お寺の紹介
- 800年代に、空海の弟子「宗叡」が今の千代田区麹町あたりに建立した「光明寺」が前身
- 1393年(室町時代・明徳4年)酉誉聖聡が浄土宗に改宗し、寺号を「増上寺」に改める
- このタイミングが実質的な創建
- 酉誉聖聡は、1396年(応永・3年)小石川に草庵を立て、師匠「了誉聖冏」を招いた
- 後の傳通院
正式名称
三縁山 広度院 増上寺
宗派
浄土宗 大本山
御本尊
阿弥陀如来
よく分かる!「増上寺」の色々な御朱印の説明
増上寺の御朱印|「黒本尊」:安国殿にて頂ける
増上寺の御朱印|「阿弥如来」:安国殿にて頂ける
増上寺の御朱印|「南無阿弥陀仏」:安国殿にて写経を行うと頂ける
御朱印
御朱印所
御朱印所は「安国殿」と呼ばれる場所にり、本堂から見て右側に位置している。
「南無阿弥陀佛」の御朱印は「一筆写経」を行うと、頂ける。(500円)
みどころ
増上寺の門前周辺の街並み
増上寺大門
大門駅を降りたら、まず目に飛び込んでくるのが「大門」と呼ばれる増上寺の表門。なんと、80年ぶりに大改修を行ったとのことで、とても美しく生まれ変わっている。大門の奥には、増上寺の三門である「三解脱門」が見える。
この大門から三門までの間には約108間(約197メートル)の距離があり、三門をくぐることで108の煩悩から解脱できるように設計されている。
大門の厠所
和風の屋根と松の木が風情を漂わせる、美しい「公衆トイレ」だ。トイレは半地下に設置されているため、景観を損ねることなく周囲の環境に調和している。
ついに東京タワーが見えてきた。なんだかんだで、東京タワーを見るとテンションが上がる。
増上寺の寺号標柱
増上寺の説明
三縁山 広度院 増上寺
浄土宗の七大本山の一つ。
三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)が正式の呼称です。
開山は明徳四年(一三九三)、浄土宗第八祖 酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)上人によって、
江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、文明二年(一四七〇)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に大きく寄与してきました。
江戸時代初期、増上寺法主第十二世 源誉存応(げんよぞんのう)上人、後の「観智国師」が
徳川家康公から深く帰依(きえ)を受け、手厚い保護を受けました。
慶長三年(一五九八)に現在の地に移転し、徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八檀林(だんりん)の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となりました。
その規模は、寺領一万石余、二十数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院でした。
現代でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動のほか文化活動も幅広く行われ、建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を所蔵しています。
増上寺山門前の案内看板より
増上寺の山門(三門)三解脱門
三解脱門の説明
三解脱門
慶長十六年(一六一一)に徳川家康公の助成により、江戸幕府大工頭・中居大和守正清によって
建立され、元和八年(一六二二)に再建されました。
この門 は、増上寺で唯一の江戸時代初期の面影を残す建造物で、重要文化財に指定されています。
三解脱門の名は、煩悩から解脱した覚りの境地を開くための三種の修行、「空門」「無相門」
「無願門」からなる「三解脱門」に基づいています。また「三門」と通称されています。
建築様式は三戸二重門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、見事な美しさを見せています。
その大きさは、間口十間余(約十九メートル)、奥行五間(約九メートル)、高さ七丈(約二十一メートル)の二階建て構造。
さらに左右には三間(約五・四メートル)の山廊を有しています。
上層部(楼上)内部には、中央に釈迦三尊像、脇壇に十六羅漢像が奉安されています。
増上寺山門前の案内看板より
- 増上寺の表の顔で、東京都内でも古い建造物のひとつで東日本最大級を誇る
- 増上寺の中門に位置し、通称「三門」とも呼ばれる
- 1611年(慶長16年)幕府大工頭「中井正清」とその配下により建立
- 強風により一度倒壊したが、1622年(元和8年)に再建
- 戦災を免れた建築物の一つ
三戸二階二重門の建築様式であり、内部には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されている。この門をくぐると、貪・瞋・癡といった3つの煩悩から解脱できるとされています。
それにしても大きい…。これだけで圧倒される。
明治期の三門
以前と今も同じである。
なるほど、現在でも当時の姿を保っているのは素晴らしい。当時の人々にとっては、かなり大きな建造物だったのだろうな。
増上寺の境内案内図
増上寺 沿革の案内看板
沿革
浄土宗の七大本山の一つ。三縁山広度院増上寺が正式の呼称です。
