日本寺の御朱印|鋸山(日本寺)完全ガイド!日本寺の大仏様と地獄のぞきは必見です!(千葉県 鋸南町)

千葉県
千葉県寺院都道府県別

房総半島の東京湾沿いにある鋸山に、日本寺がある。大きな岩をくり抜いて造られた大仏や、山頂の展望台にある「地獄のぞき」を楽しむことが出来る。都心からは日帰りでも気軽に訪れることができ、歴史と自然を満喫することができる穴場スポットとして、注目を集めている。

参拝日:2023年5月12日
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お寺の紹介

  • 725年(神亀2年)、聖武天皇の勅願により「行基」が開山
    • 関東最古の勅願所
  • 東大寺を開山した「良弁」、遣唐使となった「空海」「円仁」などが訪れた
  • 857年から2年間(天安年間)、円仁が住職となり天台宗の寺院となる
  • 源頼朝足利尊氏らが寺の復興に尽力
    • 源頼朝が石橋山の戦いに敗れ房州へ逃れた際、日本寺で武運を祈願した
      • この時植えた蘇鉄は今も大蘇鉄として境内に残っている
    • 鎌倉幕府開府してすぐに、日本時復興に尽力し1181年に薬師本殿を再建
  • 江戸時代、徳川家光の頃には曹洞宗の寺院となる
  • 明治の神仏分離令や、昭和に入ってからの火災等により、現存する堂宇は極僅か

正式名称

 乾坤山けんこんざん 日本寺にほんじ

創建

 725年|聖武天皇の勅願により「行基」が開山

宗派

 曹洞宗

御本尊

 薬師瑠璃光如来 ※薬師如来

ご真言

 薬師如来|おん・ころころ・せんだり・まとうぎ・そわか

御朱印

御朱印所

大仏前にある売店にてご朱印を頂ける。

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みどころ

鋸山ロープウェイ

鋸山ロープウェイ公式HPよりダウンロードできます

それではいざ山頂へ!

金谷漁港と東京湾フェリー乗り場が一望できる。

そうこうしているうちに、あっという間に山頂に到着。千葉県には低い山が多く、最高峰の愛宕山でも標高はわずか408メートルに過ぎない。鋸山は千葉県で18番目に高い山でありながら、その高さと海の広さを感じさせるような、息をのむ景色が広がっていた。

ロープウェイで一気に山頂まで行けるが、山頂からすぐにお寺に参拝することになってしまう。ゆっくりとお寺巡りを楽しみたい場合は、表参道からの参拝がおすすめ。

日本寺 表参道エリア

山門(仁王門)

日本寺の山門(仁王門)が見えてくる。そして階段が続く。

木々の木漏れ日と石段が美しい。奥にも階段。

李竣鎔によって書かれた扁額がある。
こちらは日本寺の山号である「乾坤山けんこんざん」と書かれている。

日本寺 仁王門の看板

仁王像は慈覚大師作
平成十六年修復

仁王門

扁額は李峻鎔公書

こちらが山門である仁王門。

2体の金剛力士像が睨みを利かせていた。強烈な目力を感じる。

表参道管理所

表参道から参拝する場合は、こちらの表参道管理所にて拝観料を支払う。

観音堂

管理所を抜けると、観音堂が姿を表す。

扁額には「円通閣」と書かれている。

仁王門と同じ造りに見える。同じ時期に建てたのかな??かなりの歴史を感じる建物だ。

日本寺 観音堂の看板

安房国札第八番
十一面千手観世音菩薩

観音堂

はるばると のぼれば日本の山おろし
まつのひびきも みのりなるらん

お堂の中を覗ける隙間があったが、足元の土台が不安定であったので、やめた。
ムリはしない方が良い。ぜったい。

心字池

日本寺 心字池の看板

おのづから 心にかかるちりもなし 心の池に心あらいて

心字池

濁りなき 心の水にすむ月は 波もくだけて光とぞなる

うっそうとした森の中に、ひっそりと佇む心字池。苔むした岩々が雰囲気を醸し出している。

池のほとりには石像が建っていた。右の石像は、かつて薬師殿に置かれていた十二支像の一つなのだそう。明治の廃仏毀釈の折、他の石像は破壊されてしまったが奇跡的に残ったものだそうな。今にも動き出しそうな造りに驚く。そして、擬人化されている像はなかなか珍しいのではないだろうか。

