鈴ヶ森処刑場跡|江戸の二大刑場の一つ鈴ヶ森刑場跡に行ってきた(東京都 品川区)

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処刑場は、もちろん罪人を罰するための場所だが、江戸時代では見せしめや治安維持のためにも使用され、残虐な処刑が行われていた。
鈴ヶ森刑場では、火あぶりなど様々な見せしめ刑が執行されていた。当時は現在の法治国家のような制度が確立されていなかったため、冤罪による処刑も多くあったようだ。
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鈴ヶ森刑場とは

  • 鈴ヶ森刑場すずがもりけいじょうは、東京都品川区南大井にかつて存在した刑場
  • 江戸時代、江戸の南の入り口となる東海道沿いに設置されていた
    • 江戸の北の入り口である日光街道沿いには小塚原刑場が設置されていた
    • 江戸に入る人たち(特に浪人)への警告を与える意味も含めこの地に設置された
  • 付近に鈴ヶ森八幡があり、その社に鈴石があったことから「鈴ヶ森」と呼ばれた
  • 1651年(慶安5年)、近くの刑場が手狭になったため新たに開設される
  • 1871年(明治4年)閉鎖
  • 220年間で10~20万人もの罪人が処刑されたと言われる
  • 当時は東京湾沿いにあり、海で水磔が行われた記録が残る
  • 最初の処刑者は「慶安の変」首謀者の一人「丸橋忠弥」とされる
    • 寝込みを襲われ既に亡くなっていたが、改めて磔刑にされた
  • 有名な処刑された人物
    • 平井権八、天一坊、八百屋お七など
googleMAPより引用

現在は街も整備され、ビルや住宅が立ち並ぶ光景が広がっており、ここに刑場が設置されていたことなど全く感じさせない。

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在りし日の鈴ヶ森刑場

歌川広重|東海道 鈴ヶ森

広重:東海道 鈴ケ森-(東海道名所風景) 国立国会図書館デジタルコレクション

中央にある大きな髭題目の墓標は昔からあるのだろう。

品川区教育研究会-編『品川区郷土読本』,品川区教育研究会,昭和14.国立国会図書館デジタルコレクション
鈴ヶ森刑場について

鈴ヶ森刑場跡(大井鈴ヶ森町)

 この刑場は初め高輪如来寺前にあつたが、徳川四代将軍家綱時代に此の地に移されたものである。徳川氏にそむいた丸橋忠彌・天一坊や、又尊王論のさきがけをした山縣大貳等も此處で刑せられたのある。
 刑場で磔又は斬罪に使用した刀・槍等の血潮を洗ったと傳へられる槍洗川は、この附近にある。 昔は此の小川に生ずる葦は、其の葉が一方にのみついてゐて、これを片葉の葦といはれてゐたといふ事である。
 涙橋は今の濱川橋のことで、刑場へ送られる罪人の親族知人等が、ひそかに此處まで見送りに来て、送られる者、送る者が涙を以て別れを告げたといふことである。
 権現山公園(北品川三丁目)
 権現山の名は、かつて東照大権現が祀ってあった爲である。又この附近の井戸は鹽分を含み飲み水とならぬのに、この権現山だけは清水が湧出るので、數百年来附近の人々は勿論、出入する船舶もこれを汲んでゐたと傳へられてゐる。この名水は権現水と呼ばれてゐた。
 明治初年には、軍艦に飲料水を供するために海軍用地で~

品川区教育研究会-編『品川区郷土読本』,昭和14 国立国会図書館デジタルコレクションより

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鈴ヶ森刑場の内部

鈴ヶ森刑場遺跡の看板

すぐ脇には第一京浜があり、かつてはその道路がある一帯が刑場として使用されていた。現在はかなり狭まっているが、それでも特別な雰囲気を醸し出している。

鈴ヶ森遺跡の碑

鈴ヶ森遺跡の石碑が建っている。こちらは比較的新しいように見える。

東京都指定旧跡 鈴ヶ森遺跡の説明

東京都指定旧跡 鈴ヶ森遺跡

鈴ヶ森遺跡は品川宿の南、東海道沿いに慶安四年(一六五一)に開設された御仕置場の跡です。大井村鈴ヶ森の刑場は、東海道に面し、規模は元禄八年(1695)実施の検地では間口四〇間、奥行き九間であったとされます。東海道(現在は第一京浜)の拡幅等により旧態を留めていません。大経寺は御仕置場に隣接し処刑者の供養のために建てられた寺で、髭題目を刻んだ石碑は池上本門寺二五世貫主日顗にちぎの筆によると伝えられるもので、元禄十一年(1698)若しくは元文六年(1741)の建立とされます。
 この鈴ヶ森刑場では、丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木やお駒など、演劇などで知られた者が処刑されたとされます。江戸の刑場史上重要な遺跡です。

