目次
お寺の紹介
- 応永二十二年(1415年) 、日隆聖人によって「本応寺」として創建
- 油小路高辻と五条坊門の間の地(今とは違う場所)
- 日蓮大聖人の教えを広める「法華宗本門流」の大本山
- 7度もの建立を繰り返したお寺
- 1度目:日隆聖人によって「本応寺」として創建
- 2度目:妙本寺の教徒により壊され再建
- 3度目:如意王丸から土地の寄進を受け、六角大宮に「本能寺」として建立
- 4度目:「天文法華の乱」で焼き討ちに遭い再建
- 5度目:本能寺の変にて焼失し、豊臣秀吉の命を受けて現在地に再建
- 6度目:天明の大火で焼失し再建
- 7度目:蛤御門の変で焼失し、1928年に現在の本堂再建
- 何度も火災に遭うので「能」にある「ヒ」の文字を嫌い「去」をあてた文字としている
- 織田信長と本能寺
- 天正10年、秀吉に毛利攻めを命じ、数十名の手勢を従え本能寺入り
- 明智光秀に、秀吉援護を命じる
- 17,000の軍勢を率いて居城の亀岡城を出た光秀が、途中で反旗を翻す
「敵は本能寺にあり!」 - そのまま本能寺へ向かい完全包囲、明け方攻め込む
- 寝込みを襲われた信長は多少の抵抗を試みたのちこれを断念
- 寺に火を放ちそのまま自刃
- 織田信長の三男「信孝」が集めた遺骨をもって墓を建てたとの伝承がある
正式名称
本能寺
御本尊
十界大曼荼羅
御朱印
表門
時間外は閉ざされている。
案内看板
寺院名碑
「織田信長公 御廟所」と彫られた石碑も並んでいる。
寺名に刻まれている「能」の時が違うことがわかる。
織田信長公御廟
案内看板がしっかりと設置されている。
迷わないという有難さに加え、拝観しても良いという安心感もある。
立派!
本能寺の変戦死者の書かれた看板
本能寺の変では100名近くの人が亡くなっていたことが分かった。
名碑の中には「森蘭丸」の名前もある。
まとめ
本能寺と言うと、織田信長とセットで思い浮かべることが多い。が、実は日蓮大聖人の教えを広める「法華宗」と言う宗派の大本山だった。
7度の建立を繰り返したという本能寺。何度も焼失しながら、そのたびに再建されてきたという歴史から、やはり人々に大切にされてきたお寺なのだと感じる。
信長と本能寺のつながりと言う点では、当時本能寺に滞在していた「日承上人」が天皇の親戚だったことや、早くから鉄砲伝来の地として有名な種子島で布教を行っていたこと、などが影響しているのだとか。信長の、天下人たらしめる所以だろう。一方で、側近に謀反を起こされてしまうわけで、どんな人物だったのか、ますます興味が湧いてくる。
アクセス
住所
所在地 | 京都府京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522 |
最寄駅 | 「京都市営地下鉄 京都市役所駅」下車 徒歩2分 「京阪電鉄 三条駅」下車 徒歩10分 |
駐車場情報 | 駐車場なし |
公式サイト | https://www.kyoto-honnouji.jp/ |