さて、この心字池を抜けると次は中腹エリア。まだまだ先は長い…。

日本寺 中腹エリア

通天窟

通天窟には、日本寺の曹洞九世「高雅愚伝禅師」と「道元禅師」「瑩山禅師」を祀っている。

珍しい石造りの建物。鋸山の石を使って建てたのだろう。
どことなく、沖縄の雰囲気を感じる。

日本寺 通天窟の看板

当山興高雅愚伝禅師

通天窟つうてんくつ

永平総持両開山を安置す

「通天窟」と彫られた石板が掲げられているようだ。その上には、二人の天女が向かい合う様子が彫りこまれている。美しい。

中には3体の石像が安置されていた。

内部の壁には、寄付した方の名前と住所と金額が彫られている。
どこの町の、どんな商いをしている人なのか、まで読み解くことができて面白い。
昔の人々の息遣いを感じた気がした。

頼朝蘇鉄

日本寺 だるま石の看板

広庭松下の祖

達磨石だるまいし

四方面壁の相

長谷川馬光の句の看板

引きおろす 鋸山の 霞かな

作者長谷川馬光は、葛飾派山口堂の弟子で、二六庵竹阿の師である。有名な小林一茶は孫弟子にあたる。
この碑の式は、寛政二年(一七九〇) 四月一日に行われたが、一茶は、師の竹阿が 三月一三日大阪高津に残したので、二六庵をついで故師の代参とし列席した。一茶二十八才の春で、房州に足を入れた初めでもあった。

日本寺 大蘇鉄の看板

源頼朝公御手植

大蘇鉄おおそてつ

樹令約八百余年

源頼朝公が伊豆から海を渡り上陸したのが、ここ上総の鋸南町だと言われている。
頼朝もこの鋸山に登ってこの蘇鉄を植えたのだろうか。樹齢800余年ってすごい!

この蘇鉄の中に石像が安置されていた。凛とした姿でありながら柔らかな印象も併せ持ち、とても趣があった。

「漱石 子規 鋸山探勝碑」とある。

夏目漱石と正岡子規の友情の舞台がここ鋸南であったことから、この碑が建てられたのだそう。じっくり読むと一緒に訪れたわけでもないらしいことがわかる。

日本寺 漱石・子規 鋸山探勝碑の説明

漱石・子規 鋸山探勝碑

 近代日本文学史上、燦然と輝く明治の文豪、夏目漱石と近代俳句の祖、正岡子規との友情の舞台が房州の鋸山(千葉県鋸南町保田)です。正岡子規が明治二十二年五月に詩文集「七草集」を親友の夏目漱石に示すと、漱石は丁寧な批評を寄せました。「七草集」に触発された漱石は、同年八月房総を周遊し、漢文紀行「本哨録」を執筆して子規に届けました。子規はこれを激賞しました。ともに詩文の友であることを確認しあったのです。「木暦録」には、房州鋸山の絶景と悠久への思いが綴られております。二年後の明治二十四年春、子規もまた更なる詩想を求めて房総を周遊し鋸山山頂からの眺望を漢詩に詠んだ紀行「かくれみの」を書き上げました。これを読んだ漱石は子規の着想の良さを讃えました。
 以降、二人は生涯にわたって絆を深めて参ります。のちに漱石は「こころ」などの作品に房州の自然や地理を取り込み、子規もまた房州の地名を織り込んだ俳句を数多く詠んでおります。
 ここに二人の偉業と溢れる友情の証を末永く讃え続けたいと建立致しました。

