八幡不知森神社の御朱印|禁足地「八幡の薮知らず」って実際どんなところ?(千葉県市川市)

千葉県
千葉県神社
千葉県本八幡にある「八幡の薮知らず」。市川市役所のはす向かいに、こんもりと小さな竹藪が存在している。人通りの多い道路と近代的な建物がひしめく街並みには不釣り合いな竹藪だ。ここは昔から「禁足地」で、入ってはならない場所とされていた。
竹藪の入り口に当たる場所には鳥居が建っており、何となく近づきがたい雰囲気を醸している。今回は実際にこの禁足地を訪ね、どのような場所なのか調べてみた。

参拝日:2023年10月7日
スポンサーリンク

神社の紹介

  • 千葉県市川市八幡にある「禁足地」とされている森
  • 「本八幡駅」から徒歩5分で車の往来も多い場所なのでおどろおどろしい感じは全く無い
  • 現在、藪のまわりは柵で囲まれており、人の立ち入りはできない
  • 敷地の広さ:奥行・幅ともに18メートル程度
  • かつては雑木林だったようだが、近年は竹に侵食され樹木はわずかに残るのみ
  • 江戸時代から「この藪に足を踏み入れると二度と出てこられなくなる」と語り継がれている
    • 「藪の中央部が窪んでいる」「周囲を柵で囲まれている」ことが由来と考えられている
  • 禁足地の由来は諸説ある
    • ・最初に葛飾八幡宮を勧請した跡地説
      ・日本武尊の陣屋説
      ・貴人の古墳後説
      ・平将門と戦った平貞盛の敷いた「八門遁甲の陣」で、「死門」に当たる説
      ・将門の家臣の死に場所説
      ・水戸黄門が藪の中に入り、神の怒りに触れた説
      ・藪の中央部の窪地から毒ガスが出るという説
      ・藪に底なし沼があるという説

正式名称

 不知森神社しらずのもりじんじゃ

御祭神

 不明

御朱印

御朱印所(葛飾八幡宮の社務所にて不知森神社の御朱印を頂ける)

社務所で葛飾八幡宮の御朱印を頂ける。

こちらでは、「本殿の葛飾八幡宮」「下総国総社六社神社」「不知森神社」の3つの御朱印が頂ける。

葛飾八幡宮の記事はこちら↓

パンフレット

スポンサーリンク

昔の資料から見る「八幡の薮知らず」について

江戸名所図解にもある「八幡八幡宮」と「八幡不知森」

斎藤幸雄 [等著] ほか『江戸名所図会』第4,有朋堂書店,昭2. 国立国会図書館デジタルコレクション

江戸時代には、名所として紹介される程有名だった場所。
当時の人たちも、こういった曰くつきのおどろおどろしい場所に興味を持っていたということだ。「怖いもの見たさ」は、いつの時代にもあるのだ。

東京名所図絵 明治23.2発行|八幡不知森

原田真一 編『東京名所図絵』,双々館,明23.2. 国立国会図書館デジタルコレクション
東京名所図絵の内容を現代語に訳してみると・・・

常陸や房総の街道を見ると、多くの人家があります。当社は寛平年間の奉久年中に源頼朝が築いた古の荘厳な露台(ひさし)があります。それ以来、歳月が経ち、今ではその古い木々が茂っていて、古来の神垣と共に風格ある雰囲気を持つ鎮所となっています。

〇八幡不知森は、八幡村にある深い森で、そこには約20歩ほど先に古代から八幡宮があった場所とされています。

大正八年発行 日本伝説叢書(ぞうしょ)|八幡不知森

「叢書」とはいくつかの書物をまとめたもので、いわゆる今の単行本。

藤沢衛彦 編『日本伝説叢書』下総の巻,日本伝説叢書刊行会,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション

もう随分と昔から、この薮に入ったら祟られると言われ、禁足地とされていることがわかる。

平将門故蹟 明治40年出版|八幡不知森について

織田完之 著『平将門故蹟考』,碑文協会,明40.6. 国立国会図書館デジタルコレクション
織田完之 著『平将門故蹟考』,碑文協会,明40.6. 国立国会図書館デジタルコレクション
平将門故蹟の内容を現代語に訳してみると・・・

八幡不知森

 八幡不知森は、現在の千葉県東葛飾郡市川市から船橋市に向かう街道から右にそれて約20町(約4キロメートル)ほどの位置にある竹林です。その中には小さな石祠があります。地元の人々によれば、この中に入る時は必ず神の祟りがあり、垣根を乗り越えて入ることが禁じられています。竹林はまばらで、水田が透けて見え、枯れた竹や朽ちた木の根が絡まり合い、年月が経っても斧や鋤が入った痕跡はなく、誰の手によるものか分からない古い場所です。

