ゆかりの人物

土方歳三

高幡不動金剛寺の御朱印|新選組副長土方歳三ゆかりのお寺に行ってきた(東京都 日野市)

数年前に一度訪れたお寺に再び足を運んだ。このお寺は新選組のゆかりでも有名で、ファンとしては一度は訪れたい場所だ。また、関東三大不動の一つに数えられる不動堂があり、そこには他では見られない少し変わった像が安置されているのも見所の一つだろう。
ゆかりの人物

日光東照宮の御朱印|何が違う?平成の大改修を終えた日光東照宮(栃木県 日光市)

日光東照宮の御朱印 1617年(元和3年)、徳川家康(東照大権現)をご祭神に祀った神社 「久能山東照宮」「上野東照宮」とともに三大東照宮に数えられる 家康が亡くなった翌年に、遺言状に従う形で久能山から日光東照宮へ遷された 1645年(正保2年)、宮号を賜り「東照宮」と呼ばれるようになる 現在の主な社殿は、3代将軍家光により、1636年(寛永13年)に建て替えられたもの 隣接する輪王寺は、源頼朝の時代から東国の宗教的権威となっていた 家康が東照宮をここに置いた理由と考えられる
どうする家康

徳川将軍墓所 (増上寺/寛永寺)徳川家のお墓ってどんなところ?完全ガイド(東京都 増上寺/寛永寺)

増上寺境内に祀られている徳川家の歴代将軍の墓所が一般公開されていると知り、増上寺へと向かった。境内のこじんまりとした一角に将軍たちが埋葬されているが、戦前までは立派な霊廟が立ち並んでいたそうだ。当時に思いを馳せながら手を合わせる。
寺院

龍源寺の御朱印|近藤局長が生まれた故郷を訪ねて(東京都 三鷹市)

龍源寺の御朱印 「新選組局長 近藤勇」が生まれた上石原村(調布市)にある「龍源寺(りゅうげんじ)」に訪問。 近藤勇が板橋刑場で処刑された後、遺族が遺体を引き取り龍源寺に墓を建てたとのこと。局長のルーツを探る旅となった。 江戸時代には徳川将軍が鷹狩りのためにこの地をたびたび訪れては休憩所として利用していたこともあるそう。
ゆかりの人物

壬生寺の御朱印|新選組ファン必見!京都・壬生寺を訪ねてみた(京都府 京都市)

壬生寺の御朱印 新選組が京都を守るために使用していた屯所が壬生に位置していたため、壬生寺は新選組と関連が深いお寺として有名。壬生寺には、近藤勇の胸像をはじめ、「芹沢鴨」「河合耆三郎」「平山五郎」など、新選組の幹部のお墓もある。
ゆかりの人物

鶴岡八幡宮の御朱印|倒壊した大イチョウは、新しい姿でよみがえろうとしていた(神奈川県 鎌倉市)

鶴岡八幡宮の御朱印 1063年「源頼義」が京都の石清水八幡宮を「鶴岡若宮」として勧請 前九年の役で戦勝祈願をした神社 1081年「源義家」が修復 「鎌倉八幡宮」とも呼ばれ、以降源氏の守り神とされる 「源頼朝」は鶴岡八幡宮を篤く崇敬 鎌倉幕府開府と同年、「鎌倉八幡宮」を現在の場所へ遷す 幕府の重要祭事として「放生会」「流鏑馬」「相撲」「雅楽」などを境内で執り行う
土方歳三

會津藩の街並みを散策してきた!(福島県 会津若松市)

新選組局長「近藤勇」が眠る会津の街。ここは京都守護職「松平容保公」が治めた会津藩の土地でもある。豪雪地帯でも知られる会津の街並みでは、そこかしこで幕末の歴史に触れることができた。
土方歳三

天寧寺の御朱印|「會津」には近藤勇の墓所がある(福島県 会津若松市)

天寧寺の御朱印 1413年に創建されたお寺 1868年の戊辰戦争でお堂焼失後、同年に再建 近藤勇と天寧寺 天寧寺には近藤勇の首(又は遺髪)が埋葬されている 東京板橋にて処刑後、京都の三条大橋下流で首を晒され、その後天寧寺へ 首の埋葬時、新選組副長「土方歳三」が会津の東山温泉にて湯治中だったと言われる 当時の会津藩主「松平容保公」より、戒名「貫天院殿純忠誠義大居士」を贈られる 千葉県流山で別れて以後、「近藤勇」と「土方歳三」再開の場となった 現在、「近藤勇」の墓碑の隣に「土方歳三」の慰霊碑も建立されている
寺院

了仙寺の御朱印|鎖国時代、ペリー提督一行がやってきた寺!(静岡県 下田市)

了仙寺の御朱印 1854年(嘉永7)「日米和親条約」締結により、下田開港 のちに締結される「下田条約」にかかる、アメリカとの交渉場所が了仙寺 先に締結済みの「日米和親上条約」規定に基づく追加13条の付帯協定のこと
どうする家康