東京都教育委員会

刑場内案内看板より引用

鈴ヶ森刑場で処刑された有名人

丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七など、演劇(歌舞伎)でも人気があった。

下記図参考|豊国『江戸名所図会』『『東海道五十三次の内』国立国会図書館デジタルコレクション

丸橋忠弥
天一坊
白井権八
八百屋お七

処刑された方々それぞれの悲劇的な物語は歌舞伎の演目としても人気があったと言うが、すごい時代だ。

鈴ヶ森刑場受刑者の墓

南無妙法蓮華経と書かれた大きな墓標がある。
綺麗な生花が供えられており、いつも誰かが供養しているのだろうと感じられる。

こちらは【鈴ヶ森刑場受刑者の墓】である。

以下の記事より、残酷な描写があります。苦手な方はお戻りください。

処刑跡

ここ鈴ヶ森刑場跡には、現在でも処刑に使用された台が残っている。現在は隣り合わせに並んでいるが、昔はそれぞれ刑場の別の場所に置かれていた。

処刑方法 磔|磔台(はりつけだい)跡

佐久間長敬 著 ほか『刑罪詳説』,[出版者不明]国立国会図書館デジタルコレクション
磔の処刑

処刑方法|縄で柱に括りつけられ、槍で何度も刺し殺す。
付加刑 |市中引き回し
罪状  |殺人(主人や親の殺害、主君や師匠の殺害、内通した夫殺し)
    |罪を着せるための虚偽の申告
    |強盗殺人
    |関所破り
    |偽金造り 
執行後 |絶命した後、磔にくくられたまま放置され晒される。
     その後、遺体は穴に埋め捨てられる。

火炙台の説明

丸橋忠弥を初め、罪人がこの台の上で処刑された。真中の穴に丈余の角材が立てられ、その上部に縛りつけて刺殺したのである。

刑場内案内看板より

とは

受刑者を十字架に縛り付け、左右の脇腹から肩にかけて槍を突き、これを何度も繰り返す。多くはそこで絶命するが、最後に喉を突いて絶命させる(とどめの槍)というとてもむごい処刑方法。受刑者は小伝馬町の牢屋敷から引き出され、付加刑として市中引き回しをした後、ここ鈴ヶ森にて処刑され、三日程晒し者にされた。

の対象者

ご主人や師匠、自身の親、内通した夫殺し、偽金造り、罪を着せるための虚偽の申告、関所破りに関係した者、が受ける刑罰。当時の封建体制を揺るがすようなことをした者は、重大な反逆を犯した極悪人とされ、このような厳しい刑を受けるのであった。

磔の図

【磔刑の図】
藤田新太郎 編『徳川幕府刑事図譜』,神戸直吉,明26.9.国立国会図書館デジタルコレクション

当時の封建体制を揺るがすような犯罪者は、重大な反逆を犯した極悪人として磔の刑となった。
男性は足を開き、女性は慎みを重んじて足を閉じている。
一度だけではなく何度も何度も槍を刺すので、腸や内臓が出ることも多い。
最後は「止の槍」と言われ、喉に一突きし絶命させる。

【磔刑取片付けの図】
藤田新太郎 編『徳川幕府刑事図譜』,神戸直吉,明26.9.国立国会図書館デジタルコレクション

磔の刑が終わり、ボロボロになった遺体や血で染まった支柱を片付けている様子。
処刑後の片付けは、身分制度で低い立場であった非人ひにんによって行われていた。

処刑方法 火罪|火炙台(ひあぶりだい)跡

火罪の処刑

処刑方法|火炙り
付加刑 |市中引き回し
罪状  |放火
    |たとえボヤであっても火罪となった。
     江戸時代は木造家屋のため一度火事になると街全体が火の海となるため大罪であった。
執行後 |絶命した後、男性は陰部、女性は乳房に焼き印を押される。
    |焼けた遺体は三日間放置され晒される。その後、遺体は穴に埋め捨てられる。