 『江戸名所図会』によると、八幡不知森は天慶三年(943年)、平将門が戦死した際、その近臣6人が将門の首を持ってこの地に来て、林の中に入ったところ、土偶が現れたとされています。その後、雷雨に見舞われて破壊され、この地に足を踏み入れる者は必ず祟りが起こるとされています。また、この地は古くから八幡と呼ばれ、八幡宿の地にある一区画だけが行徳町の所有とされています。元禄年間には、水戸西山公(徳川光圀)がこの森に入り、迷子になったという逸話も伝わっています。

 現在でもこの森に入ることは厳禁されており、古くから人々は畏怖の念を抱き、近づくことを避けてきました。また、土偶が出現したことから、地理学者の伊能忠敬もこの地を考察し、国司の古墳や、御所車の形跡があると述べています。石井新吾の話によれば、この場所は平将門の父である鎮守府将軍下総守從四位平良將の領域であり、平良將は初めは陸奥鎮守府将軍として多賀城にいましたが、後に下総守に任命され、国府台に居住し、国のために功績を挙げ、民心を掌握しました。
 
 平良將が良が亡くなった時、将門はまだ幼年で、彼には七人の幼い兄弟がいた。この出来事は延喜十八・九年頃のことであり、彼の葬儀は非常に厳かなものでした。勅使が派遣され、弔賻の恩典が与えられ、国葬の儀式が厳かに行われました。この場所は、庶民が尊敬し、敬慕した場所だったのです。それは想像に値する光景でした。

 国府台からはさほど遠くない位置にあり、八幡宮もそびえ立ち、八千機姫命と倉稻魂神を祀っている。これらの神々は国分寺にも崇拝されるべきであり、人々に食料や衣類を供給することを教えるためのものである。八幡の周辺は別の区域であり、この一帯は国府台の支配下にある。良将が亡くなって十数年後、天慶の不幸な事件が起きた。将門は海に遭難し、彼の妻は攻撃に晒され、田畑も荒廃した。彼は京都に戻り、検非違使として仕え、内乱を鎮めた。しかし、天慶二年には再び混乱が生じ、国家を欺いて戦争を引き起こし、将門も含めて死亡した。彼の七人の弟も困難に直面した。良将の領域は荒れ果て、人々は恐れて隠れるようになった。

 天慶元年に関東で大地震があり、地形が大きく変化した。さらに、二十九年後の康保三年には、この地で大きな地震があり、海水が沸騰し、逆巻きが起き、海岸の丘や山が掃討された。この時、海岸の町は最も苦しみ、海上の町は消失し、内海が浅瀬になり、佃島も出現した。この津波のために、東葛飾郡の海岸の古墳が漂流し、平坦な地になり、そこからは六つの埴輪や人形が露出したが、後に雷雨で破壊された。その後、竹林が再び繁茂し、その中心に小さな石祠が建てられた。これは古い神社ではないかと言われているが、今では稲荷神として崇拝されている。

平将門を恐れたと言う史実もあるようだ。

スポンサーリンク

みどころ

八幡の薮知らずの案内看板

不知八幡森 (通称八幡の藪知らず)の説明

不知八幡森 (通称八幡の藪知らず)

 江戸時代に書かれた地誌や紀行文の多くが、八幡では「藪知らず」のことを載せています。そして「この薮余り大きからず。高からず。然れども鬱蒼としてその中見え透かず。」とか、「藪の間口漸く十間(約一八メートル)ばかり、奥行きも十間に過ぎまじ、中凹みの竹藪にして、細竹・漆の樹・松・杉・柏・栗の樹などさまざまの雑樹生じ・・・・・・」などと書かれたりしていますが、一様にこの藪知らずは入ってはならない所、一度入ったら出てこられない所、入れば必ず祟りがあると恐れられた所として記載され、「諸国に聞こえて名高き所なり」と言われて全国的に知られていました。
 入っていけない理由については、・最初に八幡宮を勧請した旧地である。・日本武尊が陣所とされた跡である。・貴人の古墳の跡である。・平将門平定のおり、平貞盛が八門遁甲はちもんとんこうの陣を敷き、死門の一角を残したので、この地に入ると必ず祟りがある。・平将門の家臣六人が、この地で泥人形になった。・・・・・・
と、いろいろ言われてきました。 中でも万治年間(一六五八~六一)、水戸黄門(徳川光圀)が藪に入り神の怒りに触れたという話が、後には錦絵となって広まりました。
「藪知らず」に立ち入ってはならないという本当の理由が忘れ去られたため、いろいろと取り沙汰されてきたものではないでしょうか。
 またその理由のひとつとして、「藪知らず」が、「放生池」の跡地であったからではないかとも考えられます。
 古代から八幡宮の行事に「放生会」があり、放生会には生きた魚を放すため、池や森が必要で、その場所を放生池と呼びました。藪知らずの中央が凹んでいることからすると、これは放生池の跡であるという可能性が十分に考えられます。
 市川市周辺地域は中世には千葉氏の支配下にありましたが、千葉氏の内紛で荒廃し、八幡宮の放生会の行事が途絶えてしまい、放生池には「入ってはならぬ」ということのみが伝えられてきたことから、以上のような話が作られていったものと思われます。
「不知八幡森」の碑は安政四年(一八五七) 春、江戸の伊勢屋宇兵衛が建てたものです。
平成十六年三月 市川市教育委員会