芝東照宮の御朱印|東京の港区にある東照宮ってどんなところ??(東京都 港区芝公園)

芝東照宮の御朱印 江戸時代初期の1617年、増上寺の境内に創建 増上寺は徳川家の菩提寺 家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」より「安国殿」と呼ばれている 徳川家康の「寿像」をご神体とする 還暦記念に自身の像を家臣に彫らせたもの 「芝東照宮」「日光東照宮」「久能山東照宮」「上野東照宮」は四大東照宮と呼ばれる 明治の神仏分離令により増上寺から切り離され、現在の芝東照宮となった 1945年の東京大空襲により「寿像」と神木であるイチョウを残し、全て焼失 1969年に現在の社殿が再建された
北条義時

鎌倉殿の13人|完全に義時ロス(神奈川県 鎌倉市)

新しい大河も始まりましたが、見るたびに「義時ロス」に陥っていたので 懐かしみながら纏めました。 大河ドラマ絶賛放映中に『大河ドラマ館』へ行ってきた。
北条義時

宝戒寺の御朱印|義時も住んでいた北條執權邸舊蹟へ(神奈川県鎌倉市)

宝戒寺の御朱印 鎌倉時代、執権として活躍した北条氏の邸宅跡(通称小町邸) 北条氏が代々住んでいた(泰時・経時・政村除く) 元弘の乱による鎌倉討伐で新田義貞が攻め入った際、屋敷は焼失 1333年北条氏滅亡後、北条氏の霊を弔うために「宝戒寺」を建立 建立したのは後醍醐天皇の命を受けた「足利尊氏
土方歳三

石田寺(土方歳三墓所)の御朱印|鬼の副長の故郷に馳せ参じた(東京都 日野市)

石田寺の御朱印 「新選組副局長土方歳三」が生まれた石田(いしだ)村にある「石田寺(せきでんじ)」に訪問。 歳三のルーツを探る旅となった。 石田寺には土方歳三の墓と顕彰碑が置かれており、後年になって土方歳三の兄の子孫が建てた「土方歳三義豊之碑」などもあり、土方歳三の聖地となっている。
国分寺

甲斐国分寺の御朱印|廃寺同然であったお寺を復興したのは、やはりあのお方であった(山梨県笛吹市)

甲斐国分寺の御朱印 奈良時代聖武天皇の詔によって建立された「甲斐国分寺」。ところが、平安時代中期から律令国家の衰退と合わせるように寺の荒廃が進んでしまう。豪華絢爛なお堂などは戦乱に巻き込まれ悉く焼失し、広大な土地も次第に失い、廃寺寸前まで追い込まれる。この事態を憂慮した「武田信玄」が、寺の領地寄進や住職の入山など、手厚くサポートし見事に再興させたと伝わる。
北条義時

北條寺の御朱印|北条義時の故郷 江間へ(静岡県伊豆の国市)

北條寺の御朱印 2022年の大河ドラマの主人公「北条義時」が創建したと言われるお寺。義時の嫡子が不慮の事故で命を失った際、冥福を祈るためにこの地を墓所として七堂伽藍や仏殿を建立した。鎌倉幕府二代執権として活躍した後、1224年に急死すると、息子の泰時によってこの寺に墓を建てられたと伝えられている。夫人である「伊賀の方」の墓も横に並んでいる。
どうする家康

最福寺の御朱印|徳川家康と日善上人の関係性とは(千葉県 東金市)

ご朱印 最福寺  最福寺の住職であった日善上人と徳川家康との出会いは、鷹狩りのため家康公が東金を訪れたことがきっかけだった。鷹狩り期間中、最福寺御殿にて対談したとの記録が残っている。半年後、豊臣征伐の決断ができずにいた家康公は、駿府城へ日善上人を招き密談を行っている。ここでのやり取りが決定的となり、家康公は豊臣征伐を決定し、後の大坂夏の陣へと進んでゆくのであった。
ゆかりの人物

久遠寺の御朱印|身延山 妙法華院 久遠寺(山梨県 身延町)

久遠寺の御朱印 「久遠寺」は日蓮宗の総本山として厚い信仰を集め、日蓮聖人の聖地として参詣が絶えない。パワースポットと言われている場所
寺院

池上本門寺の御朱印|長栄山大国院本門寺(池上本門寺)(東京都大田区)

御朱印 池上本門寺 地元の人たちからは、「池上本門寺」として親しまれているお寺。日蓮聖人入滅の地として知られる。 長栄山本門寺は「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込め、日蓮聖人が命名したと言い伝えられている。
寺院

嚴島神社の御朱印|嚴島神社(広島県廿日市市 宮島)

神社の紹介言わずとしれた広島を代表する神社。推古天皇の時代(593年)に建てられており、平清盛により現在の海上に浮かぶ社殿が修造された。1952年には「国宝」に指定され、その後1992年に「世界遺産」になっているとのこと。まさに傑作であり、...[続きを読む]
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