お寺の紹介
- 807年(大同2年)に空海が創建し、470年間は「真言宗」
- 鎌倉時代中期に「曹洞宗」に改宗し、その時に、寺名を「修善寺」から「修禅寺」に変更したとの説がある
- 建長年間、中国の禅僧「蘭渓道隆」が滞在し「臨済宗」に改宗
- 蘭渓道隆は南宗の皇帝「理宗」から「大宋勅賜大東福地肖盧山修禅寺」と言う額を賜る
- 中国大陸まで修禅寺の名が広まるきっかけに
- 源頼朝の弟「源範頼」・息子で鎌倉幕府2代将軍「源頼家」が幽閉され殺害される
- 範頼には、史料が残ってないこと、子孫が御家人として残っていること、から生存説も
- 本堂は1883年に再建されたもの
- 地名は「修善寺」寺名は「修禅寺」と、表記が異なる
正式名称
福地山 修禅萬安禅寺
創建・開基
807年・弘法大師空海
宗派
曹洞宗(当時は真言宗、のち臨済宗を経て現在は曹洞宗)
御本尊
大日如来
ご真言
おん・あびらうんけん・ばざら・だどばん
御朱印
切り絵のカラー印刷の御朱印
御朱印所
本殿向かって右側の建物で御朱印が頂ける。
看板もあるので分かりやすい。
御朱印は何種類か用意されていた。前回は大日如来の御朱印を頂いたで、今回は他のにしたいところ。
今年(2024年)は辰年なので、6番の切り絵(龍)にした。
注意 切り絵ではなく切り絵をコピーした御朱印
切り絵そのものを御朱印として頂ける神社仏閣も多いので、こちらもそうかと思ったが、実際は切り絵をカラーコピーした御朱印紙を頂くことになる。
切り絵を期待する方も多く居るかと思うので、注意が必要。
直接御朱印帳への記載はしておらず、朱印紙でのお渡しのみとのこと。
修禅寺MAP
修禅寺だけでなく、周辺には見どころもたくさんあるので、ゆったりと観光できる時間を取って訪れた。
みどころ|修禅寺エリア
看板の地図だと、このあたり。
修禅寺までの修善寺の街並み|町名は修善寺・寺名は修禅寺
温泉街の雰囲気が漂い、街並みがとても綺麗。
修禅寺の近くにはいくつか駐車場があるが、参拝の折にいつもお世話になっている駐車場がある。舗装されているので車にも優しい。料金は1日500円。
虎渓橋(あこがれ橋)
「虎渓橋」は、桂川にかかる5つの橋のうちの一つ。それぞれに恋愛成就のご利益があるのだとか。
この橋を渡ると、修禅寺の入口となる階段が見えてくる。
川の中ほどにせり出すように「独鈷の湯」が作られている。昔は温泉として入浴できていたようだが、現在は利用することは出来ない。足湯として利用することも禁止されている。
独鈷の湯と足湯
独鈷の湯の説明
独鈷の湯(とっこのゆ)
大同2年(807年)に弘法大師がこの地を訪れた時、桂川で病み疲れた父の体を洗う少年を見つけ、その孝心に心を打たれ「川の水では冷たかろう」と、手にした独鈷杵(仏具)で川中の岩を打ち、霊泉を湧出させたと言う。そして、大師が父子に温泉療法を教えたところ、不思議なことに、父の10数年の固疾はたちまち平癒したと伝えられ、この後この地方には温泉療法が広まったという。
いわゆる修善寺温泉発祥の温泉で、伊豆最古のものと言われている(2007年で開湯1200年)。
なお、現在は観光施設として管理されており、多くの方に見ていただくため、入浴はお断りしている。
伊豆市
独鈷の湯の前の案内看板より
要約すると「川で体を洗っている人を見た弘法大師が、持っていた独鈷杵で岩を突いたら温泉が出た」というありがたいところ。
以前は入口から立ち入り禁止だったが、今回は入れそう。
入浴はもちろん、足湯も禁止されている。
ルールを守って観光したいものだ。
とても綺麗な水が張られていたが、温かいかどうかは不明。湯気も出ていなかったから、そこまで熱くはないのだろう。
で、足湯に入りたくなったら、この近くにある足湯がおすすめ。
ここの足湯は結構温度が高め。
この日は1月にしては暖かい日だったのでお湯も少し熱く感じたが、厳しい寒さにはこれくらいの温度の足湯がちょうど良さそうだ。
