香取神宮の御朱印|日本三大軍神である経津主神 (フツヌシノカミ)をお祀りしている最強パワースポットの神社へ行ってきた。(千葉県 香取市)

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香取神宮は古代からの歴史を誇り、平安時代には「神宮」と呼称した数少ない神社の一つであった。古代ヤマト政権の時代には、香取神宮と茨城の鹿島神宮は重要な拠点とされていたようだ。 森の奥に広がるこのパワースポットは、鳥居をくぐる瞬間から、空気が一変するかのような不思議な感覚を覚える。さすが日本書紀から登場する神社である。
参拝日:2023年6月27日

目次

神社の紹介

  • 香取神社の総本社
  • 東国三社(千葉・香取神宮、茨城・鹿島神宮、茨城・息栖神社)のうちの一つ
  • 日本三大神宮(香取神宮・伊勢神宮・鹿島神宮)のうちの一つ
    • 平安時代から「神宮」と呼ばれたのはこの三社のみ
  • 「経津主命」は古くから権力者や武家から「武神」として崇敬される
    • 祭神の「経津主命」が国土平定において活躍したことから武神とされている
    • 建御雷神(タケミカヅチノカミ)・ 経津主神 (フツヌシノカミ)・建御名方神(タケミナカタノカミ)が日本三大軍神と言われている
    • 古代の朝廷や、藤原氏から崇敬される
  • 768年(神護景雲2年)に創建された奈良の春日大社へ、香取神宮の「経津主命」が勧請された
    • 藤原氏の氏神としての役割を果たした
    • 他に、鹿島神宮・枚岡神社からも勧請されている
  • 茨城の鹿島神宮とは、古来から深い関わりが有る
    • 古代ヤマト政権が蝦夷平定のための輸送基地として「鹿島」「香取」を拠点としていた
    • それぞれ、朝廷の権威象徴として東北沿岸部の各地で祀られた

正式名称

 香取神宮かとりじんぐう

御祭神

 経津主神ふつぬしのかみ |日本神話では、武甕槌大神たけみかづちのおおかみ(鹿島神宮の祭神)と共に東方の征圧に尽力した武神。
      ※古事記では武甕槌大神たけみかづちのおおかみと同一視される。
 

香取神宮 御朱印

香取神宮 御朱印所

直書き、書置き、いずれも対応してくれるとのこと。

香取神宮の御由緒

香取神宮の御由緒の案内看板

香取神宮の御由緒
 御祭神 経津主神ふつぬしのかみ
大神は天照大神の御神勅を奉じて国家建設の基を開かれ國土開拓の大業を果された建國の大功神であります。 故に昔から國民の崇敬非常に篤く、國家鎮護・國運開發の神、民業指導の神、武徳の祖神として廣く仰がれて居ります。
御創祀は、神武天皇十八年と傳へられ現在の御社殿は元禄十三年の御造営にもとづくものです。
明治以降は官幣大社に列せられ毎年四月十四日の例大祭には宮中より御使が参向される勅祭の神社であります。

手水舎横の案内看板より

創建が神武天皇十八年と伝えられているらしい。神武元年が紀元前660年なので…、…!
紀元前642年てこと!?想像もつかないくらい昔だ。
尚、奈良時代(768年)に春日大社を建立するにあたり、ここ香取神宮から御祭神の経津主神ふつぬしのかみが勧請されたとのこと。とにかく歴史と格式がとても高い神社なのである。

香取神宮の日本書紀編纂千三百年の案内看板

日本書紀編纂千三百年
  ~日本書紀と香取大神~

 令和ニ年は日本の歴史書である『日本書紀』が完成して一三〇〇年を迎えます。日本書紀は奈良時代、天武天皇(四〇代)の命により編纂が始められ、舎人親王によって撰進された、最初の正式な歴史書(正史)です。養老四年(七二〇)に完成しました。全三十巻で、神代から持統天皇(四一代)までが取り扱われています。
 一方日本書紀と共に「記紀」と称される『古事記』も天武天皇の命で編纂されましたが、こちらは稗田阿礼が口述したものを太安万侶が書き留めたもので、和銅五年(七一ニ)に完成、神代から推古天皇(三三代)までの全三巻となっています。
 どちらも日本の神話が描かれており「記紀神話」とも呼ばれていますが、両者には異なる部分があります。
 古事記は大和言葉をもとにした変体漢文の物語調で表記されているのに対し、日本書紀には漢文、しかも年代順に記されており、さらに中国や朝鮮半島の文献も引用しています。これは何を意味するかというと、古事記は国内向け、対して日本書紀は国外向けに編纂されたということです。
その内容は共に天皇の日本統治の正当性を示したものですが、日本書紀は特に自国の歴史を国外に知らしめる目的があったのです。
 さて、香取神宮の御祭神は『経津主大神ふつぬしのおおかみ』。天照大御神の御神意を奉じて出雲の国譲りの大業を成し遂げられ、日本建国の基を築かれた神様であります。この経津主神は日本書紀に記されいるのに、古事記には登場しません。
 日本書紀には、度重なる葦原中国あしはらのなかつくにの平定失敗に高天原たかまのはらの神々は、次に遣わす神は経津主神が適任であるとした。これに対し武甕槌神たけみかづちのかみ(鹿島の神)は、『経津主神だけが雄々しい立派な神で、私は違うのか!』と激しく抗議した。そのため経津主神に武甕槌神を副えて葦原中国へ遣わした、とあります。
 古事記の「国譲り」では鹿島の神【建御雷神】に天鳥船神あまのとりふねのかみを副えて遣わしたとありますが、日本書紀は香取の神が「主」であり、鹿島の神は「従」の関孫となっています。
 日本書紀と古事記とではこうも記述の相違があり大変興味深いものがあります。

