徳川家康

寺院

清水観音堂の御朱印|400年前に京都の清水寺に見立てて建てられた上野公園にあるお寺(東京都 台東区 上野)

上野寛永寺のお堂の一つとして上野公園に建てられている、清水観音堂。歌川広重の「名所江戸百景」に登場する「月の松」は、一見の価値あり。また、秘仏として安置されている「千手観音」にまつわる、源頼朝・北条政子と平氏との意外な関連性が平家物語に残さ...[続きを読む]
どうする家康

上野東照宮の御朱印|江戸初期に建立された当時の社殿は華やかで荘厳な造りであった(東京都上野)

あの徳川家康公を祀る神社。それが東照宮。ここは江戸の人々にもお参りに行けるよう、日光東照宮に準じた豪華な社殿が立てられた。戊辰戦争にも、関東大震災にも、東京大空襲にも難を逃れ、江戸初期の姿のまま残っている貴重な社殿である。
ゆかりの人物

日光東照宮の御朱印|何が違う?平成の大改修を終えた日光東照宮(栃木県 日光市)

日光東照宮の御朱印 1617年(元和3年)、徳川家康(東照大権現)をご祭神に祀った神社 「久能山東照宮」「上野東照宮」とともに三大東照宮に数えられる 家康が亡くなった翌年に、遺言状に従う形で久能山から日光東照宮へ遷された 1645年(正保2年)、宮号を賜り「東照宮」と呼ばれるようになる 現在の主な社殿は、3代将軍家光により、1636年(寛永13年)に建て替えられたもの 隣接する輪王寺は、源頼朝の時代から東国の宗教的権威となっていた 家康が東照宮をここに置いた理由と考えられる
どうする家康

徳川家霊廟|徳川家のお墓っていったいどんなところ?霊廟と将軍について完全ガイド(東京都 増上寺/寛永寺)

増上寺境内に祀られている徳川家の歴代将軍の墓所が一般公開されていると知り、増上寺へと向かった。境内のこじんまりとした一角に将軍たちが埋葬されているが、戦前までは立派な霊廟が立ち並んでいたそうだ。当時に思いを馳せながら手を合わせる。
寺院

了仙寺の御朱印|鎖国時代、ペリー提督一行がやってきた寺!(静岡県 下田市)

了仙寺の御朱印 1854年(嘉永7)「日米和親条約」締結により、下田開港 のちに締結される「下田条約」にかかる、アメリカとの交渉場所が了仙寺 先に締結済みの「日米和親上条約」規定に基づく追加13条の付帯協定のこと
どうする家康

芝東照宮の御朱印|徳川家康を祀るあの東照宮が東京タワーの近くにあった??(東京都 港区芝公園)

芝東照宮の御朱印 江戸時代初期の1617年、増上寺の境内に創建 増上寺は徳川家の菩提寺 家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」より「安国殿」と呼ばれている 徳川家康の「寿像」をご神体とする 還暦記念に自身の像を家臣に彫らせたもの 「芝東照宮」「日光東照宮」「久能山東照宮」「上野東照宮」は四大東照宮と呼ばれる 明治の神仏分離令により増上寺から切り離され、現在の芝東照宮となった 1945年の東京大空襲により「寿像」と神木であるイチョウを残し、全て焼失 1969年に現在の社殿が再建された
どうする家康

最福寺の御朱印|徳川家康と日善上人の関係性とは(千葉県 東金市)

ご朱印 最福寺  最福寺の住職であった日善上人と徳川家康との出会いは、鷹狩りのため家康公が東金を訪れたことがきっかけだった。鷹狩り期間中、最福寺御殿にて対談したとの記録が残っている。半年後、豊臣征伐の決断ができずにいた家康公は、駿府城へ日善上人を招き密談を行っている。ここでのやり取りが決定的となり、家康公は豊臣征伐を決定し、後の大坂夏の陣へと進んでゆくのであった。
Translate »
error: Content is protected !!