神社の紹介
- 神社の歴史
- 明治元年、戊辰戦争の戦没者を祀るために「水草霊社」を造営したのが始まり
- 第二次大戦までの戦没者(原爆犠牲者・動員学徒・女子挺身隊など含む)を祀る
- 明治8年に官祭招魂社となり、明治34年に「官祭広島招魂社」と改称
- 社伝の老朽化に伴い、昭和9年に西練兵所の西の端に移転
- 昭和14年、「広島護国神社」に改称
- 明治元年、戊辰戦争の戦没者を祀るために「水草霊社」を造営したのが始まり
- 原爆被害と復興
- 昭和20年8月6日、神社からおよそ300mの地点上空で原子爆弾が炸裂し、社殿などが爆風で倒壊
- 鳥居の1つ、狛犬石灯篭、のぼり立てなどが倒壊を免れた
- 原爆投下後、同じ地に小さな祠を設けて祀る
- 広島市復興に伴い、昭和31年に現在の広島城跡に新たな社殿を造営した
- 昭和20年8月6日、神社からおよそ300mの地点上空で原子爆弾が炸裂し、社殿などが爆風で倒壊
- 再建と現在
- 昭和46年4月に天皇皇后両陛下(昭和天皇)が参拝
- 以降、参拝者が急増
- 平成5年、広島の人々や地元企業からの寄付により、本殿・拝殿・儀式殿・石鳥居・石畳などを立て替え
- 平成の天皇即位記念事業
- 昭和46年4月に天皇皇后両陛下(昭和天皇)が参拝
正式名称
廣島護國神社
社格
別表神社
御祭神
広島県(旧安芸国)出身の戦死者
広島原爆にて犠牲となった勤労奉仕中の動員学徒および女子挺身隊等など
御朱印
訪れた日はちょうど1月7日で「人日の節句」の日となったため、限定の御朱印をいただくことができた。
見どころ
広島護国神社の社号標柱
「広島護国神社」の石柱
お正月に参拝したこともあり、多くの参拝客で賑わっていた。
入り口では、白い石鳥居が出迎える。こちらは新しく改修された鳥居で、原爆投下時に唯一残った大鳥居は裏御門跡に移築された。
被爆大鳥居 ※広島城東側にある鳥居
こちらは広島城東側、裏御門跡に移築された大鳥居。別名「被爆大鳥居」という。
原爆投下当時、爆心地から330mの距離であったにもかかわらず、倒壊することもなく立ち続けていたという。形を留めていることに驚いた。
場所を戻して、護国神社の境内。
広島護国神社は、毎年初詣の時期に多くの参拝客で賑わい、1月1日~7日の間で50万人を超える。中国地方で最も多くの初詣客が訪れると言われている。
昇鯉(しょうり)の像
昇鯉と書いて「しょうり」 ゲンが良い名前!!
この「しょうり」にあやかってプロ野球球団の「広島東洋カープ」も祈願に来るそう。
神社の基本情報
御祭神 | 戊辰戦争で陣没された七十八柱の御霊を奉祀されたものが起源 大東亜戦争に至るまでの戦没されたご英霊およそ九万二千余柱(勤労奉仕中に原爆の犠牲となられた動員学徒、女子挺身隊含む)の神霊を祀っている |
所在地 | 広島市中区基町21番2号 |
最寄駅 | JR広島駅下車、徒歩23分 他 広電紙屋町東駅下車、徒歩12分 |
駐車場情報 | 参拝者用の無料駐車場あり |
公式サイト | https://www.h-gokoku.or.jp/ |
GoogleMap
広島護国神社は広島城の場内の一角にあるため、広島城は目の前にある。
なので広島城にも行ってみることに!
広島城(廣島城)
こちらは先ほどの護国神社の鳥居。
この先が広島城のお堀の内側となる。
広島城のお堀
なんとも綺麗な光景。
かなり大きなお堀であるため、当時の権力がものすごかったことが分かる。
こちらのお堀の水はとても透き通っていて、水中を泳ぐ鯉の姿がハッキリと確認できるほどだった。一時は周辺の埋め立てなどにより、ため池のような閉鎖性のお堀となってしまい、水質悪化が深刻化したそうだが、今では築城当初と同じく旧太田川から水を引き込んでいるとのこと。
石垣が何とも立派!
広島城天守閣
見えてきたぞ天守閣。
外壁が、茶色の板張りなのが大きな特長。
やっぱりお城はカッコイイ!
中は資料館となっており、上まで登れるようなので行ってみた!
結構高い・・・
見晴らしは最高!!
遠くに霞むビル群と、眼前に広がるお堀との対比が美しい。