清水観音堂の御朱印|400年前に京都の清水寺に見立てて建てられた上野公園にあるお寺(東京都 台東区 上野)

寺院
寺院徳川家康東京都
上野寛永寺のお堂の一つとして上野公園に建てられている、清水観音堂。歌川広重の「名所江戸百景」に登場する「月の松」は、一見の価値あり。また、秘仏として安置されている「千手観音」にまつわる、源頼朝・北条政子と平氏との意外な関連性が平家物語に残されている。

参拝日:2024年2月15日
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お寺の紹介

  • 1631年(寛永8年)に、慈眼大師「天海大僧正」が建立
    • 二代将軍「徳川秀忠」から寄進された上野の山に建つ
    • 創建時期が分かっている建物の中で、最古の建造物
  • 平安京と比叡山の関係性に倣って「東叡山寛永寺」を建立
    • 「清水観音堂」は京都の清水寺を見立てたとされ、同様の舞台造り
    • 単独の寺院ではなく、東叡山寛永寺のお堂の一つ
  • 当初は現在の上野公園内「摺鉢(すりばち)山」に建立された
  • 元禄初期に、今の噴水広場付近に寛永寺「根本中堂」建立が決まり、伴って移築される
  • 本尊の「千手観世音菩薩」は京都の清水寺から遷座された秘仏
  • 平家物語に記されている伝説
    • 主馬判官(しゅめのほうがん/当時の役職)であった平盛久(たいらのもりひさ)が、千手観音を清水寺に奉納し、千日参詣を続ける。源平合戦で平氏が敗れると、盛久は鎌倉の由比ヶ浜での斬首が決まる。しかしその瞬間、刀が折れて盛久の命が助かる。さらに、源頼朝の妻「北条政子」の夢に清水寺の高僧が現れ、盛久の赦免を願った。これを聞いた頼朝は直ちに盛久を赦免。盛久斬首の中止と時を同じくして、京都清水寺の観音像が倒れた。命を救われた盛久が京都の清水寺を参詣した際に、この話を聞きいて観音像に護られたことに感涙したとされる。
    • この出来事が午の年・午の日・午の刻に起きたことから御開帳は「初午(はつうま)法楽」となる
  • 1996年(平成8年)に文化財保存修理が行われ、元禄の移築時の姿を再現
  • 清水観音堂からは不忍池を望むことができる
  • 木の幹が円形をかたち作る「月の松」は、歌川広重の「名所江戸百景」にも登場する
    • 初代「月の松」は明治時代の台風で倒木
    • 現在の「月の松」は2012年12月に、現代の造園技術を駆使して復元
    • 比叡山の高僧「恵心僧都」の作と伝わる

正式名称

 東叡山 寛永寺 清水観音堂

御本尊

 千手観世音菩薩

ご真言

 おん・ばざら・たらま・きりく

創立

 1631年|天海聖人

御朱印

御朱印所について

ご本堂内にて御朱印を頂く。

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みどころ

上野公園内の遺構(寄り道)

上野公園には、様々な遺構が存在する。目的地をまっすぐ目指すのではなく、散歩感覚で気の向くままに散策してみると新しい発見がある。

西郷隆盛像

あの有名な西郷さんの像。彼の奥さんはこの像を見て「この像は誰ですか?」と言ったとか(笑)
普段足を運ばないエリアにあったので、これまで教科書でしか見たことが無かった。今更ながら、実物を見ることが出来て感動。

横からのアングルの方が西郷さんの体格がよくわかる。
それにしても大きな像だ。

西郷隆盛と銅像の由来についての説明

敬天愛人
西郷隆盛銅像の由来

西郷隆盛は文政十年(一八二七年)十二月七日薩摩藩士として鹿児島加治屋町に生まれた。通称吉之助、南洲はその号である。若くして、藩主島津斉彬に重用され、幕末内外多難の際、大いに国事に奔走したが、これに関連して奄美大島に流されること二回。元治元年(一八六四年) 許されて京都に上るや、朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としたが、後、木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、慶応三年(一八六七年)十二月ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として、大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。その間、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟等の請を容れて江戸城無血開城を実現、江戸を戦禍から救ったことは余りにも有名である。その後は、故郷に退隠したが、明治四年(一八七一年)正月、三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて上京、参議に就任し、廃藩置県その他近代国家建設のための主動的役割を果した。然るに、明治六年六月いわゆる征韓論が閣議に上るや断乎反対して、大使派遣による平和的修交を主張し、その決定を見るに至ったが、後欧米出張から帰国し、内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷。私学校を興して後進青年の育成に努めた。明治十年二月当局者の謀に激した私学校生徒に擁せられて西南の役となり、転戦七カ月余、ついに敗れて城山に自刃した。九月二十四日、享年五十一才。そのため一時逆賊とされたが、明治二十二年二月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈された。この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友実が、 同志と共に追慕の情を表すべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志二万五千人の醸金を得て、明治二十六年起工、同三十年竣工、我が国彫刻界の巨匠高村光雲の作である。西郷隆盛の偉大な功業は、その信条たる敬天愛人の精神に発した仁愛と至誠没我の所産であり、日本の代表的偉人として今なお、敬慕される所以は実にここに在るのである。