河原湯(足湯)の説明
湯河原(足湯)
修善寺温泉にはその昔、河原沿いに7つの外湯があり、当時外湯として親しまれていた河原湯は、この足湯の少し上流に佇んでいました。このため、平成22年4月3日に開湯したこの足湯が外湯時代と同様に、皆様に楽しんでいただけることを願い、河原湯と命名しました。
足湯として開湯した河原湯を、皆様お気軽にご利用ください。
河原湯(足湯)の前の案内看板より
散策で疲れた足を癒してくれる、とてもありがたい足湯である。
この時点ではまだ駐車場から歩いてきたばかりで疲れていないけど。
修禅寺 山門前
修禅寺といったらまずこの階段からの景色が浮かぶのではないだろうか。テレビや雑誌に出てくる有名な場所だ。
「修禅寺」と書かれた石碑はなく、「弘法大師」の石碑がある。
実際に参拝しに来て感じたことだが、それほど長い階段では無いのだな。
想像ではこの3倍くらいあるイメージだったので、最初は気づかずに何度も通り過ぎたくらいだった。
修禅寺の説明
修禅寺
修善寺温泉発祥の寺で、平安初期の大同2年(807年)弘法大師が開基したもので、当時は地名が桂谷と呼ばれていたところから「桂谷山寺」と言われ、伊豆国禅院一千束と正史に記されたほどの格式の高い寺であった。
鎌倉初期になって建長年間(1250年頃)に蘭渓道隆(臨済宗鎌倉建長寺開山の宋禅僧)が住し、桂谷の風致が支那の廬山に似ていることから「肖廬山」と号した。南北朝時代の康安元年(1361年)に畠山国清と足利基氏との戦禍を受け、応永9年(1401年)には火災を蒙り、伽藍を全焼して寺は荒廃し衰退した。その後、延徳元年(1489年)に至り、韮山城主の北条早雲が再興し、叔父の降渓繁紹禅師が住して曹洞宗に改宗され山号も「福地山」と改められ今日に至っている。
伊豆市
修禅寺山門前の案内看板より
仁王堂が設けられた山門
この山門は平成26年に改修されたとのこと。
門の両側には仁王像が安置され、両側から睨みをきかせている。
修禅寺 山門の扁額
修禅寺境内
では、山門をくぐり、いざ参拝へ!
修禅寺 手水舎 ※ここの手水舎は水ではなく温泉が出る大変珍しい手水舎。
さすが温泉街にあるお寺は他とは違う!!
手水舎なのに、「桂谷霊泉 大師の湯」と名前がついている。
しかもこの温泉は飲むことが出来るのだそうだ。体の中まで温泉三昧。
暖かい日だったこともあり湯気があまり見えていないが、実際はかなり温かい。
寒い季節のかじかんだ手には本当にありがたい。
修禅寺縁起
修禅寺縁起の説明
修禅寺縁起
この寺の歴史は宗派的に、真言、臨済、曹洞の三つの区分にすることができます。
創立は大同二年(八〇七)で弘法大師とその弟子によって開かれた真言宗の寺で、当時はこの地一帯に密教形式の堂宇が立ち並び、東国真言宗の拠点ともなった模様です。この時代の末期とも言うべき元久元年(一二〇四)源頼家がこの地で殺害されています。本尊の大日如来像(重文)は、その母北条政子が頼家公の菩提のため、七回忌に当る承元四(一二一〇)に実慶に造らせたことが、解体修理の結果わかりました。
その後、寛元四(一二四六)宋から渡来した蘭渓道隆禅師(鎌倉建長寺開山)が一時止住されたのが縁で宋の皇帝から勅願が下がるほど修禅寺の名が中国に広がり、約二百四十年ほど臨済宗として栄えました。
次は今の曹洞宗でありますが、いつの時代でも栄枯盛衰はつきもの、北条早雲が韮山城主になるや、戦禍によって見る影も無いほどに荒廃したこの寺の再興のため、自分の叔父に当る隆渓繁紹禅師を住職として招き、広大な土地を寺領として寄進されたので復興することができました。禅師が入山されたのが延徳元年(一四八九)ですから既に五百年を過ぎて今日に至っています。
(注)昔は住した僧の宗旨で寺の宗旨が変わりました。
大祭は毎年四月八月、共に20日21日の両日(弘法忌)
正式寺名 福地山修禅萬安禅寺
修禅寺 手水舎横の案内看板より
お百度石
