龍源寺の御朱印|近藤局長が生まれた故郷を訪ねて ※近藤勇の墓所(東京都 三鷹市)

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「新選組局長 近藤勇」が生まれた上石原村(調布市)にある「龍源寺(りゅうげんじ)」に訪問。 近藤勇が板橋刑場で処刑された後、遺族が遺体を引き取り龍源寺に墓を建てたとのこと。局長のルーツを探る旅となった。 江戸時代には徳川将軍が鷹狩りのためにこの地をたびたび訪れては休憩所として利用していたこともあるそう。 参拝日:2023年4月4日

目次

お寺の紹介

新選組局長「近藤勇」の墓がある。近藤勇の生家跡や、勇の養子となった近藤勇五郎が開いた道場「撥雲館」などが近くにあり、新選組ファンとしては一度は訪れておきたいところである。

正式名称

大澤山 龍源寺

御本尊

釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)(釈迦如来)

御朱印

中央に「南無繹迦牟尼佛(しゃかむにぶつ)」、左下には「大沢山龍源寺」と記載。

みどころ

近藤勇の胸像

お寺の入り口では局長がお出迎え。とても勇ましい顔つきである。

近藤勇「史蹟 近藤勇墓所」の碑

近藤勇墓所の石柱と、天然理心流とのかかわりについて解説した石碑

「近藤勇と天然理心流」の碑

近藤勇と天然理心流の説明

 近藤勇と天然理心流 

 この地に生まれた近藤勇は、鹿島神道流を修行した近藤内蔵助長祐が創始した『天然理心流』の四代目を継いだ剣豪です。その神髄は「誠の剣」であり、「力の剣」であると言われています。
 古武道は日本人の心のふるさとであり貴重な歴史的文化遺産であります。『天然理心流』の木刀五本の形と柄砕三組の演武のフィルムが日本武道館の古武道協会に永久保存されています。
 三鷹市剣道連盟では、近藤勇先生慰霊剣道大会を毎年開催しています。
  昭和六十三年三月吉日
  三鷹市剣道連盟 会長 石川金次
 
  龍源寺前の石碑より

龍源寺の寺号標柱

近藤勇の石碑の横を抜け、本堂へ向かう。

龍源寺の参道

以下の写真は、2007年に撮った写真。

立派なイチョウが印象的であったが、今はバッサリと切られていた。

龍源寺の本堂

龍源寺本堂前

龍源寺の扁額

近藤勇の墓所へ

本堂の脇に裏手のお墓に続く道があるので、わかりやすい。

以前来たときは左が竹藪であったが、ここも綺麗になっていた。

歩いていると、この墓地につく。
近藤勇のお墓は入口すぐの所にあるが、これは、勇の亡骸(板橋での処刑後に勇の関係者が遺体をもって、このお寺のお墓の入口に置いたことで、この入口近くにお墓が出来たのだとお寺の人から聞いた。

近藤勇の墓

近藤勇の墓

近藤勇の墓は看板があるので見つけやすい。

近藤勇の墓
近藤勇の墓

近藤勇斬首後の亡骸を、ここ龍源寺のお墓に埋葬したとのこと。
なお、近藤勇の戒名「貫天院殿純義誠忠大居士」は、松平容保公が近藤勇のために贈ったものであると言われている。戒名の通りの人だったのだなと思いを馳せる。

近藤勇の墓

近藤勇の墓の説明

 近藤勇の墓 

 種   別 旧跡
 指定年月日 昭和11年(1936)3月4日
 所 在 地 三鷹市大沢6-3-11

 天保5年(1834)武州多摩郡上石原村の宮川久次郎の三男として生まれ、15歳で天然理心流近藤周助に入門、近藤家の養子となって28歳で天然理心流四代目を襲名した。
 文久3年(1863)土方歳三らと京都に上り、慶応3年(1867)大政奉還までの4年間、新選組として活躍した。
 京都、鳥羽伏見の戦いで敗れた後、甲陽鎮撫隊を組織し山梨県勝沼で官軍を迎え撃つが、大敗して千葉県流山で投降する。
 慶應4年(明治元年)4月25日、板橋宿で処刑された。享年35歳
法名は貫天院殿純義誠忠第居士
  平成5年(1993)10月31日
  三鷹市教育委員会
 