西郷隆盛像の案内看板より

彰義隊の墓

西郷隆盛象の近くには彰義隊のお墓もあった。新選組と同じく、幕府側で命を燃やした幕末の侍たちのお墓だ。

西郷隆盛と銅像の由来についての説明

彰義隊の墓(台東区有形文化財)
台東区上野公園一番

 江戸幕府十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。 東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を
求め、慶応四年(一八六八)二月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山 (東叡山寛永寺)にたてこもった。
 慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付された。
 正面の小墓石は、明治二年(一八六九) 寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に掘り出された。大墓石は、明治十四年(一八八一)十二月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる『戦死之墓』の字を大きく刻む。
 平成二年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。
 平成八年三月 台東区教育委員会

彰義隊のお墓前の案内看板より

この日もも多くのお供え物があり、今も熱心に供養されているのが分かる。

西郷隆盛と銅像の由来についての説明

彰義隊の墓

 十五代将軍徳川慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷らは、慶応四年(一八六八年)、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のために同志をつのった。そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦五月十五日の上野戦争は、武力に勝る新政府軍が半日で彰義隊を壊滅させた。
 生き残った小川ら隊士は、明治七年(一八七四年)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立した。 なお、遺骨の一部は南千住円通寺内に合葬されている。以後、百二十年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史的記念碑としてその管理は東京都に移されている。

彰義隊のお墓前の案内看板より

東叡山 寛永寺 清水観音堂

清水観音堂が小高い丘の上に建っていることがよくわかる。

ここから見るのがベスト。京都の清水の舞台のように見える!

清水観音堂のMAP

東叡山寛永寺のお堂の一つである「清水観音堂」。この看板に描かれているお堂は全て寛永寺と言うことになる。当時の比叡山と平安京との関係性に倣い、見立てた配置となっている。
東京は、上野戦争や第二次大戦で大きな被害を受けているので、当時の貴重な遺構がほとんど失われているが、わずかに当時の面影を見つけることもできる。

清水観音堂の案内看板

東叡山 寛永寺 清水観音堂の説明

東叡山 寛永寺 清水観音堂

清水観音堂の縁起
清水観音堂は、寛永八(一六三一)年に慈眼大師(じげんだいし)天海(てんかい)大僧正により天台宗東叡山寛永寺の参堂として建立されました。初めは「摺鉢(すりばち)山」に建てられ、その後、元禄初期に現在地に移築されました。上野の山に現存する、創建年時が明確な最古の建造物です。天海大僧正は寛永二(一六二五)年に、二代将軍徳川秀忠公から寄進された上野の山に、平安京と比叡山の関係にならって「東叡山寛永寺」を開きました。これは、比叡山が京都御所の鬼門(艮=東北)を守るという思想をそのまま江戸に導入することを意味し、江戸城の鬼門の守りを意図したのです。そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と境内に建立していく中で、清水観音堂は京都の清水寺(きよみずでら)を見立て、同じく舞台作りで建てられています。平成二年から文化財保存修理が行われ、平成八年に竣工、元禄移築時の面影を再現するに至る、
国指定重要文化財です。