 平成二十六年五月吉日
 漱石・子規房州鋸山顕彰会 

漱石・子規 鋸山探勝碑横の案内看板より

この頼朝蘇鉄を後に、次は大仏へ向け進んでいく。

乾坤稲荷(けんこんいなり)

日本寺 乾坤稲荷の看板

荼吉尼天だきにてんを祀る

乾坤稲荷けんこんいなり

衆生の心垢を食し 良く仏慧に入らしむ

大仏までの道の途中、乾坤稲荷けんこんいなりに出くわす。
「乾坤」とは、この日本寺の山号である。ということは、このお寺のお稲荷さんってことなのだろう。

このお稲荷さんは岩山の上にある。

入口には二匹の狐が迎えてくれた。
とてもかわいい顔をした狐さんなので、なごむ。

階段は、大きな岩を削って作られているようだ。古くからここにあるのだろう。石がすり減っていた。

こちらも岩をくりぬいて作られたお稲荷様の祠。これだけ大きな岩がこの辺りにゴロゴロ転がっていたというのか。これは圧巻の景色。

祠の中には狐の石像が祀られていた。
日本寺の係員の人から、この狐にまつわる話を聞いたが、全く思い出せない…。
乾坤稲荷に関わらず、敷地内のことについて時間があれば丁寧に教えてくれる方もいるので、一度声をかけてみるのも良いかもしれない。

薬師本殿

「乾坤稲荷」を後に、更に大仏へ向け歩いて行くと、次は「薬師本殿」が見えてくる。

鋸山のイメージがあるが、ここはお寺の境内なので、色々なお堂があるのだ。
鋸山と聞いて思い出すのは有名な大仏・地獄覗き・百尺観音くらいだろう。実際、この辺りは人の姿もまばらで、穴場スポットとなっている。

実は、ここが日本寺の本堂「薬師本堂」なのだ。こちらにご本尊の薬師如来が祀られている。

日本寺 薬師本殿 医王殿の説明

薬師本殿 医王殿
 当寺本尊薬師瑠璃光如来を祀る

 昭和十四年、不慮の火災により焼失したが、六十余年の時を経て、鵤工舎小川三夫棟梁の手により、平成十九年十月に再建された。
 様式は鎌倉時代の禅宗様式。焼失前の仏殿は、源頼朝による医王殿の扁額が掲げられていた。

薬師本殿 医王殿前の案内看板より

本殿は昭和14年の火事で焼失してしまい、平成19年に再建された。
なんと、焼失前の仏殿には頼朝公による扁額が掲げられていたとのこと。何とも惜しい・・!

平成の再建とだけあり、堂内は新しさを感じる。中には御本尊である薬師瑠璃光如来が安置されていた。

薬師如来は「大医王仏」との異名を持ち、医薬の仏として信仰を集めている。
なので、こちらの建物も大医王仏から医王殿と呼ばれている。
薬師如来像の足元に並ぶ12体の像は、十二支像だと言われている。先の心字池ほとりにひっそりと安置されていた石像は、本来ここに安置されていたということなのだろう。

全国火葬場残骨灰諸霊位供養塔

薬師本殿の隣には、全国火葬場残骨灰諸霊位供養塔が建てられている。

文字通り火葬場の残骨灰を埋葬し供養している。
この全国火葬場残骨灰諸霊位供養塔は、全国に数ヶ所ある寺院に設けられいるとのことで、この日本寺もその一つである。

源氏不動

こちらも薬師本殿の近くにある。

日本寺 源氏不動の看板

行も亦禅 坐も亦禅
語黙動静体安然

源氏不動

旗本曽根懶斎寄進

旗本の曽根懶斎そね らいさい にて寄進されたとある。
この方の素性は不明であるが、おそらく頼朝公に仕えた武士なのであろう。

岩板には、不動明王が彫られている。よく見る鬼の形相のような険しい表情ではなく、むしろ人間味に溢れる不動明王様だ。

この薬師殿を抜けると、次は中腹エリアの最後の大黒堂。その次がいよいよ大仏広場へ!
広いなあとは感じていたが、それにしてもまだまだ全体から見るとほんの序章であることを今はまだ知らない。

