2004年の大河ドラマ「新選組!」にドはまりして早19年。それ以降、京都旅行に行っては新選組ゆかりの地を廻ったり、お寺を巡ったり、今ではたくさんの御朱印や写真が集まりました。 そこで、新選組に関するお寺を中心にまとめていきたいと思います。
京都市内の新選組を始めとした幕末の志士たちの足取りを辿る
島原花街
①島原大門
島原大門|島原への入口。誘惑の多い街への入口なので、当時は相当煌びやかであっただろう。
島原の由来は、ここへの遊郭の移転騒動がまるで「島原の乱」のようだったことから島原と呼ぶようになったとか。昔の人の名づけ方にセンスを感じる。
明治以降はこの島原も寂れてしまい、現存する建物は3つしかないとのこと。
この大門も当時の歴史を残す大変貴重な建物である。
②輪違屋(わちがいや)
輪違屋|ここは置屋と言い、大夫や芸子の派遣元となった建物。ここから、各料亭に芸子や大夫が仕事に向かって行った。
③角屋(すみや)
「久坂玄随の密談の角屋」の碑が立っている。
角屋|ここは揚屋と言い、大夫や芸子が派遣されるお店であり、今で言う料亭のこと。
祇園にあるような高級料亭の佇まいである。
八木邸|新選組屯所跡
④八木邸
こちらが八木邸。新選組はここ八木家に居候し、宿所として使っていた。
表札も綺麗になり見やすくなっていた。
⑤旧前川邸
新選組の隊士も増え、八木邸だけでなく近くに建つ前川邸も屯所として利用されていた。
この前川邸で、総長の山南敬助が切腹する。ちなみに今でも、その部屋は残されているそうだ。
また、新選組が名を轟かせた「池田屋騒動」のきっかけが生まれた場所でもある。
上記図の左下に建つ「東の蔵」には「古高俊太郎の取り調べが行われた」とある。
新選組の土方歳三らによる拷問で、尊王攘夷派の京都御所焼き討ち計画を古高俊太郎が自白した場所だ。この計画は、焼き討ちによる混乱に乗じて一橋慶喜・松平容保を暗殺し、考明天皇を長州藩へ連れ去る、と言うもの。この自白が無ければ、別の歴史が生まれていたことだろう。
池田屋騒動などで有名になった新選組は段々と大所帯となり、やがて各地に屯所を置いて移転していった。ここは巣立ちの場所でもある。
壬生寺(壬生塚)
⑥壬生寺
このお寺ではなんと砲術の訓練も行ったとか。
かなりの乱暴狼藉ぶりに、きっと住職や住民も困ったことであろう。
境内には、新選組隊士墓所となる壬生塚がある。
芹沢鴨、平山五郎の墓
河合耆三郎の墓
山南敬助ほか新選組隊士のお墓
⑦光縁寺
新選組総長の山南敬助他、新選組隊士のお墓がここ光縁寺にある。
ご住職から新選組に関する話を聞くことができた。また、本堂に上がって当時の葬儀についてのお話も聞かせていただいた。流れるような解説は、まるで講談師のようでもあり一度聞くとクセになる。
山南敬助の墓
池田屋騒動
➇池田屋騒動の跡地
池田屋騒動の跡地には写真のように石碑が立てられている。
この碑が建つ三条通は京都のメイン通りの一つで、池田屋の他にも大きな旅籠が多くあったことだろう。池田谷騒動について書かれた顛末記などを読むと、聞き込みや監査役などが活躍し、情報戦によってこの池田屋に行きついたことがわかり、とても面白い。
この場所を訪れた際には、居酒屋チェーン店となっており、店内には写真のようなパネルが設置されていた。このパネルに、池田屋騒動における新選組各班の行動が詳しく解説されておりついつい読み込んでしまった。
新選組 屯所跡地(不動堂村)
⑨不動堂明王院
不動堂にあるお寺「不動堂明王院」。ここに誠の提灯が下がっており、「まぼろしの屯所」と書かれている。