開山は明徳四年(一三九三年)、浄土宗第八祖 酉誉聖聡によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、慶長三年(ー五九八年)に現在の地に移転しました。
文明ニ年(一四七〇年)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与し大きく発展してきました。
江戸時代初期、増上寺法主十ニ世 源誉存応上人、後の「観智国師」は徳川家康公から深く帰依を受け、手厚い保護もあり増上寺は大隆盛へと向かって行きました。
徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八檀林の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となりました。
その大きさは、寺領ー万石余、ニ十数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時
三千名の僧侶が修学する大寺院でした。
現代でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動の他文化活動も幅広く行われ、建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を保管しています。
山門を抜けですぐの案内看板より
境内は広大で、「徳川将軍家墓所」という歴代将軍の墓があり、現在は一般公開されているため、見どころ満載だ。
増上寺の手水舎(水盤舎)
なんだか特別に古そうな手水舎だ。
増上寺 水盤舎の案内看板
水盤舎
この水盤舎は清揚院殿(徳川家三代将軍家光公三男甲府宰相綱重公)の霊廟にありましたが、明治時代の解体、昭和の空襲を逃れ、現在地に移築されました。
徳川将軍家霊廟建築を伝える数少ない遺構のひとつです。
水盤舎前の案内看板より
竹筒に空いた穴から「チロチロ」を水が出ていた。
増上寺の鐘楼堂
庶民の間で親しまれた、江戸三大名鐘(上野東叡山 寛永寺・浅草金龍山浅草寺弁天山)の一つとして有名であり、東日本最大級の鐘である。
増上寺 鐘楼堂の案内看板
鐘楼堂
寛永十年(一六三三)に建立されましたが焼失、戦後に再建されました。納められている大梵鐘は、延宝元年(一六七三)に品川御殿山で椎名伊予守吉寛により鋳造されました。
徳川四代将軍家綱公の意向で奥方の「かんざし」まで寄与され、七回の鋳造を経て完成した
もので、江戸三大名鐘の一つに数えられ、東日本では最大級として知られています。
その大きさ、高さ一丈(約三メートル)重さ四千貫(約十五トン)の大鐘です。その鐘の音は、時を告げるだけではなく、煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと誘います。
江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寬永寺)か浅草(浅草寺)か」・「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」・「西国の果てまで響く芝の鐘」等と詠われ、江戸庶民に親しまれて
きました。
鐘楼堂前の案内看板より
今この鐘を打ったら、どれだけの大音響が鳴り響いたのだろうか。江戸時代の川柳にも「今鳴るは 芝か上野か 浅草か」とうたわれていたそうで、江戸の風物詩の一つだったことがうかがえる。
聖鉄観音像
国際美容協会会長の「山野愛子」氏が願主となって建立したとのこと。
増上寺 聖鋏観音縁起の案内看板
聖鋏観音縁起
この聖鋏観音像は、昭和五十六年八月三日、国際美容協会会長・山野愛子が願主となって、大本山増上寺境内のこの地に建立、開眼された。
願主の一生がハサミに支えられ、お陰によって生かされたことへの深い感謝と、ハサミの中に
みる己れを滅して他を整え美しくする働きを、観音様と拝む心とによって聖鋏観音像造立を発願。併せて美容はもとより、ハサミにかかわりのあるすべての人々の心の依り処となり、お守りとなるよう願われて奉造された。
聖鋏観音像は、彫刻界の長老北村西望氏の制作である。
毎年八月三日を「ハサミの日」と定め、この世におけるつとめを果たし終えたハサミをあつめて
この塚に納め、ハサミ供養法要が厳修される
ハサミは観音菩薩の御手そのものである。 徹誉大僧正
鐘楼堂前の案内看板より
増上寺の本殿(大殿)
いい!
すごくいい!
なんてすばらしいのだろう!
増上寺 大殿の案内看板
大殿
昭和四十九年(一九七四)、浄土宗開宗八百年の記念事業として戦災に遭った本堂を再建しました。
「大殿」と称し、間ロニ十六間余(約四十八メートル)奥行ニ十五間余(約四十五メートル)高さ七丈半余(約ニ十三メートル)総面積は一〇,五三五平方メートルという大きさの大本堂です。
石段を登りきったニ階に本堂、三階に道場、一階に檀信徒控室、地下に宝物展示室などを備えています。
本堂には、ご本尊の阿弥陀如来(室町期作)、両脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の御像が
祀られ、参拝される方々の厚い信仰をあつめています。
本堂前の案内看板より
1974年に再建し、室町期作の「阿弥陀如来像」「法然上人」「善導大師像」らが祀られている。
増上寺大殿前
増上寺大殿の扁額
増上寺大殿内部
中央には本堂ご本尊(室町期製作)の「阿弥陀如来」が祀られている。
増上寺会館(寺務所)
寺務所であり、こちらの食堂でご飯を食べることもできる。(知らなかった)
増上寺会館側からパチリ!
