処刑についてどんだけ知ってる??
日本の死刑制度の歴史について
江戸時代の死刑制度について知る前に、まずは日本の死刑制度がいつ頃から存在していたのかを遡ってみたい。
律令国家時代
日本での死刑の歴史は古く、律令国家の時代(757年|養老律令)には「律令法五刑」の一つとして、既に死罪が存在していた。
そもそも律令とは、[律](刑法)、[令](民法及び行政法)を意味し、権力者や主君などが、私的に拷問をしたり、処刑することが禁止されていた。
なお、律令国家時代の死刑は、「絞(絞首刑)」「斬(斬首刑)」「焚(火炙り)」の3種類あり、法に基づき処刑された。
律令国家時代の処刑は以下のとおり
平安時代
724年に、聖武天皇より死罪の者を「流罪」に減ずるとの詔が出された。
その後一時的に死刑が復活したが、818年には後嵯峨天皇により「盗犯」に対しての死刑が廃止され、徐々に死刑が廃止されていった。
死刑に代わる最高刑は「流罪」や「禁獄(牢獄に閉じ込める)」となった。
では、なぜ「死刑が廃止された」のだろうか?
実は平安時代における日本では、朝廷や権力者の間で仏教の思想が強くなり、死刑によって惨殺された者の霊が祟りを起こすと信じられるようになっていた。
これにより、公的に残虐な拷問や死刑は執行されることが無くなったとされている。なんと、その後約300年間に亘り、平安時代は死刑が行われなくなったのである。まだ魑魅魍魎と人との距離が曖昧だった頃の面白いエピソードと言える。
平安時代の処刑は以下のとおり
鎌倉時代
これまでの日本は、天皇を中心とした公家社会(殺しは不潔であり仏教に反する)であったが、鎌倉時代に入る少し前から徐々に武士達を中心とする武家社会(殺るか殺られるか)へと大きく変貌を遂げていく。
この社会の移り変わりに応じるように、鎌倉幕府を中心として再び死刑が復活したのであった。
死刑復活のきっかけとは?
死刑復活のきっかけとなったのは、1156年の保元の乱。戦に勝利した平清盛率いる平家は、敵側についた武士たちをことごとく捕らえて公的に「斬首」とした。この「死刑」こそが、300年以上行われていなかった死刑制度が復活した瞬間であった。
やがて「晒し首」や「爪剥ぎ」「口裂き」「鼻削ぎ」などの拷問も行われるようになり、死刑と並んで拷問も過酷なものへ進化していく。
死刑や拷問の条項が新たに定められた法律の制定
それまでの法律は「律令」であったが、これは貴族社会に則した内容で武家社会には合わないとし、1224年に鎌倉幕府第三代執権「北条泰時」らにより武家政権のための法律「御成敗式目」が定められた。
御成敗式目には、強盗や放火、謀反や殺人など重罪を犯した者は死刑と定められ、いずれも処刑方法は「斬首刑」のみであった。ただし、「謀反」は罪が重いと捉えられ、市中引き回しの後斬首され、晒し首とされる「獄門」と言う刑が加えられた。
武家社会において、君主に背いたものには相当な罰が与えられていたのだ。
鎌倉時代の処刑は以下のとおり
室町時代
執権北条氏の衰退により後醍醐天皇や公家を中心とした「建武の新政」が行われるものの、当然のことながら多くの武士が反発した。その後、足利尊氏によって室町幕府が開かれることになるが、南北朝時代に突入し天皇同士が対立を深めるなど、政治は混乱を極めていた。
やがて、足利義満によって統一され室町幕府もなんとか落ち着きを得ることになる。
死刑制度の行方
室町時代においても基礎は武家社会なので、御成敗式目を踏襲して使われていた。
従って、死刑は「斬首刑」と「獄門」のみ。
「拷問」については、水責めや火責めといった残忍な刑が増えていった。
室町時代の処刑は以下のとおり
戦国時代
残虐性を増す処刑と拷問
室町幕府の衰退により、各地方の戦国武将が覇権を争う時代へと代わり、法律が守られるような状況ではなくなっていく。戦国時代と言えば下剋上。「謀反」なんてものは当たり前の時代なのだ。
このような時代背景に合わせ、「謀反」を起こした裏切者やその近親者などには苛烈な刑を与えた。また、第2第3の謀反を起こさせないよう、見せしめの意味も含めて恐ろしい拷問と残虐刑が生まれていくことに…
戦国時代の処刑は以下のとおり
江戸時代
荒れに荒れた戦国時代が終焉を迎え、徳川家康によって江戸幕府が開かれた。
約260年間に亘って平和な時が流れた江戸時代だが、初期は法整備も進んでおらず戦国時代の残虐な刑罰が残っていたと言われる。
江戸時代の主な処刑6種が制定される