ご本尊「千手観世音菩薩」の伝説
京都清水寺からご遷座された秘仏ご本尊・千手観世音菩薩は、平安時代の比叡山の高僧・恵心僧都の作と伝えられています。合掌したお手・禅定印を結ぶお手の他に小さなお手が四十本あり、それぞれの小さなお手が、仏教で考えるあらゆる世界の生きとし生けるもののすべてに、慈悲の手をさしのべるお姿を表しています。また、『平家物語』に述べられる、主馬判官(しゅめのほうがん) 平盛久(たいらのもりひさ)にまつわる伝説があります。
盛久は常日頃より清水寺へ参詣を続けていましたが、源平の合戦で敗れ、鎌倉で斬首されそうになります。その際に刀が折れて盛久の命が助かり、また北条政子の夢に清水寺の高僧が現れて盛久の赦免を願ったので、驚いた源頼朝は盛久を助命しました。後に盛久が清水寺に参詣すると、盛久が斬首されそうになった際に観音像が倒れたという話を聞きます。こうして観音像に護られたことに気づいた盛久は感涙にむせんだ、という物語です。
この奇瑞が午の年・午の日・午の刻に起きたことに因み、ご開帳は年に一日「初午(はつうま) 法楽」の日に行う縁起となっているのです。

脇尊の子育て観音さま
お堂の右に祀られる脇尊の仏さまは「子育て観音」で、子授け・安産・子育ての観音さまとして多くの信仰を集めています。観音さまのご利益により子を授かった人々から、子供の健やかな成長を願って多くの身代り人形が奉納されており、これら人形の供養が、かわいがってきた人形に感謝する人形供養となって長年続けられています。
人形供養は毎年九月二十五日十四時から行われます。
寛永寺教化部

清水観音堂の案内看板より

浮世絵に残る清水寛永寺

広重|『名所江戸百景 上野山内 月のまつ』,安政4. 国立国会図書館デジタルコレクション

江戸時代の百名所の一つとして選ばれている場所である。

江戸時代にも名所とされていた「月の松」。
浮世絵とほぼ同じだ!現在の月の松は2012年に復元された物だそうだが、浮世絵と比較するとほとんど同じ形に見える。再現率の高さに驚いた。参拝した時には、まさか復元した松の木だとは思わず、いまだにその姿を残しているのだと勘違いしたほど。さすがである。

こちらの浮世絵は、舞台からのぞいた風景。上野の弁財天が描かれているのが分かる。

もちろん現在も、弁財天が見える。江戸の人々が見ていたであろう風景を今も見ることが出来るというのは、何とも感慨深い。

清水観音堂の手水舎

入ってすぐ、手水舎がある。

手水鉢が網で覆っているタイプ。
体を清めて参拝しましょう♪

岩から飛び出してきたようなその姿は、とても迫力がある。

清水観音堂 本堂へ

江戸時代寛永8年建立(1631年)とあるので、おおよそ400年前の建造物である。
関東大震災や東京大空襲に遭っても倒壊を免れたのは、奇跡と言える。

中は撮影禁止なのが残念。とても歴史を感じる御堂であった。

清水観音堂の扁額

この扁額には「施無畏(せむい)」と書かれている。

施無畏とは

・仏や菩薩が人々の恐れや不安の心を取り除いてくださり、救ってくださること。
・観世音菩薩の異名。

こちらは本堂前。堂内は撮影禁止なので、遠目にパチリ。

すこ~し画面を明るくすると…、堂内がうっすらと見えた。

江戸版 清水の舞台

こちらが京都の清水寺で有名な「清水の舞台」を模して造られた江戸版の清水の舞台。
舞台から眺める景色は素晴らしく、「月の松」もこの舞台から見ることができる。

※下の写真は京都の清水寺

確かに似ている!

上野の清水観音堂の外観はこんな感じ。
※下の写真は京都の清水寺

こちらはちょっと違うか。建立当初は同じだったのかな。

他の坊ともつながっている。こちらは非公開の様子。
この渡り廊下の雰囲気がとても好きである。

創建から400年を数える、とても歴史あるお寺だった。

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まとめ

この清水観音堂を含む付近一帯を全て「東叡山寛永寺」と呼び、この東叡山と江戸城との関係性を比叡山延暦寺と平安京に見立てたとされている。
そして、京都の清水寺を模して建立したと言われる清水観音堂。他にも、近くの不忍池と弁才天は琵琶湖とそこに浮かぶ竹生島に祀られる弁才天を見立てている。
まさに、江戸城とその付近を京の街に見立てたのだ。
上野公園は、「上野動物園」「上野東照宮」「国立博物館」「国立科学博物館」など観光地が多くあるが、是非この小京都を感じられる清水観音堂にも足を運んで頂きたい。上野は歩くことに飽きない街である。

アクセス

住所

所在地東京都台東区上野公園1丁目29
最寄駅「JR上野駅」下車 徒歩4分
駐車場情報専用の駐車場なし
公式サイトhttps://kiyomizu.kaneiji.jp

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