あまりこちら(本殿向かって左側)に来ることが無かったが、ここからの写真が一番のお気に入りになった。「光摂殿(講堂)」と「大殿」と「東京タワー」がとても良い。
増上寺安国殿
大殿の右側に位置するのが「安国殿」。前述した通り、こちらで御朱印をいただくことができる。
増上寺 安国殿と黒本尊の案内看板
安国殿と黒本尊
この建物は德川家康公の法号「安国院殿」からその名をとっています。
「安国殿」とは元来家康公の尊像を祀る御霊屋を意味していましたが、戦後の復興に伴う境内堂宇整備の一環として、昭和四十九年(一九七四)当時の仮本堂をこの地に移転し、家康公の念持仏として有名な「黒本尊阿弥陀如来」を安置し「安国殿」と命名しました。
建物の老朽化に伴い、平成ニ十三年(二〇一一)法然上人八百年御忌を記念し、念仏信仰の拠点
として家康公が成し遂げた天下泰平の世(安らかな国づくり)を願い、新たに「安国殿」を建立しました。
「黒本尊」は当山の秘仏で、正月、五月、九月の各十五日、年三回行われる祈願会の時だけ御開帳されます。また両脇陣には、家康公肖像画、徳川家位牌、和宮像、聖徳太子像、仏舎利などが祀られており、庶民の信仰の中心として親しまれています。
安国殿前の案内看板より
室町時代作とされる秘仏の阿弥陀如来、通称「黒本尊」が祀られている。徳川家康が崇拝し、当初は2尺6寸(約80cm)あった金色の立像であったらしい。長年の香煙により、黒ずんでしまったとのこと。とても貴重な秘仏で、正月15日、5月15日、9月15日にのみ開帳され、「黒本尊」と墨書きされた朱印が授与される。
安国殿の扁額
安国殿内部
様々な位牌が並んでる。
徳川家系図
家斉公と家慶公の多産ぶりは際立っており、それに伴い大奥の財政も圧迫されていたことがわかる。
西向観音像
増上寺は将軍家の菩提寺でもあり、格式が高く庶民には近寄り難いお寺だったが、こちらの観音像は庶民から親しまれていたらしい。
千躰子育地蔵菩薩(せんたいこそだてじぞうぼさつ)
増上寺 千体子育地蔵菩薩の案内看板
千体子育地蔵菩薩
子や孫の無事成長を祈って当寺ひまわり講の方々が中心となって、それぞれのお施主様がお建てになりました。
幼い子や孫への愛情の表れとして、頭を守り、寒さをしのぐ為の「赤い帽子」「赤い前掛け」「風車」をお地蔵さまに奉納しています。
地蔵菩薩像には触らないでください。
千体子育地蔵菩薩前の案内看板より
かわいらしいお地蔵様が並んでいる。それぞれが、我が子や孫の成長を願って建立されたとのこと。隣接している西向き観音像が安産や子育てにご利益があることにあやかって、この場所にお地蔵様たちが建てられたのだそうだ。
この脇道から徳川家墓所に行ける。
徳川家墓所
増上寺へ来たら是非とも伺ってもらいたい場所である。
ちょっと昔までは非公開であったが、現在は通常公開をしている。
ただならぬ雰囲気でござる。
増上寺 徳川将軍家墓所の案内看板
徳川将軍家墓所
戦前、旧徳川将軍家霊廟は御霊屋(おたまや)とも呼ばれ、増上寺大殿の南北(左右) に建ち並んでいました。
墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、当時の最高の技術が駆使された厳粛かつ壮麗な霊廟は、いずれも国宝に指定され格調ある佇まいでした。
その後昭和 二十年(一九四五)の空襲直撃で大半が焼失し、残った建物もその指定を解除されました。
正面の門は旧国宝で「鋳抜門」(いぬきもん)といわれ、文昭院殿霊廟(徳川家六代将軍家宣)の宝塔前『中門』であったものを移築しました。
左右の扉は共に青銅製で 五個ずつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれ、その荘厳さは日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構です。
墓所には、二代秀忠公・六代家宣公・七代家継公・九代家重公・十二代家慶公・十四代家茂公の
六人の将軍のほか、崇源院(二代秀忠公正室、家光公の実母、お江)、静寛院宮(十四代家茂公正室和宮)ら五人の正室、桂昌院(三代家光公側室、五代綱吉公実母)はじめ五人の側室、及び三代家光公第三子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されています。
