問題は3つありますので、全問正解を目指しクイズに挑戦してください。
それでは早速問題に参りましょう!!
問題1 これはどこのお寺かな?
お寺の本堂はこちらです
訪問時は丁度改修の時期でした・・・

ヒント|御朱印を見る
御朱印の中央にはこのお寺の御本尊である薬師如来の別称である「醫王殿」と書かれている。

ヒント|お寺の総門を見る
大きな日本の国旗と仏旗(六色仏旗)が掲げられている。

ヒント|お寺の由来を見る
とんでもなく大きな敷地を有しているのが分かる。かなり格式の高いお寺なのだろう。

ヒント|最寄りの駅を見る
ここのお寺は山の上にあるのでケーブルカーで向かいます。

ヒント|山頂からの景色を見る
とんでもなく綺麗な景色ですね。何かヒントは無いかな??

ヒント|大講堂を見る
こちらの大講堂は昭和39年に山麓の坂本から移築されました。

ヒント|地域を見る
滋賀県にあるお寺です。
ヒント|最後のヒントを見る
このお寺を開山したのは「最澄」。こちらは幼少期の銅像。
後にこのお寺は焼き討ちに合うことに・・・・

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正解は滋賀県の比叡山にある「延暦寺」でした!
延暦寺は788年(延暦7年)、最澄によって開かれた日本天台宗の総本山。比叡山全域が境内で、「三塔十六谷」と呼ばれる150以上の堂塔を擁しています。平安京の北に位置し「北嶺」とも称され、興福寺(南都)と並ぶ存在だったんです。平安仏教の中心として発展し、日本仏教の基盤を築いた総合大学のような役割を果たしていました。皇室や貴族の庇護を受け、最盛期には3,000以上の寺社を擁していました。1994年には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されました。
織田信長と延暦寺
1571年、延暦寺は信長の要求(味方になるか中立を保つ)を拒否し、浅井・朝倉軍を匿い、これにより、9月12日、信長は延暦寺を焼き討ちし、多くの堂塔が焼失、僧兵や僧侶が犠牲となりました。比叡山の炎上は京都からも確認され、記録にも残されています。ただし、発掘調査では、焼失したのは根本中堂と大講堂程度とも考えられています。
場所はここ


問題2 これはどこのお寺かな?
お寺の本堂はこちらです
モザイクがかかったところが本殿?です。


たくさんの人で賑わっています。
ヒント|御朱印を見る
中央には「観音殿」と書かれています。


ヒント|お寺(庫裏)の庭を見る
白砂の文様がとても綺麗に整備され、寺の雰囲気を味わえる。




ヒント|境内を上から見る
高台から一望できます。


ヒント|庭園を見る
錦鏡池|池泉回遊式の庭園


ヒント|地域を見る
京都府にあるお寺です。
ヒント|このお寺を建立した人を見る


足利義政公がこのお寺を建立しました。
ヒント|最後のヒントを見る
このお寺の正式名称は慈照寺と呼びますが、一般的にはもっと良く知られた名前で呼ばれています。


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正解は「銀閣寺」でした!
銀閣寺の概要
銀閣寺の正式名称は東山慈照寺で、相国寺の塔頭寺院の一つです。もともとは足利義政が造営した山荘「東山殿」で、彼の法号「慈照院」にちなんで慈照寺と名付けられました。江戸時代に「金閣寺」に対して「銀閣寺」と呼ばれるようになりました。義政は15歳で将軍となり、自らの美意識を反映させ、東山文化の象徴となる簡素で味わい深い美を表現しました。
場所はここ


問題3 これはどこのお寺かな?
お寺の本堂はこちらです
現在の本殿は7回目の再建を経て今に至っている。


ヒント|御朱印を見る
こちらのお寺は法華宗であり、「妙法」と書かれている。


ヒント|表門を見る
こちらのお寺は商店街の中にあり、ふいに見つける有名なお寺です。


ヒント|お寺の寺号標柱を見る
位(くらい)の高い人のお墓があります。


ヒント|お墓を見る
こちらがその人物のお墓とされている。




ヒント|地域を見る
京都府にあるお寺です。
ヒント|最後のヒントを見る
ある戦の戦死者の名簿


その中にはある有名な方の名が刻まれている。


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正解は「本能寺」でした!
本能寺の概要
本能寺は、応永22年(1415年)に日隆聖人によって「本応寺」として創建。もともとは現在とは異なる場所(油小路高辻と五条坊門の間)にありました。法華宗本門流の大本山であり、日蓮大聖人の教えを広める役割を担っています。
本能寺は7度の建立を繰り返した歴史を持ちます。
1度目:日隆聖人が「本応寺」として創建
2度目:妙本寺の教徒により破壊され再建
3度目:如意王丸から土地の寄進を受け、六角大宮に「本能寺」を建立
4度目:「天文法華の乱」で焼き討ちに遭い再建
5度目:「本能寺の変」で焼失し、豊臣秀吉の命で現在地に再建
6度目:天明の大火で焼失し再建
7度目:蛤御門の変で焼失し、1928年に本堂を再建
火災に何度も遭ったことから、「能」の「ヒ」の字を嫌い、「去」をあてた表記になったといわれています。
織田信長と本能寺
天正10年(1582年)、織田信長は毛利攻めの指示を出した後、少数の手勢を従えて本能寺に入りました。そして、明智光秀に秀吉の援護を命じます。しかし、光秀は亀岡城を出た後に反旗を翻し、「敵は本能寺にあり!」と宣言。17,000の兵で本能寺を完全包囲し、明け方に襲撃しました。
信長は寝込みを襲われ、一時は抵抗するものの最終的に断念。自ら本能寺に火を放ち、自刃しました。伝承によると、信長の三男・織田信孝が遺骨を集め、墓を建てたとされています。
場所はここ