徐々に法律が整備され、残虐な処刑や拷問を良しとしない民衆などの声を受け、江戸中期の1742年に刑法や民法をまとめた「公事方御定書」が定めらることになる。これにより、公的に処刑や拷問に対する条件や方法が決定された。
江戸時代の処刑は以下のとおり
※死罪とは6つある処刑(死刑)方法の一つの種類なのである。死刑と死罪は勘違いしやすいので注意。
罪を犯せば誰もが合議にかけられ裁かれる時代に
江戸時代になって、ようやく妥当性や法の整合性について議論することになる。
貧富貴賎問わず全ての人が裁きの対象となり、裁判関係者の合議によって刑罰の判決が行われるようになった。
時代劇「遠山の金さん」や「大岡越前」でおなじみ、罪状を言い渡すシーンに登場する奉行所の「お白洲」は、いわば現代の裁判所法廷と言ったところだ。容疑者はここで判決を言い渡されるのである。
また、江戸時代中期「杉田玄白」らによって編纂された「解体新書」は、処刑された遺体を解剖しながら研究が重ねられたことでも有名だ。
日本の死刑制度のまとめ
死者や祟りを恐れるあまりに死刑を中止した古代、“殺るか殺られるか”下剋上の中世、法が整備され死刑制度も合わせて体系的にまとめられた近世江戸時代。
律令国家の時代から順に紐解くことで、死刑制度と社会は密接な関係が見えてきた。
また、厳罰として死刑制度を導入し、見せしめや第2の犯罪を抑止するための刑執行もあった。
江戸時代の処刑について
刑法・民法をまとめた「公事方御定書」登場
江戸時代では、犯罪者は刑法や民法をまとめた「公事方御定書」によって裁かれた。戦国時代までの悪しき風習の名残であった残虐な死刑や拷問は改められ、それなりに倫理的な刑罰を与えようと考えていた。
こうした中、死刑は6種類に定められ、犯した罪の重さによって死刑の内容が決められることになった。
法がしっかり守られたかと言うと・・・?
とは言え時は江戸時代。法は整備されていたが、中には独自の判断によって処刑や拷問が秘密裏に行われていたのも事実である。
現代の裁判のように厳密な調査を行うことも難しく、明確な証拠を揃えられずに権力や身分の違いで刑を確定することが多く、えん罪がかなりの数にのぼったことも事実であった。
今でこそ目撃証言や指紋、防犯カメラ、遺留品調査、DNA検査など様々な方法で証拠を洗い出し、法に精通した裁判官によって厳格に裁判が行われることが当たり前だが、このようなことは江戸時代には皆無だった。
犯罪発生から刑の執行までの流れ
①犯罪を犯してしまう
②あえなく捕まり
③町奉行に御用
④奉行所で判決を聞いて
⑤監獄に
⑥余罪や噓が無いか拷問され
⑦処刑確定
⑧市中引き回しにされ
⑨刑が執行される
そもそも切腹って何??
さて、死刑の内容を解説する前に、「切腹」について解説したい。
「切腹」と聞くと、時代劇を思い浮かべることも多いと思うが、これをただの「処刑」の一つと捉えてはいないだろうか?
「切腹」は誰もが命じられる処刑ではない
実は切腹と言うのは武士の身分における「処刑」であり、武士だけに認められた“けじめ”の行為なのだ。
例えば新選組の近藤勇は、武士なら武士らしく切腹させて欲しいと懇願したが、新政府軍はこれを認めず、斬首のうえ、晒し首となった。武士にとって切腹以外の死は屈辱でしかない。
武士のプライド「切腹」の真実
江戸時代には身分制度の取り決め「士農工商」があり、例えば武士には武士のためのルールが制定されていた。
しかし、武士と言えども人間だ。「切腹」と一言で言っても、己の過ちを認めけじめとして切腹を自ら選択する者もいれば、主君に切腹を命じられる者もいる。後者の切腹はある意味、他殺でもある。
主君に切腹を命じられるということは、つまりそのものは主君から見放され、“体よく葬り去られる”と言う意味でもあったと推測できる。
武士としてのけじめとは言え、やはり自分でお腹を裂くことはなかなか出来ない。
切腹の決意が出来ず、ただ時間を消費することもよくあった。そこで登場するのが「介錯人」である。
「自分で刺すの怖いからお願いしまス」 「分かった…あとは任せてくれ。」
介錯人は罪人の苦痛を和らげる役割だった
介錯人は切腹人が腹を切る際、瞬時に首を刎ね、本人を即死させることが最大の任務であった。これは、切腹人の負担と苦痛を和らげることが目的であったとされている。手練れの介錯人であれば、首を一刀両断で落として即座に絶命させることができるが、下手な介錯人にあたってしまうと何度も失敗を繰り返し、罪人が絶叫をあげながら絶命していくという、悲惨極まりない最期を遂げる。
そこで、奉行所では手練れの武士や「処刑人」と呼ばれる処刑のプロに介錯を依頼していたのだそうだ。
打ち首獄門って、斬首と違うの?