  龍源寺近藤勇墓所前の案内看板より

近藤勇の墓
近藤勇の墓
近藤勇の墓
近藤勇の墓 史蹟

近藤勇 辞世の説明

 近藤勇辞世

孤軍援絶作俘囚 顧念君恩涙更流 一片丹衷能殉節 雎陽千古是吾儔 
靡他今日復何言 取義捨生吾所尊 快受電光三尺剣 只将一死報君恩


【現代語和訳】
孤軍援絶作俘囚 → 孤軍の援助が絶え捕虜となってしまった
顧念君恩涙更流 → 主君の恩を思い返し涙がまた流れる
一片丹衷能殉節 → 一片の真心で節義のためなら殉じることができる 
雎陽千古是吾儔 → 唐の時代の雎陽で奮闘した武将張巡は永遠の同志
靡他今日復何言 → 今は他に何を言うことがあろうか
取義捨生吾所尊 → 大義を取り命を捨てることこそが私の尊ぶところ
快受電光三尺剣 → 電光の三尺の剣(斬首)を快く受け入れる 
只将一死報君恩 → ただ一身の死をもって主君の恩に報いるのみ

辞世の句、最後の「快受電光三尺剣 只将一死報君思」には、処刑されることに覚悟を決め、最後まで主君を思う気持ちが表れている。

御朱印を待っている間、お寺の方とお話させていただいたのだが、話の流れで本堂に入れてくださり、「天然理心流の木刀」を持たせてもらった。想像以上にとても太く、重く、これを当時軽々と振り回していた勇をはじめ、天然理心流の人たちがとてつもない猛者に思えた。本当に良い経験をさせていただいた。

さて、次はこの近所にある「近藤勇生誕の地、生家跡」へと向かう。

近藤勇 生誕の地

近藤勇生家跡
近藤勇生家跡

龍源寺の近くに位置しており、お寺を訪ねた際にはぜひ見ておきたい場所。
市遺跡となっている。この井戸がある場所が、生家跡とのこと。現在の跡地は屋敷の東南部に位置しており、昭和18年に家が取り壊されるまで使用されていたそう。今はこの井戸だけが、近藤勇の生家の痕跡として残されている。

近藤勇生家跡

近藤勇生家跡の説明

 近藤勇生家跡 

 この地は新選組局長近藤勇の生家跡である。
 近藤勇は、天保五年(一八三四)宮川久次郎の三男(幼名勝五郎)としてこの地に生まれ育った。
 十五歳の時天然理心流近藤周助に入門、翌年理心流の目録を得て周助の養子となり近藤姓を名乗った。
 当時、宮川家の屋敷は面積約七千平方メートルの広さがあり、建物は母屋のほか蔵屋敷、文庫蔵、乾燥納屋、地下蔵、農具入納屋等があり、周囲はケヤキ、カシその他の大木や竹林が茂っていた。現在の跡地は、屋敷の東南部に位置し、昭和十八年に家がとりこわされるまで使用していた井戸を残すのみである。
 平成十六年三月二十六日
 調布市・調布市教育委員会

  近藤勇生家跡前の案内看板より 

近藤勇生家跡

新選組局長 近藤勇の説明

 新選組局長 近藤勇

近藤生家「宮川家」
 天保五年(一八三四)十月九日、武蔵国多摩郡上石原村辻(現在の調布市野水一丁目)の宮川家に三人目の男子が生まれ、勝五郎と名付けられた。天保九年(一八三八)の上石原村「宗門人別五人組帳」によれば、宮川家は多摩郡大沢村龍源寺の旦那(檀家)で、家族構成は百姓源次郎(宮川家の当主は代々「源次郎」を名乗った)六十七歳を筆頭に、倅の久次郎四十歳(近藤勇の父)、娵のみよ三十七歳(勇の母)、孫の音二郎九歳、粂蔵七歳、勝五郎五歳の六人であった。宮川家は裕福な農民であったといわれているが、「宗門人別五人組帳」の記載をみる限りでは、石高は七石一斗二合で、上石原村では中間的な階層に属していた。

天然理心流入門、近藤家養子に
 龍源寺にある「神文血判帳」(近藤周助の門人帳)によれば、宮川家の三兄弟は、嘉永元年(一八四八)十一月十一日に揃って天然理心流近藤周助の門人となっている。嘉永二年六月に周助が宮川勝五郎に与えた目録も龍源寺にある。同年十月十九日付けで周助から上石原村の源次郎(勝五郎の父)宛に養子縁組の書状が出され、勝五郎は入門後あまり時を経ずに天然理心流を継ぐため周助の養子となったことがわかる。養子になって周助の旧姓島崎を名乗り、名前も勝太と改めた。安政四年(一八五七)頃までには島崎勇となり、万延元年(一八六〇)三月に松井ツネと結婚した。その後、近藤勇を名乗り、文久元年(一八六〇)八月、府中六所宮(大国魂神社)で天然理心流四代目襲名の野試合を行い、翌年には一人娘のたまが生まれた。