総門前の案内看板より

香取神宮のパンフレット

※それぞれクリックで拡大表示できます

広い境内。これは見ごたえ十分だ。

みどころ

香取神宮 参道商店街

昭和レトロ感漂う参道の商店街。
シャッターが閉まっている店が多かったが、平日だからかな?休日の賑わいも見てみたい。

団子屋と蕎麦屋は開いていた。ちょっと寂しい感じではあったが、平日だとこんな感じか。

この商店街の先に、小さく朱色の鳥居が見えている。それでは参拝にレッツらゴー!

このまっすぐな参道を歩いていく。

香取神宮 社号標柱

ここが、明治以前の日本三神宮のひとつ、香取神宮である。

香取神宮 朱塗の大鳥居

森の緑と鳥居の朱色のコントラストが美しい。

森の奥に神社があるので、ここからでは先の様子が分からない。趣のある雰囲気で、ワクワクする。
まずはこの鳥居をくぐり、石灯籠が並ぶ参道を歩いて本殿へと向かう。

香取神宮 要石(かなめいし)

参道を歩いていると、左手に「要石」の看板と石柱が見えてきた。

香取神宮 「奥宮】「要石」の案内看板

 奥宮おくのみや

 当宮の旧参道脇に御鎮座。
 御本殿に経津主大神ふつぬしのおおかみ和御魂にぎみたまを御祀りするのに対し、奥宮には荒御魂あらみたまを御祀りする。
 これは大神の大いなる御働きのひとつで「心願成就」に霊験あらたかである。
 現在の社殿は、昭和四十八年伊勢神宮御遷宮の折の古材に依るものである。

 要石かなめいし

 古伝によればその昔、香取・鹿島のニ柱の大神は天照大神の大命を受け、芦原の中つ国を平定し、香取ヶ浦付近に至った。しかし、この地方はなおただよえる国であり、地震が頻発し、人々はいたく恐れていた。
 これは地中に大きな鯰魚なまずが住みつき、荒れさわいでいると言われていた。大神たちは地中に深く
石棒をさし込み、鯰魚の頭尾を押さえ地震を鎮めたと伝わっている。
 当宮は凸形、鹿島神宮は凹形て地上に一部だけをあらわし、深さ幾十尺とされている。貞享元年
(一六六四)三月、徳川光圀公が当宮に参拝の折、これを掘らせたが根元を見ることが出来なかったと伝わる。

 本殿に至るまでの参道にある案内看板より

太古の昔、「香取・鹿島」の大神が、天照大神の命を受けてこの一帯を平定した。だが、平定後も地震が頻発し、これは地中の大ナマズが暴れているからだとされていた。「香取・鹿島」の両大神たちは、それぞれ地中深くに石棒を差し込み、大鯰の頭と尾を抑えることで、地震を鎮めたのだそう。
この一方の石棒が、頭を覗かせているということらしい。