大黒堂

日本寺 大黒堂の説明

大黒堂
 弘法大師一夜彫刻爪彫大黒天を祀る

 本尊の大黒尊天は、当山にて、弘法大師御修行のおりに彫刻された石仏で、秘仏とされて居り、開運厄除け、商売繁盛、家内安全にご利益が有ると伝えられております。
 御前立は、現代の名工渡辺貞光師に、江戸時代の版木を元に製作していただきました。
 平成十七年十二月再建

大黒堂前の案内看板より

石仏は秘仏とされており、公開はしていない様子。代わりに、御前立が安置されているとのこと。

丸い小窓から中が見えるようになったので、のぞいてみた。

大黒天がポツンといらっしゃる。
この御前立おまえだちが、江戸時代の版木を元に作られた大黒天ということなのだろう。福に溢れるお顔だ。

鋸山 無料駐車場

お役立ちポイント!
大仏に一番近い入口を選ぶなら「東口管理事務所」から入るのが良い。
この、無料の駐車場も目の前なので、とても便利。

この階段を登ると東口管理事務所がある。

日本寺 大仏広場

日本寺の大仏

さて、いよいよ大仏様のいる大仏広場へと向かう。御朱印も、この大仏広場で頂ける。

現在地はまだここか。
とんでもなく広い。こんなに歩いて階段上って、1/3弱って。
先を急ごう。

見えて来た!巨大だ!

比較するものが無いため、大きさが少し分かり辛い。周辺の木々と比較すると、少しは想像できるだろうか。とにかく、下から仰ぎ見るような大きさだ。

こちらが、日本寺のメインとも言える大仏で、「薬師瑠璃光如来」と呼ばれてる。
1783年(天明3年)に、大野甚五郎英令と27人の門徒が3年の歳月をかけて、岩山から彫り出したと伝えられている。左手には薬壺を持っており、病気で苦しむ人々を救いたいという願いが込められているのだそう。近くで見るとかなりの大きさで、3年もかかったというのも納得。

台座を含め、高さ31m、座高だけでも21mもある。奈良の大仏が台座含め18mなので、はるかに大きいことが分かる!

日本寺 大仏の説明

大仏
 薬師瑠璃光如来

 この大仏さまは、宇宙全体が蓮華蔵世界の浄土であることを現し、人々の本性の限りない解脱自由と、世界平和万世太平の大象徴であります。
 原型は天明三年に名工大野甚五郎英令を頭梁として彫刻完成されましたが、惜しくも江戸時代の末期に、自然の風蝕と岩石の亀裂によって著しく崩壊し、その後荒廃にまかされておりました。
 昭和四十年、二紀会審査員(故)八柳恭次氏の指導を受けて復元工事に着手し、昭和四十四年六月に現在のお姿に彫刻再現されました。名実ともに日本最大の磨崖仏であります。

大仏広場前の案内看板より

上の看板にある「磨崖仏」とは石仏の一種で、切り出した石ではなく自然の岩壁や岩、転石を使って作られた仏像のことである。

迫力が伝わっているのかが心配。それほど大きいのです。

では、大仏の後ろは一体どうなっているのだろう。

横から見ると、まさに山と一体となっていることがよくわかる。珍しい石像だ。

山と一体化している大仏様がいらっしゃるのはここだけ!少し離れてみてもこの大きさ!!

とても美しく柔和な顔立ちで、人々を苦しみから救ってくれそうだ。見る角度によってはなんだか憂えているようにも見える。ずっと見ていられるなあ。

売店

大仏広場に、売店がある。

こちらの売店で御守や御朱印を頂ける。
自販機もあるので、水分補給はここでしっかりと行うのがBest!!