「お百度石」は、山門をくぐってすぐ左にある。
「お百度石」とは、屋根付きの石柱のこと。「お百度参り」に使うもので、これを自分の家に見立ててくぐり、本堂に参拝することを100回繰り返すことで、願いが叶うと言われている。
修禅寺 鐘楼
このお百度石の裏に、立派な鐘楼が建っている。
屋根もすごいが、この石積もとても綺麗で美しい。
写真だと少し分かり辛いが、この鐘楼自体かなりの大きさだ。
当たり前だが立ち入り禁止。
大みそかにはこの鐘を突くのかな?すごい音が鳴り響きそう。
弘法大師立像
本堂向かって左側には、開祖「弘法大師」の像が祀られている。
「南無大師遍照金剛」とは真言宗のお経であり、「私は弘法大師である空海に帰依します」という意味。
達磨石
なんともユニークな顔をした達磨石。御本堂の右側に鎮座している。
この達磨石、江戸時代に修善寺の街中で発見され、ここ修禅寺に奉納されたとのこと。
もともとこの達磨さんは、何のためにあったのだろう?
修禅寺 檀信徒会館
こちらの入口の前には様々な表情をした仏像が並んでいる。
入口はこんな感じ。
扁額は前修禅寺ご住職の書「慈照閣」と書かれている。
その奥にある墨書には「観月堂」と書かれている。
中はこんな感じ。
修禅寺 御本堂
こちら(↑)が今回(2024/1/5)の写真。
こちら(↑)は前回(2019/1/4)の写真。
さて、何がちがうでしょう。
↓
↓
↓
そう!左側の大きな木が無くなってるじゃありませんか!
理由は調べてみたもののよくわからず。自然災害か、木の老いか・・。時の流れを感じる。
ご本堂は、1361年の戦乱及び1409年の火災で焼失したが、1883年(明治16年)に再建され、今にその姿を残している。歴史を感じる建物だ。
隙間があったので、本堂の中を見ることが出来た。
太い柱が歴史と風格を感じさせる。
欄間の彫刻が凝っていてとても美しいのだが、さらに
天井絵も丁寧に花の絵が描かれていてとても美しい。
このお堂が建てられた当時は、さぞかし煌びやかだったことだろう。
修禅寺 御本尊
北条政子から寄進されたとされる修禅寺の御本尊「金剛界大日如来坐像」。
このご本尊は、昭和59年の解体修理の際、胎内から墨書とともに三束の髪の毛が出てきたのだそう。北条政子の髪の毛なのではないか、との推察がなされている。
発見された髪の束は再度胎内に戻され、今もこのご本尊の胎内に安置されている。
みどころ|独鈷の湯公園・源頼家の墓・指月殿エリア
独鈷の湯公園
先ほどの独鈷の湯からすぐの場所に架かる橋を渡ると、すこし広い「独鈷の湯公園」がある。
ここにも足湯があり、川を眺めながら足湯に浸かることが出来る。
こちらの方がぬるめなので、長く休むにはおススメ。
湯掛け稚児大師
公園内では「湯掛け稚児大師」が出迎えてくれる。
こちらの大師像に温泉を掛け、自身の健康を願うことが出来るそうな。ありがたや。
湯掛け稚児大師の説明
湯掛け稚児大師
前の川の中に在る独鈷の湯は、その昔、孝行者の息子が年老いた父親の背中を川の水で流してやっているのをご覧になった弘法大師が、水では冷たかろうと、持っていた独鈷で岩を掘ったところ湧き出したものと伝えられています。この故事にあやかって、当町旅館組合が、皆さんの健康を願って、ここに稚児大師の像を建立しました。お子さまの健全を願う方、ご自身の健康を願う方、もしくは、現在疾患をお持ちの方等、願いを込めてお湯を灌いてあげて下さい。
湯掛け稚児大師前の案内看板より
この公園を抜け、奥には源頼家公のお墓があるので、早速行ってみたいと思う。
源頼家公のお墓と指月殿
頼家公のお墓と指月殿は少し足を延ばせば訪ねることが出来る。
歩いて数分なので、是非とも拝観して頂きたい場所だ。
これはまた歴史を感じる墓標だ。路地裏の雰囲気にノスタルジーを感じる。
所々に案内看板があるので、方向音痴の私でも迷うことは無かった。
で、てくてく歩いているとすぐに着いた!