浪士組に参加して京へ、そして新選組結成
 文久三年(一八六三)二月、近藤勇は上洛する将軍 徳川家茂警護のために編成された浪士組に道場の門人たちと共に参加したが、浪士組が江戸へ戻ることになった時、京都残留の嘆願書を提出し、京都守護職の任にあった会津藩預かりとなり、京都市中の見回りに当たることになった。以降、慶応四年(一八六八)一月、隊士と共に江戸に戻るまで、当時政局の中心となっていた京都で新選組局長として活躍した。

近藤勇、板橋で死す
 慶応四年三月、甲陽鎮撫隊こうようちんぶたいが甲州街道を甲府へ向かう途中大久保剛と名を変えた勇は、上石原村の鎮守である上石原若宮八幡神社を遥拝して戦勝祈願、西光寺向かいの名主中村勘六家で歓待を受けたと伝えられている。甲州柏尾山で官軍に敗れ、その後、新たに隊士を募集して下総流山に陣をしいた。しかし、そこで官軍に包囲されて出頭、慶応四年四月二十五日に板橋において刑死した。勇の甥宮川勇五郎は、板橋の刑場で肩の鉄砲傷(慶応三年十二月伏見墨染付近で負傷)を目印に首のない勇の遺体を掘り起こし、上石原村の生家近くにある龍源寺へ埋葬した。勇の無言の帰還を一族の人びとは 野川にかかる相曽浦橋で迎えたと伝えられている。龍源寺の近藤家墓所には、勇の一人娘瓊と結婚して近藤家を継いだ勇五郎やその息子の久太郎も眠っている。また、近くには勇のいとこで新選組隊士だった宮川信吉(勇の父久次郎の妹の子)の墓もある。

 平成十六年三月二十六日
 調布市・調布市教育委員会

 近藤勇生家跡前の案内看板より

近藤道場「撥雲館」

近藤道場「撥雲館」
近藤道場「撥雲館」
近藤道場「撥雲館」

「エイっ!! トーっ!!」の掛け声が聞こえてきそう。

近藤道場「撥雲館」
「撥雲館」解説看板

天然理心流道場「撥雲館」の説明

 天然理心流道場「撥雲館」 

 豪農であり、かつ篤農家でもあった近藤勇の父宮川久次郎は、広い自分の屋敷内に寺子屋を開くとともに、幕末時盛んであった武術の一派「天然理心流」の道場を持って、勇とその兄たちをはじめ近在の子弟を集めて学問や武術を指導していた。
 天然理心流は、近藤長裕を初代とする流派で、江戸に道場を持つかたわら多摩地方に広く出稽古を行い、門弟の指導にあたっていた。小技よりも気迫を重んじ、いかなる相手にも動じない極意必勝の実践を大事にする武道であった。三代目近藤周助は、月に二・三回招かれて久次郎の道場に通っていたが、勇の度胸と技量を見込み、嘉永二年(一八四九)近藤家の養子として迎えいれた。時に勇一六歳、後二十八歳で四代目を襲名した。
 この道場は、明治九年(一八七六)に近藤家の養子となり、勇の一人娘・たまと結婚して天然理心流五代目を継いだ近藤勇五郎(勇の長兄音五郎の次男)の道場で、勇五郎は多摩一円の門人三千人を指導したともいわれている。
 勇五郎は明治九年に父から分け与えられた屋敷内の納屋を道場とした。この道場が「撥雲館」である。その名の由来は、ある時ここを訪れた山岡鉄舟(元幕臣。近藤たちが浪士組に参加して上洛した時の浪士取締役)が命名し看板に揮毫したと伝えられている。「撥」という字は「とりのぞく」という意味を持っているが、「撥雲」という館名は暗雲を取り除くという意味で、当時の世相からみてうなずけるものがある。撥雲館は、その後手狭になったため、門下生の協力で昭和七年(一九三二)北側空地に改築し、盛大な道場開きが行われた。しかし、勇五郎は翌年八十三歳で亡くなった。その後も道場は門人たちの手で維持され、昭和五十年代まで稽古が続けられていた。
 太平洋戦争が始まり、調布飛行場の建設に伴う勇五郎宅取壊しの際にも、門人たちの熱意によって、道場は勇五郎の娘の嫁ぎ先である東隣の峯岸家の土地に移築された。さらに戦後になって、人見街道の拡幅のため再移転する時、再び近藤家敷地内の現在地に移築され、今日に至っている。
 平成十六年三月二十六日
 調布市・調布市教育委員会

  撥雲館前の案内看板より

今も近藤家がこの地で生活していると思うと、感慨もひとしお。
これにて局長近藤勇のふるさと紀行は終了となる。

アクセス

住所

所在地東京都三鷹市大沢6-3-11
最寄駅東急多摩川線多摩駅下車徒歩15分
駐車場情報門前に数台停められそうなスペースあり
公式サイトなし

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