火炙台の説明

八百屋お七を初め火炙の処刑者は皆この石上で生きたまゝ焼き殺された
真中の穴に鉄柱を立て足下に薪をつみ縛りつけて処刑されたのである。

刑場内案内看板より

火罪(火あぶりの処刑)とは

受刑者を薪の上に立たせ、十字の角材に縛られる。その周りに茅や薪を立て掛け、そこに火をつけて焼き殺す。すぐに焼き殺すのでは無く、遠くから熱し、自分の身体が焦げ、立ちのぼる煙で苦しませるようにしていたため、煙による窒息死、もしくはショック死が多かったとされる。
また、焼死体に対し、鼻と、陰嚢(男性の場合)、乳房(女性の場合)を焼くとどめ焼きを行った。
受刑者は磔と同じく、小伝馬町の牢屋敷から引き出され、付加刑として市中引き回しをした後、ここ鈴ヶ森にて処刑され、三日程晒し者にされた。

上の図では薪の上に罪人を立たせ、体全体を覆うように茅を巻き付けて焼く。
焼死体に対しては、鼻と、陰嚢(男性の場合)または乳房(女性の場合)を焼くとどめ焼きを行った。

火炙りの刑の対象者

放火犯に限られる刑であり、同害報復的な死刑である。目には目を、火には火を的なもの。
江戸では人口が増え、一度火事になったら甚大な被害となるため、放火犯はとても厳しいが処せられる。

火炙りの図


【火刑(ひあぶり)の図】
藤田新太郎 編『徳川幕府刑事図譜』,神戸直吉,明26.9.国立国会図書館デジタルコレクション

市中引き回しは罪状が書かれた札と共に市内を廻り、晒しものとして扱われる。
共犯が居れば連座で引廻され、その後刑場で判決結果の刑を受けることになる。

【火刑取片付の図】
藤田新太郎 編『徳川幕府刑事図譜』,神戸直吉,明26.9.国立国会図書館デジタルコレクション

火刑は猛烈な熱さで皮膚はただれ、呼吸をすると喉の奥まで火が入ってくる。
あまりにも惨い状況であるため、火を付ける前に殺してしまうことも多かったという。
処刑後の片付けは、身分制度で低い立場であった非人ひにんによって行われていた。

八百屋お七について

豊国『江戸名所図会 十八・本郷 八百屋お七』,伊勢屋忠介,嘉永5国立国会図書館デジタルコレクション
八百屋お七の超簡単な説明

江戸本郷にお七と言う名の八百屋の娘がいた。ある日、お七が住んでいた八百屋が不運なことに火事で燃えてしまった。家を再建するために、一家は一時的にお寺で借り暮らしをすることに。(この仮住まいがその後の悲劇を生むことになるとは)。
 お寺での借り暮らし生活をしていくお七は、寺小姓であった生田庄之介を好きになり、やがて恋仲へと発展した。
しかし幸せなのも束の間。月日が経ち、家の再建も終わると二人は離れ離れになってしまうのであった。
 恋人と離れ離れになり、とても寂しくなってしまったお七は、「また生田庄之介さんと一緒に暮らしたい!また家が火事になれば、お寺で一緒に暮らせる!!」と思う一心で、とんでもない計画を企て、お七は家を放火することに。。。
 幸いなことにボヤで済んだが、間違えれば江戸中火の海になるとことであった。この状況を重く見た幕府は、処刑の中でも一番残酷な火炙りの刑にしたのであった。
おしまい。

首洗いの井戸

この井戸では、切断された首を洗ったり、処刑で使用された刀や槍を洗ったと言われている。井戸は移動できないため、当時からこの場所に存在していたと思われる。

鈴森山 大経寺

googleMAPより引用

アクセス

住所

所在地東京都品川区南大井2丁目7−3
最寄駅「京急本線 大森海岸駅」下車 徒歩8分
駐車場情報駐車場なし
公式サイトhttps://shinagawa-kanko.or.jp/spot/suzukamorikeijouseki/(品川観光協会)

GoogleMap

地獄についての記事書きました!!

処刑された人はもちろん悪党だからではあるが、中にはえん罪で処刑された人も少なくない。
そんな方たちを助けてくれるのが閻魔様を始めとする「十王」によって、死後の進む世界が決まるのだ!

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