お願い地蔵尊

こちらのお願い地蔵尊も大仏広場にある。
遠くから見ると白い小山があるだけだと思って見てみると…

ものすごい量のお地蔵さんの山でした!
顔がかわいい♪
それにしてもすごい量だこと。

聖菩提樹

お釈迦様の聖地ブッダガヤの菩提樹の分木が植えられていた。
ブッダガヤとはインド北東部にある場所で、お釈迦様(別名ブッダ/ゴータマシッダルタとも言う)がこの地で悟りを得て、その後世界各地に仏教が広まったとされる仏教の聖地のこと。

日本寺 ブッダガヤ聖菩提樹の分木贈呈書の説明

 日本寺殿
   インド国副大統領
   シャンカール・デアール・シャルマ博士
   1989年4月30日

 贈呈書

 釈尊成道の聖地ブッダガヤの聖菩提樹の分木を日本寺に贈呈するに当たりインド国民と日本国民との間には古来より、強いきずながあったことを申し上げます。
 この分木には「世界が平和で繫栄しますよう、そして釈尊の慈悲のみ心を忘却せず、相互に理解しあえる世界でありますように」という、インド国民の願いがこめられております。
 日本とインドの友好親善の関係がますます深くなります事を祈念申し上げます。

菩提樹前の石碑より

インドの副大統領から日本寺へ送られた贈呈書の内容が刻まれている。
にしても読みづらい‥・。他の素材ではダメだったのかな??

日本寺 アショーカ石柱の説明

敬愛する仏法の友
日本寺 山主 藤井徳禅・執事長 内田大円 殿

 貴殿が、インド政府、シャンカール・デアール・シャルマ副大統領閣下から公式に拝領された、釈尊成道の聖地ブッダガヤの聖菩提樹の分木を、日本寺境内に植樹される儀式に際して、拙職から小さな贈呈をさせて頂くことを、大変光栄に存じます。
 インドの国章「アショーカ塔」を写刻したこの石柱は、アショーカ仏教界から貴日本寺へ友好の証として贈ると同時に、このアショーカ石柱が象徴する釈尊のみ教えを、共に深く信じ、平和を愛する日本国民への、インド国民からの友情と信頼のかけ橋でもあります。 合掌

1989年5月12日
インド国、アショーカ仏教会総裁
大僧正 ラマ・ロブザング

アショーカ塔前の石碑より

こちらは菩提樹の分木の隣に立っている「アショーカ塔」についての説明書き。
アショーカ仏教会の総裁から日本寺へ友好の証として贈られた。 
こちらの方がもっと読みづらいって言う…。

では、いよいよ山頂を目指しつつ、次のエリアへと進む。

にしても、どう進んだら良いのだろう…
効率的な廻り方が全く分からないし、後戻りもしたくないし。

そこで!!

お役立ちポイント
①ルートをしっかりと考えて登るべし
②大仏殿脇のルートは地獄のルート!体力に自信があるときに登ろう

大仏殿を見終わると、売店の後ろにこの看板がある。
あれこれと検討した結果このルートが良いと思って進むと、地獄を見る。ひたすら階段なのだ。
なぜ知っているかと言うと、この道から進んだから…。

日本寺の階段の数

この階段地獄の話を管理所の方にすると、「ルートによって階段の数が違うから、大仏殿から頂上を目指すのは大変よ!」と言われ、この地図を見せて頂いた。(写真も許可頂きました♪)

日本寺の階段の数

見て分かるように、大仏広場から頂上を目指すと352段もある。
日本寺はとにかく階段が多いので、体力を考えてルートを検討することを勧めます。

日本寺 大仏広場から山頂までのひたすら階段地獄

序盤、まだ体力も充分あったので、この階段上りがワクワクした気持ちを盛り上げてくれた。

鳥の声も聞こえ、ハイキング気分を味わえる。空気もおいしくて、いい気持ち!

