大多喜城下町の名残を残す町並みに、ひっそりと佇む良玄寺。大河ドラマ「どうする家康」でも活躍中の本多忠勝と、大坂夏の陣で戦死した息子「忠朝」が眠る墓所がある。遠くには大多喜城も望むことができる。 参拝日:2023年5月14日
お寺の紹介
- 1595年(文禄4年)、大多喜城主「本多忠勝」が菩提寺として「良信寺」を創建
- 開山は照誉了学
- 大坂夏の陣で息子「忠朝」が戦死すると、忠朝の法号を取って現在の「良玄寺」に改称
- 忠勝の分骨が埋葬されている
- 「勢州桑名城」へ領地を変えており、桑名のお寺に埋葬されたため分骨された
正式名称
金澤山 山王院 良玄寺
宗派
浄土宗
御本尊
阿弥陀如来
御朱印
なし
みどころ
良玄寺の説明看板
あの猛将「本多忠勝」が菩提所として開山した「良信寺」が現在の「良玄寺」の起源である。
良玄寺本堂
大多喜町の街道から少し入った「良玄寺」。あたりに人がいる気配がなく、御朱印の授与場所が最後まで分からなかった。残念。
白地に赤い文字で「本」と書かれた旗があるが、その前は小さなお堂が建っていた。
良玄寺前にある小堂の地蔵菩薩
良玄寺の前に建つ、小さなお堂。早速中を覗いてみよう。
どれどれ
地蔵菩薩が金色に輝いていた。説明看板等が無く由来はわからなかったが、地元を見守っているのだろう。
良玄寺の扁額
良玄寺の山号「金澤山」と書かれている。
良玄寺の本堂内
本堂の扉には小さな窓があり、そこから中を覗くことができた。早速カメラを突っ込んで内部をパチリ。
建物の中は、美しい装飾が施されており、圧倒された。特に天井絵の美しさには、思わず息を呑むほどだった。
写真を反転するとこんな感じ。美しい天女と色とりどりの花や鳥たちが描かれている。
右側には、徳川家康の重臣である本多忠勝の肖像画、「紙本著色本多忠勝像」の複製が飾られている。この絵は良玄寺が所有しているのだそう。
本堂左側はこんな感じ。
本多忠勝の紹介
- 戦国時代から江戸時代前期にかけての武将で、徳川氏の家臣
- 徳川四天王の一人(本多忠勝・酒井忠次・榊原康政・井伊直政)
- 徳川十六神将・徳川三傑の一人でもある
- 上総大多喜城主・伊勢桑名藩初代藩主
- 生涯で、大小合わせて57回の合戦に参加し、かすり傷一つ追わなかったと伝えられる
鹿角脇立付兜をかぶり白毛采配を手に持つ姿は、勇猛果敢な戦国武将の勇気・決断力を表している。
本多忠勝公のお墓へ
本多忠勝・忠朝の墓碑は、お寺右手「忠勝公園」の奥にある。
お寺・墓地と隣接する形で、小さな公園がある。本多忠勝ゆかりの地として、平成17年に公園が整備されたとのこと。ちょっとした休憩に良い。
この公園を抜けるたすぐ先に墓地がある。
墓地の一番奥まで進むと、本多忠勝の墓がある。
本多忠勝公墓所
左|忠朝(忠勝公の次男)
中央|本多忠勝
右|忠勝夫人
本多忠勝は1610年に亡くなった。当時、桑名の藩主だったので、そのまま桑名の浄土寺に葬られた。しかし、千葉県大多喜町の良玄寺にも分骨された。
[本多忠勝]
法名|西岸寺殿前中書長誉良信大居士
大多喜城主 本多中務大輔忠勝候 慶長十五年十月十八日卒去行年六十三歳
[本多忠朝]
法名|三光院殿前雲州岸譽良玄大居士
大多喜城主 本多出雲守忠朝候 元和元年五月七日大坂夏の陣に於て戦死行年三十四歳
おしまい
良玄寺からは大多喜城が良く見える。忠勝は城から今でも大多喜を見守っているのかもしれない。
アクセス
住所
所在地 | 千葉県夷隅郡大多喜町新丁180 |
最寄駅 | 「いすみ鉄道 大多喜駅」下車 徒歩15分 |
駐車場情報 | 専用の無料駐車場あり(若干数) |
公式サイト | https://www.jodo-chiba.jp/contents/syokai/4077_ryogenji.htm(浄土宗千葉教区) |