この上にお墓があるとのことなので行ってみよう!
この石門と苔むした石階段が良い雰囲気だ。
階段を登ると開けた公園が見えてくる。
なにやら何かが並んで見えるのが、何だろう?
こちらは源頼家の家臣13名のお墓だった。
源頼家 家臣 十三士の墓の説明
源頼家 家臣 十三士の墓
北条氏との確執で、病気を理由に修善寺に配流された頼家は、元久元年(1204年))7月18日、入浴中に暗殺された。吾妻鏡 (鎌倉時代史書)によると、この6日後、頼家の家臣らは謀反を企てたが、挙兵以前に発覚して、相州金窪太郎行親らに殺されたことが記されている。この墓はその頼家の家臣13名の墓と伝えられている。頼家と運命を共にしたこれら家臣の名前は判っていないが、全国的にある十三塚の一例との説もある。この墓は元々ここより東へ200m程の麓にあったが、台風被害により平成17年(2005年)7月17日にこの地に移築された。
十三士の墓の案内看板より
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、この時代のごたごたが描かれていたので実際その足跡を辿れるのは興味深い。
合掌。
源頼家公のお墓
この公園の先に見えてくるのが、あの源頼家公のお墓である。
源頼家の墓の説明
源頼家の墓
正治元年(1199年)に父頼朝の後を継いで18歳で鎌倉幕府の二代将軍となった頼家は、父の没後に専横になった北条氏を押さえて幕府の基礎作りに懸命であったが、大きく揺れ動く時流と、醜い駆け引きに終始する政争に破れ、在位わずか6年でこの修善寺に流され、元久元年(1204年)祖父北条時政の手で入浴中に暗殺された(享年23歳)。「修禅寺物語」はこうした政治的背景の上に配所の若き将軍頼家と、面作り師夜叉王を中心に、それにまつわるロマンスを綴ったものである。
この碑は、元禄16年(1704年)頼家の500周忌にあたって、時の修禅寺住職筏山智船和尚が建てた供養塔であり、墓はその裏側にある2基の小さな五輪石塔である。
源頼家の墓の前の案内看板より
この階段を登るとお墓がある。
この写真に写る中央の大きな石碑が供養塔であり、その背後に写る小さな塔が頼家公のお墓とのこと。
中に入ることは憚れるため、正面からパチリ。
指月殿
頼家公のお墓の隣には、指月殿が建っている。
指月殿の説明
指月殿
この地で非業の死を遂げた鎌倉幕府二代将軍頼家の冥福を祈り、母北条政子が建立したもので、伊豆最古の木造建築といわれている。指月とは経典を意味し、禅家が愛用している不立文字を解く言葉である。建立の際、政子が寄進した宋版大蔵経は、大半が散失し僅か8巻しか残っていない。そのうち「放光般若波羅蜜多経」の第23巻が静岡県指定文化財となっている。本尊の釈迦如来坐像は、寄木造りで高さは203センチ、持ち物のないはずの釈迦像が右手に蓮の花を持っているのが特徴である。「指月殿」の扁額の実物は、宋の名僧一寧一山の書といわれ、修禅寺本堂に安置されている。
指月殿前の案内看板より
母である北条政子が、我が子「頼家」をとても大事にしていたことが良くわかる。
こちらの扁額は「複製」とのことで、実物は修禅寺にて保管されているのだそう。
釈迦如来坐像
外からではあるが、指月殿を拝観することが出来る。
鎌倉時代の仏像、つまり800年程前の仏像を見ることが出来るのだ。
確かに『釈迦如来坐像』の右手にはハスの花を持っている。
指月殿の境内及び周辺
お堂の前には小さな手水舎?のようなものがあった。
帰りは指月殿前に伸びる参道を降りることに。
とても雰囲気のある場所だが、観光客の姿は全くなかった。穴場なのだろう。
みどころ|竹林の小径、源範頼のお墓エリア
いよいよ最後の目的「源範頼のお墓」に向かう。
とても綺麗な水が流れ、気持ちもスッキリする。
竹林の小径
範頼公の墓所へ向かうには、この竹林の小径を抜けていくことになる。
とても雰囲気の良い場所なので、ぜひ散策して頂きたい場所だ。
竹林の中にはこのような丸い休憩場所がある。
ここから寝そべって上を見ると綺麗な竹林と空が見れる。
源範頼公の墓所へ
竹林を抜け、範頼公の墓所へと向かう。
源範頼公の墓までは380mとある。そこまで遠くも無いので、気軽に向かえる距離かな。
てくてく歩いて行くが、本当にこの道で良いのか?と思いながら歩みを進める。(私道のようなところで不安でしかない)
なんか公園みたいなものが見えて来たぞ。ここかな??