登ったり下ったりを繰り返しながら山登り。

座禅石

やっと目じるしとなる座禅石に到着。
地図を見ると山頂まではあと少しに見える。
顔が取れているのが悲しい。

先へ進む前に「注意」看板を発見。この先階段連続区間につき、もろもろ気を付けて!無理な人は羅漢道へ廻ってください、とある。

だいぶ階段を登って来たけれど、まだ階段があるのか・・・。でも行くしかない!
と気合を入れなおす。

二天門

気合を入れて山頂目指し、先へ進むと見えてくるのが「二天門」。
岩をくり抜いた穴の両側には、二天が睨みを利かせている。

日本寺 道天関の看板

厳険く関を通るが如く

道天関

柳面すれば 天に登るに似たり

ここを通ると天に登る様子に似ているとある。

疲れすぎて天に登りそう…

上からはこんな感じ。

西国観音

日本寺 西国観音の看板

一法を見されば 即ち如来

西国観音

方に名けて観自在を 為すことを得たり

楽しそうに談笑している石像も居たり、表情がそれぞれ違うので、見ていて楽しい。

さて、山頂まであと少し。

ゼーハー言いながら頑張ってひたすら登る。

日本寺 山頂エリア

山頂見晴らし(地獄のぞきの場所ではない)

この地点からすでに、素晴らしい景色だ。

まだ真夏ではないので、吹く風も心地よい。
館山自動車道が良く見える。

上記の撮影場所はここ。
撮影スポットにもなっている「地獄覗き」よりも迫力がある。スペースも広く、見晴らしが良い。地獄覗きが混雑しているときは、こちらがおススメだ。

ここからは「地獄覗き」のエリアも良く見える。
さて、次は地獄覗きへと向かってみよう。

地獄のぞき

ここは、こう見えて、鋸山を代表する観光スポットだ。休日ともなると多くの人が列を作って並んでいる。
先ずはこの丘を登る。お年寄りにはちょっと大変そう。


山頂の展望台である「地獄のぞき」からは、東京湾や房総半島、天気が良ければ富士山まで見渡すことが出来る。

一見怖そうだが、下があまり見えないので、それほど怖くはない。

この後に行く「百尺観音」のエリアも見下ろせる。
こうして俯瞰で見ると、山を切って石を採掘している場所であることが、よくわかる。

山頂展望台

展望台からだと「地獄覗き」を真横から見ることが出来る。この位置から記念写真を撮ると、観光雑誌のような写真を撮ることが出来るのだ。

中に浮いているような絶景写真が撮れます!

では、続いて百尺観音へ。

百尺観音

岩を切り通して作った道を進んでいく。
展望台を降りたらすぐなので、簡単に来れる。

先ほどの道を抜けると、大きな岩壁をくりぬいて彫られた巨大な観音像が現れる。

こちらも比較対象が無いので大きさが分かり辛いが、100尺なので30m程の大きさである。

近づいていく

真下から見上げるとこんな感じ。近づくと大きすぎて、全体像が分からなくなる。

百尺観音の看板

航空航海陸上

百尺観音

交通安全守護

世界大戦の戦死病没殉難者と交通事故の犠牲者を供養するため、昭和35年に発願され、6年の歳月をかけて昭和41年に彫刻が完成したとのこと。「陸・海・空」の交通の安全を守る本尊として崇められているのだそう。このために岩を切り出したのかと思ったが、どうやらかつての石切り場なのだそう。

先ほど上から見た景色を下から。
切り立った岩肌からちょこんと飛び出しているのが「地獄のぞき」だ。今にもぽっきりと折れてしまいそうな形をしている・・!下からこの場所を確認して、「地獄覗き」へ行くと、より一層スリルを味わえそうだ。