「打ち首獄門」、これも時代劇などでよく聞くセリフではないだろうか。
打ち首とは「斬首」のことであり、獄門は「死刑の種類」のこと。
「首を刎ねても足りない!死んだ後も市内にさらし首にして、屈辱を味わえ!」と言うことになる。相当に重い罪なのだ。
死刑の種類や内容については、この後詳しく解説していく。
江戸時代の処刑について
これ以降、実際の処刑に関する生々しい描写が続きます。
ショッキングな内容が苦手な方は読み進めないことをお勧めします。
そもそも処刑場ってどんなところにあるの?
当時の処刑は、主に城下の御仕置き場、特定の処刑場や牢屋敷に設けられた処刑場で行われた。
刑場には多くの遺体が放置され、異臭はもちろん、遺体を食べる虫や野犬がうろつくため、街から離れた場所に置かれていた。
また、村の外れや関所、地方牢屋、事件と関連ある場所での斬首も行われていたとの記録も残っている。
新選組局長の近藤勇は板橋処刑場で斬首されたが、元々はここに処刑場はなく、お寺の境内の一角にある馬捨て場であったと言われている。幕末動乱期の真っただ中にあり、急ごしらえで刑場を作って斬首することも多かったのだあろう。
江戸最大の牢屋敷 伝馬町牢屋敷処刑場
東京と日本橋にある小伝馬町牢屋敷では、敷地内に処刑場を有し、ここで多くの人が処刑された。
この牢屋敷は現在の拘置所にあたる。処刑場なのに刑務所ではない理由は、江戸時代の刑罰に懲役刑が存在していなかったため、そもそも刑務所自体存在していなかったからである。
伝馬町牢屋敷は、およそ2,600坪(サッカーグランドより一回り大きい)程の大きさを有し、収容者は大体300~400人程度であったと言われる。
処刑よりも獄死が多かった!地獄の伝馬町牢屋敷
伝馬町牢屋敷では、処刑された人数よりも獄死の人数の方が圧倒的に多かったという。
当時この牢屋敷内は、囚人たちによる完全な自治体制が敷かれていた。いわゆる看守である「牢屋役人」ですら権限の及ばない世界だったのだ。
また、収容人口が増えすぎると「作造り」と呼ばれる口減らしという殺人が横行した。その標的は、規律を乱す者、元岡っ引き、密告者、鼾のうるさい者、金品の差し入れがもらえない者など、様々である。死亡時には病死として届け出られ、特に咎められることもなかったという。
まさに無法地帯の地獄と言えるだろう。
江戸の二大処刑場 鈴ヶ森刑場と小塚原刑場
鈴ヶ森処刑場
江戸2大刑場の一つである「鈴ヶ森処刑場」は江戸の南の入り口となる品川宿の近く、東海道沿いに設置されていた。この処刑場は、もちろん罪人を罰するための場所なわけだが、当時は見せしめや治安維持のためにも使用され、火炙りや磔など様々な見せしめ刑が執行されていた。
ここ鈴ヶ森刑場では、220年の間に10万~20万人の罪人が処刑された。
鈴ヶ森刑場跡には、現在でも処刑に使用された台が残っている。現在は隣り合わせに並んでいるが、昔はそれぞれ刑場の別の場所に置かれていた。
小塚原刑場
もう一つの大刑場は南千住にある「小塚原刑場」。この刑場は、北の入り口である日光街道沿いにあり、こちらも見せしめ効果を高めるために設置されていた。
歴史も古く、1600年の中頃には既に設置されており、明治に入って刑場が廃止されるまで約200年以上に亘り使用された。この小塚原刑場で殺された罪人は延べ20万人とも言われる。
江戸時代の死刑の種類
江戸時代の刑法にあたる公事方御定書には死刑の種類は以下の6種類とされている。
江戸時代の死刑の種類
- 其ノ一、 下手人(げしゅにん)
- 首を刎ねる(遺族によって遺体を引き取り弔うことが可能)
- 其ノ二、 死罪(しざい)
- 首を刎ねる(弔うことは不可、遺体は刀の試し切りに利用)
- 其ノ三、 火罪(かざい)
- 市中引き回しの後、火炙りで殺されさらし首にされる
- 其ノ四、 獄門(ごくもん)
- 首を刎ねる(遺体の引き取り・弔いは不可、さらし首)
- 其ノ五、 磔(はりつけ)