参道から外れるが、興味があるので行ってみよう。

地図を見ると、護国神社の先に「要石」があるとのことなので、この道をズンズン歩いていく。

こちらが香取護国神社。

この護国神社は、明治以降に起きた戦争の戦没者(香取市と旧香取郡出身)の御霊を御祭神としているのだそう。
この先をさらに進むと見えてくるのが・・

香取神宮 要石

おもいかなう かなめいし
「石」は「意志」に通じます。

この要石、香取神宮は「凸」鹿島神宮は「凹」となっているとのこと。ほうほう。

これが、香取神社の要石。なるほど、凸の形をしていそうだ。
この石の周りは、厳重に石柱で囲まれていた。

こちらは、鹿島神宮の「要石」。
確かに「凹」になっている!神話と現実が混在していて、とても面白い。

香取神宮 表参道

「要石」の寄り道から戻り、改めて本殿へと向かう。先は長い…

参道の両側には、たくさんの石灯籠が並んでいる。これは香取神宮の名物でもある。
なんとも幻想的な雰囲気だ。

香取神宮 石鳥居

参道を進んだ先に、石鳥居が見えてきた。
この鳥居をくぐった右手側に、香取神宮勅使門が建っている。

香取神宮勅使門

茅葺の立派な門だ。なにやら歴史を感じる。

門の前に、看板が立っていた。

香取神宮 「奥宮】「要石」の案内看板

 千葉県指定文化財 
 香取神宮勅使門 一棟


 この勅使門は、江戸時代中期の天明元年(一七八一年)に香取神宮大宮司邸の表門として建てられたことが棟札によって知られています。大宮司邸は勅使を迎える斎館の役割もあったと考えられ
ますが、残念ながら一九四六年頃の火災て焼失し、この門だけか残りました。 
 規模は桁行三間(ニ一・〇七五尺)、梁間ニ間(一二・三五尺)で、形式は一重の切妻造、茅葺の門で両袖塀が付属します。
この門は建ちの高い大規摸な茅葺の門で、香取神宮の大宮司家の格式を示すものであり、類例の
少ない社家建築の遺例として重要であることから、令和四年に千葉県指定有形文化財に指定されました。
香取神境内に遺る唯一の茅葺屋根の建造物として保存されています。

 勅使門前の案内看板より

この勅使門は、香取神宮大宮司の邸宅、表門として建てられたものだそう。
その名の通り、天皇からの勅使を迎える斉館(神職などが神事に携わる前に心身を清めるためにこもる建物)の役割も持っていた、とある。おそらく、かなり豪華絢爛な造りだったことだろう。
残念ながら、邸宅は1946年ごろに火災で焼失してしまったそうだが、この門だけは火災を免れることができたのだとか。

香取神宮 総門

鳥居の先に見えているのは、香取神宮の総門。やっと総門まで来たので、あともう少し!!

朱色の総門がとても綺麗だ。ここは比較的新しい時代に建てられたものなのか、朱色が濃かった。

香取神宮 手水舎

総門と同じ造りであるので統一感が良い。

香取神宮の御由緒の案内看板

香取神宮の御由緒
 御祭神 経津主神ふつぬしのかみ
大神は天照大神の御神勅を奉じて国家建設の基を開かれ國土開拓の大業を果された建國の大功神であります。 故に昔から國民の崇敬非常に篤く、國家鎮護・國運開發の神、民業指導の神、武徳の祖神として廣く仰がれて居ります。
御創祀は、神武天皇十八年と傳へられ現在の御社殿は元禄十三年の御造営にもとづくものです。
明治以降は官幣大社に列せられ毎年四月十四日の例大祭には宮中より御使が参向される勅祭の神社であります。

手水舎横の案内看板より

香取神宮の由緒の説明看板。※記事上部と同様の内容を表示しております。

ここでお清めをしてからお参りへ!

いたってシンプルな石造り。

香取神宮 楼門

手水舎で身を清め、先へ進むと左手に「楼門」が現れる。

この楼門は、元禄13年(西暦1700年)に本殿と共に建造されたとのこと。これもかなり古い!

香取神宮 楼門 扁額

香取神宮 本殿前

参拝したのが茅の輪くぐりの時期だったため、「茅の輪」が設置されていた。
平日にもかかわらず、多くの参拝客で賑わっていた。

この日は暑かったので、ミストシャワーが設置されていた。冷たい水が気持ちいい。

この写真中央の風格のある建物が気になったので行ってみることに。

香取神宮 神楽殿(祈祷殿) ※旧香取神宮拝殿

境内の端に建っていたこの建物は、現在の拝殿が建てられるまで、およそ200年以上に亘り香取神宮の旧拝殿として使用されていた。現在の拝殿を建築する際、この場所に移築されたとのこと。

どおりで立派な造りの建物なわけだ。

香取神宮本殿(拝殿)

香取神宮 夏越の大祓(なごしのおおはらえ)

6月は大祓おおはらえの月であり、半年間に積もった罪や穢れを祓い清める神事。
廻り方があるので、その通りに行い、拝殿へと向かう。

神社では珍しい黒漆を基調とし、極彩色で彩られた柱や彫刻がとても綺麗である。どっしりとした風格を感じる。

漆黒と金がとても綺麗。

拝殿の中はこんな感じ。

さらにズーム!!御神体である鏡が置かれていた。

漆黒の神社はどこから見てもカッコイイ。

香取神宮 本殿

この拝殿の裏に本殿があるので、ぐるっと回って見てみよう。

この茅葺の建物が香取神宮の本殿である。
1700年(元禄13年)造営とあるので、もう320年以上もこの地に建っていることになる。すごい!

風格を感じる。

香取神宮 御神木 千年杉

境内でひときわ大きい杉の木を発見。

下から見ると、天を仰ぐような角度まで首を曲げなければ、木のてっぺんを見ることが出来ない。とにかく高い。ものすごく高い。

この杉は樹齢1000年と伝えられている。西暦1000年と言うと、清少納言の『枕草子』、紫式部の『源氏物語』が成立した時期で、 藤原道長が太政大臣になった頃である。相当古く、長生きしているなあ。

間近で見る木の幹は、何かを感じる。神が宿っているに違いない!!

とても見ごたえのある神社だった。

おしまい

アクセス

住所

所在地千葉県香取市香取1697-1
最寄駅「JR成田線 香取駅」下車 タクシーで10分
駐車場情報無料駐車場あり
公式サイトhttps://katori-jingu.or.jp/

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