将軍家墓所前の案内看板より
墓所の内部については、下記の記事リンク先にて詳しく解説しているので、ぜひご覧ください♪
なお、徳川将軍家の墓所は、ここ増上寺の他、上野の寛永寺にも墓所があるので、ぜひそちらも見て頂きたい。
徳川将軍家の菩提寺は、増上寺と寛永寺で二分されていた。
大殿の裏側に行くと、圓光大師堂がある。
圓光(えんこう)大師堂
何度も増上寺に来ているが、ここまで来たことが無かったので、わくわくしている。
どれどれ行ってみよう。
表門に「圓光太子堂」と書かれている。
増上寺景光殿(旧広書院)表門の案内看板
港区指定有形文化財
建造物 増上寺景光殿(旧広書院)表門
桟瓦葺の屋根を持つ一間一戸の四脚門(平唐門形式)です。一時期、明治四十二年(一九〇九)の火災により移転した護国殿の中雀門として、三解脱門を入った左手に立地していましたが、建築当初の位置は明らかではありません。現在地には昭和五十三年(一九七八)に移築されました。
正面の蟇股には表裏両面に三葉葵紋が刻まれ、側面の蟇股は内側のみに葵紋が彫られ、外側は板状となっています。また、鬼瓦と留蓋瓦にも葵紋が付されます。
虹梁絵様の形は十七世紀末から十八世紀前期の特徴を示し、増上寺水盤舎(清揚院霊廟から移築)のものに類似しています。徳川家光次男、甲府宰相綱重(一六四四ー七八、法名清揚院殿)は、宝永二年(一七〇五)に伝通院から増上寺に改葬されており、この門も近い時期に建てられたと考えられます。
本建築は、徳川家菩提寺として隆盛を誇った増上寺の往時の華麗さを伝える数少ない遺構の1つとして貴重です。
平成十七年十月二十五日
港区教育委員会
圓光大師堂表門前の案内看板より
建築当初の位置は明らかではないが、明治期には三解脱門を入った左手に位置していたことがわかっている。
透かし彫りも立体的で、素晴らしい。朝日の太陽と海を表現しているのだろうか。ユニークで面白い。
増上寺 圓光大師堂の案内看板
圓光大師堂
この御堂は平成二十三年(二〇一一)宗祖法然上人八百年御忌を記念し、総本山知恩院門跡第八十六世中村康隆猊下と当山法主第八十七世成田有恒台下との尊い結縁が実を結び、時の執事長江口定信上人が実務を担当、続いて楠美執事長が後を襲ぎ、平成十八年十一月二十五日知恩院より法然上人の御廟の御浄砂を拝領しました。成田台下は直ちに「御身柄(おみがら)」と命名、この縁を承け奉安する御堂の建立を発願し、平成二十一年九月に竣工しました。
圓光大師堂の概要は木造平屋建、妻入入母屋造本瓦葺、向拝軒唐破風付、間口四間(約八メートル)、奥行は裏堂を含み八間(約十三・五メートル)、高さ九・五メートルの御堂です。
圓光大師堂前の案内看板より
2009年年竣工らしい。かなり最近。
堂内も新品で綺麗。
貞恭庵
圓光大師堂の脇道を進むと、貞恭庵に行くことが出来る。
貞恭庵(和宮さまゆかりの茶室)
竹垣が雰囲気を醸し出している。
増上寺 貞恭庵の案内看板
貞恭庵
幕末の劇的な時代を生き抜いた徳川家十四代将軍家茂公正室、皇女和宮さまゆかりの茶室。
昭和五十五年(一九八〇)に移築・改修されました。
その際に和宮さまの戒名『静寛院宮贈一品内親王好誉和順貞恭大姉」から「貞恭庵」とつけられました。
四畳半の二間の茶室からなる建物です。
増上寺では和宮さまの遺品と伝えられている袈裟、琴、手紙、漢詩の書掛軸などを所蔵しています。
貞恭庵前の案内看板より
徳川家茂の正室「和宮」ゆかりの茶室とのことで、「貞恭庵」の名前も和宮の戒名にちなんでつけられたのだそう。
大納骨堂
増上寺 大納骨堂の案内看板
大納骨堂
大納骨堂は昭和八年(一九三三)に建立されました。御本尊は高村光雲氏作をもとにした地蔵尊像です。
戦災の難を逃れた数少ない建造物で、昭和五十五年(一九八〇)に現在地に遷座、開眼供養が厳修されました。
堂内には有縁無縁のご本骨、ご分骨が収められ、狛犬に守られてお祀りされています。
大納骨堂前の案内看板より
おしまい
最後に
あのフリーメイソンの東京ロッジは、東京タワーの麓にあるので、興味がある方はぜひ
アクセス
住所
所在地 | 東京都港区芝公園4-7-35 |
最寄駅 | 「都営浅草線(都営大江戸線)大門駅」下車 徒歩7分 |
駐車場情報 | 近隣の有料駐車場を利用 |
公式サイト | https://www.zojoji.or.jp/ |