では、最後の羅漢エリアに向かう。
この時点ですでにヘトヘト。無駄な遠回りだけはしたくないと思い始める。

日本寺 羅漢エリア

ひたすら階段

鋸山の中でも、羅漢エリアはとにかく階段ばかりなので、歩きやすい靴での参拝をお勧めする。
登ったり下ったりの繰り返し。てくてくてく・・

不動滝

日本寺 不動滝の看板

茫々たる宇宙人無数

不動滝

幾笛の男児が是れ丈夫

滝が、この先に、あるのか。

正直この階段ですら登るのをためらう自分がいた。
しかし、不動滝があると書いてあるし、せっかくなので登ってみることに。

た・・滝と、石像が見えて来た。

滝のたもとに、不動明王様がいらっしゃった。
この滝の水で疲れた体を冷やすと、意外と心地よく疲労回復になった。

さて、気を取り直して不動滝を抜け、いよいよ日本寺のメインである千五百羅漢へと向かう。

護摩窟

羅漢道には、そこかしこにこのようなトンネルがある。
非日常的で神秘的な空間をより一層感じられる。

お!見えて来た。

すごい石像の数。

様々な羅漢像がズラリと並んでいる。このような光景は、日本寺でしか味わえないものではないだろうか。一つ一つの表情も違うので、時を忘れてじっくりと見入ってしまう。

羅漢…?ところで、羅漢って何だろう?

まめ知識
羅漢とは阿羅漢の略であり、仏教界において悟りを得て、他者から尊敬された聖人を阿羅漢と呼ぶ。
つまりこの場所には、たくさんの聖人が並んでいるということになる。

日本寺 護摩窟の看板

弘法の護摩窟

護摩窟ごまくつ

千年香烟薫る

こちらの案内板には「弘法の護摩窟」とあるので、後ろの円形状の洞窟に安置されているのが弘法大師像なのだろう。

おそらく弘法大師像。貫禄がある。

ここだけではなく、いたるところに監視カメラが設置されている。いたずらはやめましょう。
過去にも若いカップルが石像を破壊したとニュースにもなっていた。悲しい・・。

お役立ちポイント!
ここに安置されている石像の多くが、見るも無残に破壊されている。
これらの殆どは、明治初期の「廃仏毀釈」運動で破壊されたものなのだそう。政府の命令なので歯向かうことも許されず、政府役人が監視する中、地元の人々の手によって破壊されたと言われている。当時の地元の人々の気持ちを想うと、胸が痛む。

聖徳太子像

日本寺 聖徳太子の看板

法中の王最も高勝

聖徳太子

川沙の如来 同じく共に証す

ここは近くまでは行けないため、遠くからの見学となる。

こちらが聖徳太子像である。
小高いとこにあるのでよくわからない…

維摩窟(ゆいまくつ)

聖徳太子像の近くにあるのがこの維摩窟。
広範囲にわたり、かなり大規模な羅漢像群だ。

日本寺 維摩窟の看板

不思議解脱の力

維摩窟ゆいまくつ

沙用恒沙、也た極まり無し

こちらが維摩居士。
古代インドの裕福な商人の出であり、菩薩の修行を重ね仏教徒の模範とされてきた人物である。

まだまだ羅漢の旅は続く…

・・・正直もうお腹いっぱい。帰りたい一心で歩いていく。とはいえ、まだたくさんの聖人たちが待っている。

奥の院無漏窟(おくのいん むろうくつ)

分かれ道があり、その先には「奥の院無漏窟」がある。
登って、見て、同じ道を下る。行くかやめるかのせめぎあいが自分の中で始まる。

階段の右手沿いに、石像群が立ち並んでいる。

日本寺 奥の院無漏窟の看板

無上法王の奥

奥の院無漏窟むろうくつ

十方の諸仏集まる

少し登ると奥の院無漏窟が見えてくる。こちらもこの先立ち入り禁止。

奥に見えた石仏。如来様を中心に一か所にまとめて安置されていた。これまでの石像と比較して少し大きめだ。間近で見たかったなあ。

日牌堂

ガクガクの足を踏ん張りながら階段を下りていく。
下りの方が大変と言われているが、ここに限っては登りの方がずっと大変に感じる。あと何ヶ所あるのかと考えながらひたすら歩き登り下る。

