。

⑥表門・裏門
表門は西南に面した側のほぼ中央にあり、下男が門番として立っていた。裏門は表門の反対側にあった。

⑦張番所
見張り用の詰所。 牢屋同心の下に就く下男が張番をした。

➇塀と堀
周囲に高さ七尺八寸の練塀をめぐらし、練塀の外には堀があった。 塀の上には脱獄を防ぐために、忍び返しの鬣が設置されていた。

⑨帳面蔵・米蔵
この付近に帳面蔵、米蔵、米春所などの倉庫があり、その西に賄所という台所があった。

⑩揚座敷
御目見以上の武士や身分の高い僧侶、神主、医者等を収容。軽微な囚人数名が世話係(付人) に付いた。ここと揚屋に入る者は駕籠で護送された。

⑪百姓牢
百姓が他の牢慣れした囚人からいじめられたり悪影響を受けたりするのを防ぐため、安永4年(1775年) に増設された。収容者は少なく、無人のときもあった。

⑫首斬場 (死罪場)
幕府が定めた刑罰のうち下手人と死罪はここで行われ、死罪場、俗に土壇場ともいわれた。 首斬り人として有名な世襲の山田浅右衛門 (朝右衛門とも書かれた)は、側にあった様場にて将軍等の刀を死罪人の死骸で様斬りするのが本職であったが、 有料で斬首を行 うこともあった。

⑬ 同心長屋
牢の管理をする役人が住む長屋。牢屋奉行・石出帯刀の下には、牢屋同心40~80人が所属し、鍵役、小頭役、物書役、賄役、打役、勘定役、牢番などに分かれていた。その下には牢内の張番、門番、炊事、運搬等の雑事を行う下男50人程がいた。

⑭石出帯刀住居
牢屋敷の長である囚獄 (牢屋奉行ともいわれた)、石出帯刀の屋敷。石出氏が世襲し、代々石出帯刀の名を継いだ。町奉行に属し役高は三百俵。不浄の役人として登城は許されなかった。

穿鑿所せんさくじょ
拷問のうち笞打と石抱は穿鑿所で行われた。この建物には牢屋同心の詰所の他、物書所や薬煎所などもあった。

⑯改番所
入牢者はまず、この前に引き据えられ、牢屋同心トップの鍵役によって名、年齢等を入牢証文と相違ないか確認される。さらに外格子の中で着物を脱がされ所持品を検査されるが、ツルのことを知る入者は金を着物に縫い込んだり体内に隠したりして持ち込みに腐心した。

⑰拷問蔵

拷問用の土蔵。幕府指定の拷問は、軽いものから、笞打むちうち・ 石抱・海老責・釣責があり、ここでは海老責と釣責が行われた。笞打と石抱は頻繁に行われたが、海老責や釣責までいくのは稀だったという。

参考文献: 『江戸の刑罰』 石井良助 (中央公論社/1964年)、『物語 大江戸牢屋敷』中嶋繁雄 (文藝春秋/2001年)

十思スクエア 伝馬町牢屋敷平面図より

読めば読むほど恐怖を感じる。また、ここで試し切りを行った刀が将軍に献上されていたというのには驚いた。

「探してみよう!」ってノリが軽いって。

八百屋お七は恋人に会いたい一心で放火事件を起こし、ここ伝馬町牢屋敷に収監され、鈴ヶ森処刑場にて「火刑(火炙り)」で処刑された。

伝馬町牢屋敷 処刑場跡地

公園に面した道路を大安楽寺方面に進んだあたりとのこと。

上の写真の、赤枠で囲んだあたりだろうか、と歩いていると

あった。
やはりこの辺りが処刑場だったようだ。「江戸伝馬町処刑場跡」という石碑が建っている。この碑は伝馬町牢屋敷の前に位置する「大安楽寺」の壁に割り込む形で建っている。

おしまい

「江戸伝馬町処刑場跡」の石碑の前には、「時の鐘通り」と書かれたプレートが埋められていた。

アクセス

住所

所在地東京都中央区日本橋小伝馬町5−2
最寄駅「東京メトロ日比谷線 小伝馬町駅」下車 徒歩1分
駐車場情報駐車場なし
公式サイトなし

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