葛飾北斎の富嶽三十六景を徹底解説!作品の現在の場所と一覧

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葛飾北斎が生み出した傑作『富嶽三十六景』は、江戸時代の日本を描いた風景画として、世界中で愛されています。このブログでは、北斎の人生と彼の影響力をまとめ、各作品に描かれた場所と現在の風景を比較してみます。浮世絵の世界を旅しながら、歴史と現代の日本の風景を楽しんでください。

目次

葛飾北斎とはいったいどんな人物?

葛飾北斎について

  • 幼少年期(1760~1777年/1~18歳)
    • 1760年、本所割下水(現在の東京都墨田区)生まれ。本名「川村時太郎」。
    • 母方は吉良上野介家臣の孫娘、父は川村某氏。4歳頃に養子となり「中島八右衛門」と名乗る。
    • 6歳頃から絵を描くことに関心。14歳で木版彫刻師の徒弟に。同じ頃貸本屋の従弟となる。
  • 勝川春朗期(1778~1794年/19~35歳)
    • 1778年、浮世絵師「勝川春章」に入門し、20歳で「勝川春朗」の画号をもらう。
    • 浮世絵、黄表紙の挿絵、錦絵、洒落本、春画、肉筆美人画を描く。
    • 絵の技術向上のため、他派の絵画や西洋画も学ぶ。
    • 1792年、師匠春章の死去により「勝川派」を離れる。
  • 俵屋宗理期(1795~1798年/36~39歳)
    • 1794年、勝川春朗を廃し「二代目 俵屋宗理」を襲名。美人画「宗理美人」を完成。
    • 私生活では最初の妻が死去。経済的困難から1798年に「宗理」の画号を売却。
  • 北斎期(1798~1809年/39~50歳)
    • 1798年から「北斎辰政」の号を用い、生涯画工を貫くことを誓う。
    • 1801年から「画狂人北斎」と号する。
    • 後妻「こと」と結婚。
    • 「二美人図」などを発表し、読本の挿絵も手掛ける。
    • 1805年、「葛飾北斎」の号を用い始める。
  • 戴斗期(1810~1819年/51~60歳)
    • 1810年から「戴斗」、「北斎戴斗」の画号に変更。弟子は約200人。
    • 「絵手本」や「北斎漫画」を制作し、海外でもベストセラーとなる。
  • 為一期(1820~1834年/61~74歳)
    • 還暦を迎え「為一」、「北斎為一」の画号を用いる。
    • 1827年に脳卒中を患うが回復。
    • 1831年、代表作「富嶽三十六景」を発表。
    • 他にも「百物語」、「諸国瀧廻り」、「富嶽百景」などの風景版画を制作。
  • 卍・画狂老人期(1834~1849年/75~90歳)
    • 1834年頃から「卍」、「画狂老人」を画号として使用。
    • 天保の大飢饉により肉筆画帳を販売し生計を立てる。
    • 晩年、浦賀に身を隠し、80歳で火事に遭い、脳卒中になるも回復。
    • 1844年と翌年、長野県小布施への旅行で祭屋台の天井画を描く。
    • 1849年、肉筆画「富士越龍図」を描き、4月18日に永眠。享年90歳。

富嶽三十六景について

  • 富嶽三十六景について
    • 概要と背景
      • 『冨嶽三十六景』は、1831年から1834年にかけて発行された、葛飾北斎による富士山をテーマにした図版画集。
      • 当時の江戸では、富士山への信仰が厚く、「富士講」や「富士塚」が盛んに行われていた。この風潮の中で「富嶽三十六景」は誕生し、大ヒットとなった。
    • 構成と追加作品
      • 当初は「三十六景」の予定だったが、売れ行きが好調だったため、さらに10点が追加され、全46図となる。この追加された10点は「裏不二」と呼ばれている。
    • 表現技法と影響
      • 「富嶽三十六景」は当初、藍色の濃淡のみで表現する「藍摺絵」として出版。この技法を用いることで、当時の流行色を取り入れ、人々に楽しんでもらう意図があった。
      • 同時期に版行された歌川広重の『東海道五十三次』とも互いに刺激し合いながら、江戸の浮世絵文化を盛り上げた。

そもそも富嶽って何??

「富嶽」の意味について

「富嶽」とは富士山の別の呼び方。「富岳」の文字から「富嶽」となった。

富嶽三十六景の場所と作品名

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