不知八幡森 (通称八幡の藪知らず)前の案内看板より

「八幡不知森」の外観

この八幡の薮知らずは、市川市役所のちょうどはす向かいあたりに位置している。

国道沿いに突然現れるこの竹林。初めて見ると、急に街中に現れる竹林は異様な光景に感じる。

すぐ傍に陸橋があるので、薮知らずを上から見ることができる。
奥行きはあまり無いのが見て分かる。現在はこれだけしか残っていないが、昔はもっと広かったのだそう。

異様な感じはするが、何も知らなければこの場所が禁足地であることは分からないだろう。マンションや駐輪場が隣接し、街に溶け込んでいる?

駐輪場の係員の方に入る許可を頂いて、脇からパチリ。

こちらは真裏側から。この先はマンションの敷地のため入れず。

不知森神社

藪知らずには、「不知神社」と言う神社が鎮座している。鳥居と小さな祠が建てられている。
なんとも珍しい神社だ。奥の竹藪が迫ってくる感じがする。

江戸末期に撮影された写真を見ると、鳥居が建つこのスペースは現在より数メートル手前に位置していたことがわかるので、現在の場所は当時禁足地であったことがうかがい知れる。鳥居をくぐると、当時の禁足地に足を踏み入れてしまう結果に・・!もちろん無事外へ出られたので、誤差範囲での区画整理なのだろう。

不知森神社の鳥居

とても綺麗な石の鳥居だ。鳥居に「平成10年の奉納」であることが記されていた。

扁額には「不知森神社」と彫られている。

不知森神社の社殿(小祠(しょうし))

この祠も綺麗に管理されている。銅板を見る限り、比較的最近修復したのであろう。
注意書きには、社殿や石碑保護の観点から社殿の扉の開放や、酒や塩の散布、盛り塩などはご遠慮くださいと書いている。
人の往来も激しく、駅から近いことを考えると、神社の扉を開けちゃう人もいるのかな?教育や文化の伝承は必要だと感じた。

不知森神社の境内

ここ藪知らずの広さは、おおよそ18m×18mくらいある。
江戸時代からこのように凹んだスペースがあり、広さもだいたい同じくらいだったようだ。
ただ、先にも述べたように江戸時代末期頃の写真を見ると、このスペースに2本の大木が立っているが、それらが現在は歩道に立っているので、当時は現在の場所より数メートル道路側に位置していたことが分かる。

藪の中

主に竹が多く生えているが、様々な木々も育っている。

今は舗装もされ、管理されている様子も伺えるが、昔はうっそうとしていたのだろう。

不知森の石碑

祠の右側には3つの石碑があった。

左の大きい石碑は、彫られた文字から安政4年(1856)春、浅草商人の伊勢谷宇兵衛いせやうへいが建てたことが読み取れる。元々は入口の左脇にあったが、現在はここに移設されている。
右側の石碑には、よ~~く見ると、「妙法?八幡大龍神」と彫られていることが分かった。おそらく葛飾八幡宮の前身であるお寺に置かれていたものだろう。
真ん中の石碑は達筆すぎて解読不能。

おしまい

禁足地として有名な「八幡の薮知らず」で有名な「不知森神社」を細かく見ることができ楽しかった。

アクセス

住所

所在地千葉県市川市八幡2-8
最寄駅「JR/都営新宿線 本八幡駅下車」徒歩で6分
「京成電鉄 京成八幡駅下車」徒歩3分
駐車場情報駐車場なし
公式サイトhttps://www.katsushikahachimangu.com/

GoogleMap

Translate »
error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました