池上本門寺の御朱印|日蓮聖人入滅の地【日蓮聖人が荼毘に付された場所(火葬場)】とは一体どんな所?(東京都大田区)

寺院
寺院日蓮東京都
地元の人たちからは「池上本門寺」として親しまれているお寺。日蓮聖人が、生涯最後の二十数日を過ごした場所とされている。また、日蓮聖人入滅の地として知られ、当時は日蓮聖人の御真骨が多宝塔に安置されてた。
長栄山本門寺は「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込め、日蓮聖人が命名したと言い伝えられている。

参拝日:202年9月23日
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お寺の紹介

  • 日蓮入滅の霊場で、日蓮宗の七大本山の一つ
  • 1282年(弘安5年)9月8日、日蓮は身延山を出て、湯治のために常陸へ向かう
  • 9月18日、武蔵国池上郷「池上宗仲」の館に到着し、生涯最後の20日間と少しを過ごす
  • 同年同月、池上氏館の背後の山上に建立された一宇を日蓮が開堂供養し、長栄山本門寺と命名
  • これが「池上本門寺」の起源となる
  • 日蓮入滅(10月13日)後、「宗仲」は法華経の字数(69,384)に合わせて寺領を寄進
    • 広さは69,384坪と言われる
    • 寺院の基礎が築かれ、池上本門寺と呼ばれるようになった
    • その後、日蓮の弟子「日朗」が本門寺を継承した
  • 本門寺西側の谷一帯に池上氏の邸宅があったと推測される
    • 現在は大坊本行寺の境内となる
  • 鎌倉時代から江戸時代まで、関東武士の庇護を受けた
    • 加藤清正紀伊徳川家などの祈願寺となり栄えた
  • 江戸時代、「不受不施派」の本門寺「受布施派」の久遠寺とが「身池対論」で対決
    • 幕府による、いわゆる弁論対決
    • 家康は「不受不施派」を禁止していたので、本門寺側が敗者となる
    • これにより本門寺は久遠寺の傘下となった
  • 第二次世界大戦の空襲により、多くの建物を焼失したが戦後から順次復興した
    • 五重塔、総門、経蔵、宝塔を除く堂宇

正式名称

 長栄山 大国院 本門寺|通称:池上本門寺いけがみほんもんじ

創建・開基

 1282年・日蓮聖人

宗派

 日蓮宗

御本尊

 釈迦牟尼仏

お題目

 南無妙法蓮華経(なむ みょうほうれんげきょう)

池上本門寺 御朱印

大祖師堂にて

池上本門寺 境内案内図

池上本門寺 昔の写真

江戸時代の浮世絵

豊国,広重『池上本門寺会式』,平のや,元治1. 国立国会図書館デジタルコレクション

江戸時代の浮世絵に、池上本門寺が描かれている。
奥には有名な「此経難持坂しきょうなんじざか 」、その先には「仁王門」が見えるのが分かる。
太鼓橋や石碑も描かれており、今とは少し違う配置だったようだ。
このように江戸時代の絵図と照らし合わせると、新たな発見ができる。

明治時代の写真

『東京風景』,小川一真出版部,明44.4. 国立国会図書館デジタルコレクション

こちらは明治時代の池上本門寺の境内の様子。
多くの人で賑わっている。今もたくさんの人が訪れているが、当時から人々が集まる場所であったことがわかる。

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みどころ

池上本門寺 総門と扁額

池上本門寺の総門と扁額の説明

池上本門寺 総門と扁額(大田区教育委員会より)

大田区文化財 
 総門そうもん扁額へんがく 
        
 総門は、主柱間五・三メートル、高さ六・四メートル。総欅素木造。一間一戸の高麗門である。江戸時代に編さんされた『新編武蔵風土記稿』によれば元禄年間(一六八八~一七○四)に建造された。池上本門寺山内に現存する古い建築物の一つで、歌川広重の「江戸百景」などにも描かれ、著名である。
 扁額に浮彫りされた「本門寺」の文字は、熱心な法華経信奉者で、また名筆家として知られた本阿弥光悦(一五五八~一六三七)の書を彫刻したものである。背面銘文から、寛永四年(一六二七)、本阿弥一族が父母の供養のため三堂(総門・楼門・祖師堂)に掲げた額の一つであることがわかる。本阿弥一族の日蓮宗とのかかわりを伝える貴重な遺品である。

昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会

池上本門寺 総門前の案内看板より

珍しい黒塗りの門。元禄年間の建築様式だそうで、高麗門形式の門。
現在掲げられている額は複製で、実物は霊宝殿に常設展示されているとのこと。
そういえば千葉県市川市の日蓮ゆかりのお寺「法華経寺」の総門も黒門と呼ばれており、高麗門であるところも同じだ。

千葉市川にある法華経寺の総門(黒門)

こちらは中山法華経寺の総門。全体が黒塗のため、「黒門」との名がついたとされる。

法華経寺 黒門の案内看板(法華経寺・市川市教育委員会より)