日本寺 日牌堂の看板

諸行は無常にして一切空なり

日牌堂にっぱいどう

即ち是れ 如来の大円覚

小道を進むと突如開けた場所に出る。こちらが日牌堂。
ここは窟とは言わず堂と書いてあるが、違いは何だろう。
日牌とは毎日位牌の前で供養をすることを言い、おそらくここも位牌があり、毎日供養されていたのであろう。

ずらーっと並んだ石像がこちらを向いている。

もう帰りたい…と思いながら、百体観音を目指して歩く。これは見ておきたいので頑張る。

宝篋印塔

日本寺 宝篋印塔の看板

無名の実性即仏性 本源自性天真仏

宝篋印塔ほうきょういんとう

江戸蔵前 大口屋平兵衛寄進

宝篋印塔とは、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種を指す。
時代を感じる。

道も舗装された道から山道に変わってきた。足元に張る木の根に気を付けながら先へ進む。岩が多いので、木の根も表面に出てきてしまうのだろう。

疲れすぎてほぼスルー。
しかし、石像の表情に一つとして同じものはなく、本当に面白い。

大野英令の墓

日本寺 大野英令之墓の看板

安政八年当山に上り造仏に生涯をかけた不世出の名工

大野英令之墓

木更津市桜井出身

木更津市出身の名工と言われた人のお墓もあるようだ。

いつの間にか、小道は山道へと姿を変えている。ヘトヘトで休みたい。そういえば、羅漢エリアにはベンチや自販機は一個もない。座って休めるような場所も無いので、元気なうちに見学した方が良さそうだ。

ところどころに羅漢像がならんでいる。もうここまでくると見てない。

日本寺 百躰観音の看板

象生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦

百躰観音

四国・坂東・秩父観音を合祀す

着いたーー!!ついに目指していた百躰観音に到着。

これまでの羅漢像とは違い、観音様が所狭しと並んでいる。優雅で美しい・・!
頑張ってここまで歩いてきて良かった。

大まかな見どころはこれが最後。
後は登ってきた階段をひたすら下りて帰るだけ。
2日間は筋肉痛が抜けなかったくらい疲れたが、とても面白い体験ができた。

おしまい

おつかれさんじゃったのぉ。

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アクセス

住所

所在地千葉県安房郡鋸南町元名184
最寄駅「JR内房線 浜金谷駅」下車 ※ロープウェイ利用の場合
「JR内房線 保田駅」下車 ※表参道から登る場合
駐車場情報専用の無料駐車場あり
公式サイトhttp://www.nihonji.jp/index.html

GoogleMap

鋸南と言ったら黄金鯵

さすけ食堂

テレビにも度々登場する、さすけ食堂。金谷フェリー乗り場の近くにあるので、場所も分かりやすい。
平日にも関わらずこの盛況ぶり。30分程待って入店出来た。

さすけ食堂のメニュー

悩む。せっかく来たのだから、とにかくアジフライを一杯食べたい。となると、5個あるフライ定食か。いやしかし、漁港が近くにあるだけに、お刺身も捨てがたいところだ。ここは店名冠した一番人気のさすけ定食にするか。悩む・・・・・・・・・・・・。

刺身を取った。
フライは特有の臭みもなく、衣はサクサク、身はフワフワで本当に美味しかった。想像しているアジフライとは全くの別物だ。
ちなみに、アジフライは醤油がおススメ。

近くにあるおススメの神社仏閣

館山市|萬徳寺 巨大な涅槃像がすごい!!

館山市|大福寺 崖の上にある観音堂がすごい!!

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