この屯所の場所は正確には不明ではあるが、この辺り一帯が新選組の屯所であったことが有力視されている。
⑩新選組最後の洛中屋敷跡の碑|ハトヤ瑞鳳閣前
当地は古代の表記でいえば、平安京左京八条二坊十五町にあたります。
中世には八条院町とよばれ、鋳物生産が多数行われた、いわば工業地帯でした。
が、戦国時代には農村化し、江戸時代までに葛野郡不動堂村が成立しました。しかし豊臣期に構築された、京都全体を囲い込む城壁・環濠「御土居堀」の郭内に位置していたため、「洛中」(都市)扱いを受けました。
幕末期、新選組がこの地域に屋敷を営みました。池田屋事件や禁門の変などでの活躍や、局長
近藤勇の政治的力量が高く評価され、慶応3年(1867)6月、将軍徳川慶喜の直属の軍隊となりました。
これにあわせての新屋敷建設です。いわば最盛期の邸宅といえます。近藤の甥で隊士だった宮川
信吉の書簡によれば、同年6月15日に入居しています。位置については、同書簡に「七条通り下ル」、幹部永倉新八の手記に「七条堀川下ル」とあり、当地付近に営まれたことは確実です。
が、厳密な場所や規模、建物構造などについては信用に足る史料が少なく、不明です。価値の低い記録による復元・叙述は、極力さけなければなりません。
同年12月の王政復古政変により、新選組はわずか半年で当屋敷を離れます。翌年1月の鳥羽伏見
戦争の敗北ののちは、関東へ下り、解体の道を歩みます。当屋敷は維持されずに早々に消失して、静かな農村に戻ったことでしょう。
が、明治になり、近くに七条停車場(現京都駅)が設置され、しばらくして地域一帯が京都市内に
編入されます。当地付近は、地域史上はじめて京都屈指の「人の集まる場」となり、今に至ります。歴史地理史学者 中村武生
写真の碑文より
とあるので、ここ京都駅周辺が屯所の跡地であることが分かった。
⑪新選組 不動堂村屯所跡|リーガロイヤルホテル京都内
東本願寺からここへ移転する際の建設費と諸費用を西本願寺が負担することになった、とある。
どんだけ出て行って欲しかったのか分かる。土方も鬼。
御陵衛士関連
⑫伊東甲子太郎殉難(じゅんなん)の地|油小路事件
⑬御陵衛士屯所跡(高台寺月真院)
ここ高台寺月真院は、慶応三年(一八六七)六月から十一月にかけて、熱烈な勤王主義者であり、孝明天皇の御陵衛士(天皇の墓の守護者)と称した伊東甲子太郎ら15名が屯所とした寺院である。彼らはこの寺院を本拠として活動をしていたため、「高台寺党」とも呼ばれている。
伊東は常陸(茨城県)の出身で学問優秀、剣は北辰一刀流の名手であった。元治元年(一八六四)江戸から京に移り、新撰組に入隊し参謀となったが、やがて近藤勇や土方歳三らと意見を異にし、遂に慶応三年三月、新撰組と袂を分かち、同志十四名を連れて御陵衛士に任命され、ここを屯所とした。この中には江戸の試衛館時代からの隊士、藤堂平助の姿もあった。それ以降、薩摩藩からの援助を受け、雄藩(勢力の強い藩)をまわってさかんに勤王を説いた。
慶応三年十一月一八日、伊東は近藤勇から酒席の接待を受けた帰り、油小路木津屋橋で待ち伏せしていた新撰組に誅殺され、さらに伊東の遺体を引き取りに来た多くの同士も、新選組隊士によって斬られ、御陵衛士隊の活動は終止符を打った。京都市
写真の看板より
鳥羽伏見の戦い
⑭御香宮神社
霊山歴史館
⑮霊山歴史館
まとめ
いかがでしたでしょうか。
京都では、新選組の痕跡を多く見つけることが出来ます。
「島原大門」や「壬生」、「油小路」など、観光ではあまり訪れることのない場所は、京都の煌びやかな姿とはまた違った一面を垣間見せてくれることでしょう。