 大本山 法華経寺 黒門 附扁額
 
 この門は法華経寺の総門で、全体が黒塗りとなっているため黒門と呼ばれています。建立年代は明確ではありませんが赤門(仁王門)の創建と同じ、江戸時代の初期頃と考えられます。
 門の型式は高麗門(こうらいもん)と呼ばれる形式で、四角の本柱二本と丸い控柱二本で構成され、本柱の上には細長い切妻屋根を掛け、本柱と控柱の間にも一段下げて直角に切妻屋根を掛けます。もともと高麗門は城郭の外門に設けられたので板扉が付けられますが、黒門には門扉が付いた痕がなく、当初から吹き通しの門でした。
 建立後、度々の修理が行われましたが、これは控柱が掘立で五〇年程度での取替えが必要なこと、屋根葺替えや塗装が主なる修理内容です。本柱など本体構造は当初の状態で残っています。
 なお、正面中央に掛かる扁額は掛川城主太田資順の筆で、裏面に寛政五年(一七九三)の刻銘があり、門の附指定です。全体に彩色が施され、文字は浮彫りになっています。
  如来滅後
  閻浮堤内
  本化菩薩
  初轉法輪
  法華道場

 平成二十一年七月より十七か月を要して解体修理を施し、基礎を新たにコンクリート造に改め、控柱を取替えて従来の掘立柱を継承した。また、屋根の銅板を葺替えたほか、腐朽していた木鼻等を取替えて塗装を塗り替えた。併せて扁額の修理も施した。

大本山法華経寺
市川市教育委員会

中山法華経寺 黒門前の案内看板より

池上本門寺 扁額

この扁額は「本阿弥光悦」が書いたもの。
これも千葉県市川市の「法華経寺」にある扁額と同じタッチの文字である。

法華経寺の扁額(本阿弥光悦書)

左下がりになるのが光悦の特徴なのかな?

黒門を抜けると、すぐ左手に「理境院」が見えてくる。

理境院[りきょういん](日輪上人草庵跡)

本門寺3世住職である、日輪聖人の住坊として開創されたのが始まり。(1321〜1324年)
こちらは池上三院家の一つとされ、格式が高い者にしか許されない朱塗りの門である。

整備された芝生がとても綺麗だ。
ここは1867年に当時官軍参謀であった、西郷隆盛の宿舎にあてられたと伝えられる場所でもある。

理境院の門前にあった「不老門」の石碑

石碑の半分ほどが地中深くまで埋まっていた。かつてここに門があったことは間違いないだろう。
ただ、なぜここまで埋まったのかを調べたのだがわからず。理由が知りたい。。。

此経難持坂(しきょうなんじざか)

池上本門寺の石段 (大田区教育委員会より)

この石段は、加藤清正(一五六二~一六一一)の寄進によって造営されたと伝えられ、「法華経」宝塔品の偈文げぶん九六文字にちなみ、九六段に構築され、「此経難持坂しきょうなんじざか」という。
なお、元禄(一六八八~一七四〇)の頃に改修されているが、造営当時の祖型を残しており、貴重な石造遺構である。
 清正は、慶長十一年(一六〇六)に祖師堂を寄進建立し、寺域を整備しているので、この石段もその頃の所産と思われる。

昭和四十九年二月二日指定   
大田区教育委員会

池上本門寺 石段前の案内看板より

池上本門寺と言えば、この階段だろう。先述の浮世絵にもしっかりこの階段が描かれている。

あの加藤清正公から寄進されたとされる石段で、「法華経」宝塔品の偈文の96文字にちなんで96段となっている。
なかなかに急ではあるが、階段の右脇になだらかな階段も設置されているので、急な階段が苦手な方でも安心して登れるようになっている。

左が上りで右が下りと書いてある。ようは左側通行ってことですね。

池上本門寺 長栄堂

階段を登ると右手に見えるのが長栄堂。

こちらには、当山の守護神である「長栄大威徳天」と、「大黒福聚尊天」いわゆる大黒様を祀っている。

扁額には「長栄大威徳天」と書かれている。

お堂の中はこんな感じ。

「長栄大威徳天」と、「大黒福聚尊天」の提灯が良い雰囲気を出している。

池上本門寺 仁王門

更に階段を登り、見えてくるのがこの大きな仁王門だ。

門内にはアントニオ猪木をモデルに制作した仁王像が安置されていたが、近年修理を機に本殿内に移設されたとのこと。あー残念。

池上本門寺 大堂

仁王門をくぐると、すぐに大堂だ。
大堂は、加藤清正が母の七回忌追善供養のために建立したと言われている。
その後、度々焼失しながらも「徳川8代将吉宗」の寄進などもあり、再建されている。