- 市中引き回しの後、槍で刺殺され3日間放置後捨てられる
- 其ノ六、 鋸挽(のこぎりひき)
- 市中引き回しの後、鋸で首や体を切られ最後は磔にされる
各刑の処刑方法をはじめ、罪状や執行後の状況について細かくまとめてみた。
下手人(げしゅにん)
別資料の斬首の様子
罪人の前には大きな穴が掘られ、落ちた首がこの穴の中に転がる。
斬首は残酷に見えるが、痛みは一瞬なので死刑の中では一番軽い。
下手な処刑人であると、罪人に余計な苦痛を与えてしまうため、奉行所はプロの処刑人(首切り役人)に依頼し一瞬で絶命できるよう考慮していた。
斬首刑の後の遺体を片付ける様子。落とした首は井戸や川で洗い清めてから俵に入れられる。
井戸は動かすことは出来ないので、当時のままの場所に残っていることが不気味である。
ここだけはリアルに感じてしまう。
死罪
「死罪」は、6種類ある「死刑」のうちの1つ。
今で言う死刑とは少し意味合いが違う。
火罪(かざい)
市中引き回しの様子
市中引廻しの後に品川の鈴ヶ森刑場で火刑
火刑は猛烈な熱さで皮膚はただれ、呼吸をすると喉の奥まで火が入ってくる。
あまりにも惨い状況であるため、火を付ける前に殺してしまうことも多かったという。
処刑後の片付けは、身分制度で低い立場であった非人によって行われていた。
上の図では薪の上に罪人を立たせ、体全体を覆うように茅を巻き付けて焼く。
焼死体に対しては、鼻と、陰嚢(男性の場合)または乳房(女性の場合)を焼くとどめ焼きを行った。
獄門
なぜ獄門と呼ばれるのか?
「獄門」の起源は平安時代まで遡る。
平安京には牢獄が東西にあり、罪人を斬首した後その首を牢獄の門の前に晒したことから「獄門」という名前がついたのだそう。
江戸時代には晒首専門の獄門台が開発され、江戸の庶民は誰でもこの獄門を無料で観覧することが出来たと言われる。そのため、怪談めいた見世物として広く知られるようになった。
磔(はりつけ)
当時の封建体制を揺るがすような犯罪者は、重大な反逆を犯した極悪人として磔の刑となった。
男性は足を開き、女性は慎みを重んじて足を閉じている。
一度だけではなく何度も何度も槍を刺すので、腸や内臓が出ることも多い。
最後は「止の槍」と言われ、喉に一突きし絶命させる。
磔の刑が終わり、ボロボロになった遺体や血で染まった支柱を片付けている様子。
こちらも処刑後の片付けは、身分制度で低い立場であった非人によって行われていた。
よく見ると腹部は衣服が切られ肌が露出している。槍が突きやすくする工夫だろうか。
受刑者を杭に縛り付け、左右の脇腹から肩にかけて槍を突き指す。これを何度も繰り返すことで多くの人は絶命するが、最後に喉を突いて絶命させる(とどめの槍)という、とても惨い処刑方法であった。
鋸挽き(のこぎりびき)
この処刑は、生きたまま埋められ、傍に鋸が置かれる。鋸引きの希望者を募って引かせるなど、かなり残酷な刑。更には痛みが増すよう、わざと切れにくい竹で作られた鋸を使用したこともあるのだとか…
この図は、処刑のための晒し小屋を描いたもの。わざわざ晒し小屋を作ってしまうというのは、現代の感覚からは想像できない。
恥辱刑も含めているので、日本橋のような大きな繁華街で作られたのだそうだ。見せしめであり、犯罪抑止の目的もあったのかもしれない。
鋸引きの刑に処される場合の罪状は主君殺しや父殺しであるため、相当に重い罪であることが想像される。復讐刑の意味合いも強く、非常に残酷な処刑となった。
わざと切れない竹の鋸で苦痛を与え、人に引かせるとは。恐ろしいことを考えたもんだ。
まとめ
古来から存在していた死刑制度。歴史を紐解くと、当時の社会情勢を色濃く反映していることがわかる。江戸時代に入ると、死刑制度はバリエーションを広げ、それぞれに意味を持たせて刑を執行していた。ある場面では、罪人の負担を軽減させるような方式を採用し、また別の場面では罪人に最大限の苦しみを与えている。このバリエーションが、後の懲役刑や罰金刑へと姿を変えていったのかもしれない。