ほっ・・・合ってた!いや~良かった良かった。
あと一息!といっても、今回はそこまで疲れてはいない。
見えた!あちらが範頼公のお墓である。
源範頼の墓の説明
源範頼の墓
範頼は鎌倉初期の武将。源義朝の第六子で蒲冠者と呼ばれた。治承4年(1180年)に兄頼朝と義仲が対立した時、弟義経と共に義仲を倒し、次いで一ノ谷の合戦で平家を破り、功によって三河守に任じられた。その後頼朝と義経の仲が険悪化し、頼朝が範頼に義経討伐を命じたが断ったため、頼朝から疑われるようになった。
建久4年(1993年)の曽我兄弟仇討ちの際、頼朝討死の誤報が伝えられ、悲しむ政子を「範頼あるかぎりご安心を」と慰めたため、幕府横領の疑いを招いた。範頼は百方陳弁に努めたが、ついに修褝寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められ、日枝神社下の信功院で自害したと伝えられている。
源範頼の墓の前の案内看板より
範頼=迫田さん(鎌倉殿の13人!)が出てくる。
この特徴的なお墓は、昭和7年に日本画家である安田靫彦氏がデザインを手がけたとのこと。
源範頼公の墓について
幕府横領の疑いを招き、幽閉された範頼は梶原景時の不意打ちに会い、現在の日枝神社の下あたりで自刃したと伝えられている。範頼公の墓は修禅寺から西の山腹に埋葬し、そこに祠を建てたとの言い伝えが残っていた。明治12年の発掘調査の結果、ここから骨壺がみつかり、この場所が範頼の墓を裏付けるものとなった。
お墓の周りには色々な石碑が建っていた。
蒲候碑って書いてあるのかな?
帰りは違う道で。
こっちから来ても私道っぽいので迷いそう。
これにて修禅寺はおしまい!
まとめ
伊豆と言えば修禅寺、と言うことでいつか参拝したかったお寺。
付近は温泉が湧き出ていて、おまけに弘法大師の逸話まで残る古い歴史のある街だった。散策しながら見て回れるスポットがあるのも良い。前回廻れなかった範頼や頼家の足跡を辿れたことが大変良かった。
アクセス
住所
所在地 | 静岡県伊豆市修善寺964 |
最寄駅 | 「伊豆箱根鉄道 修禅寺駅」下車 徒歩40分 修善寺駅よりタクシー利用で10分 |
駐車場情報 | 専用の無料駐車場なし 近くに有料の駐車場あり。(一日500円) |
公式サイト | https://www.shuzenji-temple.jp/ |
GoogleMap
モヤさまにも出た「ワンコインそば」 ※現在(令和5年)は無かった…。
店舗は狭いが、お一人でせっせと作っている。
塩蕎麦(お通し??)
先ずはお塩とワサビのみで蕎麦の風味を味わってね、とばかりに一口サイズに盛られた蕎麦が出される。小粋な感じで、おいしい。
その後、かき揚げ蕎麦をいただく。(写真撮り忘れ)
モヤモヤさまぁ~ずの写真とサイン
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昔から我が家ではおなじみのツムラのバスクリン!
もちろん修善寺も4包入り!