日蓮を祀ることから「祖師堂」とも言う。
撮影時、ちょうど鳩が飛び立ち、いい雰囲気になった。

度重なる火災により焼失を繰り返したが、第二次大戦の空襲(昭和20年4月15日)後、仮祖師堂の再建を経て、現在の鉄筋コンクリート造りの大堂へと再建された。
現在の大堂は、入母屋造りで高さ27メートルの大規模建築である。仮祖師堂は、現在の大堂が再建されるにあたり取り壊され、宗祖奉安塔を現在の霊宝殿の位置へ移動させたとのこと。

堂内には中央に日蓮聖人の御尊像、いわゆる祖師像が安置され、向かって左に第2世日朗聖人像、右に第3世日輪聖人像が安置されている。

池上本門寺 大堂前

お堂の中に入り、お参りができる。

池上本門寺 大堂の扁額

こちらの扁額は、第80世金子日威聖人によるもの。
もともとは、本阿弥光悦の筆で「祖師堂」を書かれたものがあったが、残念ながら1710年に焼失している。

池上本門寺 経蔵

池上本門寺 総門と扁額(大田区教育委員会より)

大田区文化財
  経 蔵
 構造・形式は、方三間裳階もこし付き、宝形造ほうぎょうづくり、銅板瓦棒葺、輪蔵形式。
 経蔵内部に、心柱を軸に回転する八角形の書架(輪蔵)があり、かつては一切経(区指定文化財)が収められていた。
 経蔵内部の柱等には、工事に関係した職人をはじめ、講名や氏名、住所等が刻まれ、経蔵建立時の寄進者が広範囲に及んだことがうかがえる。『新編武蔵風土記稿』によれば、天明四年(一七八四)に再建されたものと伝えられる。
 昭和四六年(一九七一)境内整備により現在地に移築されたが、江戸期の輪蔵形式の経蔵は都内でも残存例が少なく貴重である。
 昭和四十九年二月二日指定
 大田区教育委員会

池上本門寺 経蔵前の案内看板より

池上本門寺 本堂

こちらも昭和20年4月15日の空襲で焼け落ちた釈迦堂を鉄筋コンクリートで再建された。
堂内には、正面に久遠の本師釈迦牟尼仏坐像が祀られ、他に本化地涌の四大菩薩立像、大堂尊像を模刻した祖師像が祀られている。

池上本門寺 多宝塔(日蓮聖人荼毘所)

さて、いよいよメインである「日蓮聖人の荼毘所」だった場所「多宝塔」へ向かう。
少し遠いところにあるので、のんびりと歩いて向かうことに。
多宝塔に向かう途中には所々にお墓があった。参拝時期がお彼岸と言うこともあり、お墓詣りをしている方々も多く見られた。

池上本門寺 多宝塔案内看板(池上本門寺より)

 重要文化財
  池上本門寺多宝塔
 宗祖日蓮大聖人の御尊骸ごそんがい荼毘だびに付した霊蹟に建つ供養塔。建立は宗祖五百五十遠忌おんきを期して行われ、江戸芝口講中しばぐちこうじゅうの本願により、文政十一年(一八二八)に上棟、同十三年(天保元年)に開堂供養を修している。石造の方形基壇に築いた円形蓮華座の上に建つ木造宝塔形式の建物で、内外ともに漆や彩色によって華やかな装飾が施されている。塔内中央には金箔や彩色で装飾された華麗な木造宝塔を安置し、日蓮大聖人御所持の水晶念珠を奉安している。
 宝塔形式の木造塔婆は極めて現存例が少なく、当山多宝塔はその中でも最大規模を誇る本格的な宝塔として、極めて重要な建物である。
 なお、「多宝塔」の名称は建立当初から呼称されているものであり、文化財としての名称は「池上本門寺宝塔」である。
 平成二十三年三月
 池上本門寺

池上本門寺 多宝塔の案内看板より

「日蓮大聖人御荼毘處 多寶塔」と彫られた石塔がある。
奥に見える朱色の建物が多寶塔だ。遠目であるが、この位置からでもかなり大きな建物であることが分った。

こちらの石碑には日蓮宗でお馴染みの「髭題目」で、南無妙法蓮華経と彫られている。

まさにこの地で、あの日蓮大聖人が荼毘に付されたのだ。

宝塔の内部について

こちらの宝塔の内部は、本塔に類似した、金の鮮やかな木造宝塔が安置されている。
当時は日蓮聖人の御真骨が祀られていたが、現在は日蓮聖人御使用の水晶製念珠が、御真骨の見立てとして安置されている。
富山本法寺の重要文化財「絹本着色法華曼荼羅図」にある多宝仏塔に類似している。宝塔形式の木造建築物で、内部に空間があるものは、他に殆ど例がないとのことで貴重な建築物であることが伺える。
なお、この扉は年に一度の御会式で開けられ、一般公開される。

おしまい

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アクセス

住所

所在地東京都大田区池上一丁目1番1号
最寄駅東急池上線「池上駅」下車徒歩10分
都営浅草線「西馬込駅」南口下車徒歩12分
駐車場情報専用の無料駐車場有り
公式サイトhttps://honmonji.jp/

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