神社の紹介
- 通称は神田明神で親しまれている(多分)。正式名称は「神田神社」。
- 神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内などの総氏神
- 730年(天平2年)、武蔵の国に移ってきた出雲の一族が「大己貴命」を祀ったのが始まり
- 神田は伊勢神宮の領地の田圃があった土地で「神田ノ宮」とする
- 935年(承平5年)、平将門の乱で討ち死にした「平将門」の首が近くに葬られた
- これ以降、平氏の武将からの崇敬をうける
- 1309年(延慶2年)に将門の首塚が神田神社の相殿神となる
- 平将門神に祈願すると勝負に勝つと言われている
- 江戸時代に入ると「神田明神」と名乗るようになる
- 1872年(明治4年)、「神田神社」に改称
- 1874年(明治7年)の明治天皇行幸に合わせ、平将門が祭神から外される
- 天皇が参拝する神社に主君に背いた反逆者が祀られているのは、あるまじきことなので
- 神田神社の境内摂社に遷される
- 代わりに茨城の大洗磯前神社から「少彦名命」が勧請される
- 1984年(昭和59年)、再び「神田神社」祭神に復帰
- 神田明神を崇敬する人は成田山新勝寺を参拝してはいけない、とされている
- 朝廷に対して反逆を起こした平将門討伐のため、成田山で祈祷をしたからと言われる
- 策土神社でも同じような言い伝えがある
正式名称
神田神社|通称 神田明神
御祭神
一之宮|大己貴命(大黒様|縁結びの神様)
二之宮|少彦名命(えびす様|商売繁昌の神様)
三之宮|平将門命(除災厄除の神様)
ご神徳
家族円満・夫婦和合・縁結び・商売繁昌・事業繁栄・除災厄除・医薬健康・開運招福
御朱印
御朱所
このお洒落な建物の中で御朱印が頂ける。
建物の内部も、とっても洒落!
こちらの御朱印授与所にて、ご朱印が頂ける。
御朱印帳への筆書きはしておらず、書置きでの対応であった。
オリジナルクリアファイル付きです♪
神田明神 パンフレット
都内の一等地に鎮座しながら、敷地がとても広大であることにビックリ!
見ごたえありそうで、楽しみだ。
神田神社 江戸総鎮守 神田明神の案内
御祭神
一之宮|大己貴命 おおなむちのみこと
二之宮|少彦名命 すくなひこなのみこと
三之宮|平将門命 たいらのまさかどのみこと
ご神徳
家庭円満、夫婦和合、縁結び、商売繁昌、事業繁栄、除災厄除、医薬健康、開運招福など
大己貴命と少彦名命はともに力を合わせ心を一つに日本の国づくりをなさり、日本人の生活の基礎をお築きになられました。平将門命は悪政に苦しむ庶民たちを自らの命をなげうって守り抜いた東国の英雄です。
御由緒|江戸東京で最も歴史のある神社
東京都心-神田、日本橋、秋葉原、大手町・丸の内の氏神様です。
社伝によると、天平二年(七三〇)にご創建とあり約一三〇〇年の歴史を持つ神社です。
当初は、現在の千代田区大手町の将門塚周辺に鎮座しており、延慶二年(一三〇九)に平将門公をご祭神としてお祀りいたしました。
慶長八年(一六〇三) 徳川家康公が江戸に幕府を開き江戸城を拡張する際、江戸城から表鬼門の位置にあたる現在の地へ遷座し、幕府より御社殿が造営されました。以降、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として幕府はもちろんのこと江戸庶民にいたるまで多くの崇敬を受けました。
明治時代に入ると准勅祭社・東京府社として皇居・東京の守護神と仰がれました。明治七年(一八七四) 茨城県・大洗磯前神社より少彦名命をお迎えいたしました。同年、明治天皇が親しくご参拝されました。
平将門命は明治七年に一時、摂社・将門神社に遷座されましたが、その後神職・氏子崇敬者の願いにより昭和五十九年、再び神田明神の三の宮として複座されました。
神田祭
江戸東京を代表する賑やかで壮観な祭礼
山王日枝神社の「山王祭」とともに”天下祭”と呼ばれ日本三大祭にも数えられます。
江戸の昔より、徳川幕府・江戸っ子の厚い崇敬を受けたことから天下祭・御用祭と称えられ神田・日本橋を中心とする町々より三十六番四十五本前後の勇壮な山車が出され、それに加え曳き物・仮装行列などの附け祭や御雇祭も出され江戸城内に入り徳川将軍が上覧した由緒ある祭礼でした。
今日の神田祭は、二年に一度鳳輦・神輿をはじめとする賑やかな大祭礼行列が、神田日本橋・秋葉原・大手町丸の内の氏子区域を巡行し各氏子の町神輿約二〇〇基が担がれ、次々と神社へ宮入・参拝を行う大変賑やかな祭礼です。
神田明神パンフレットより
みどころ
神田明神の参道
東京の神田地区と言えば、超オフィス街として知られている。しかし、その中には立派な神社が佇んでいる。
都会の中にあるだけあって、参道が綺麗に整備されていて気持ちが良い。
神田明神鳥居の扁額
「宮司 大鳥居吾郎謹書」と書かれている。
この、苗字「大鳥居」とは、太宰府天満宮の神主が大きな鳥居の傍に住んでいたことが由来とされ、菅原道真公の末裔ともされている。
神田明神の隨神門(ずいじんもん)
立派な門が見えて来た!
この立派な楼門は、昭和天皇御即位50年の記念事業として昭和50年に再建された。
神田明神隨神門の扁額
こちらの扁額にも「宮司 大鳥居吾郎謹書」と書かれていた。
神田明神の手水舎
こちらの手水舎は少し変わっている。
手水舎によくある屋根は無く、手水鉢があるだけの造りである。
初めて見た!!
都会の喧騒から切り離され、神聖な気持ちになる。
この、まさに江戸!!って感じがたまらなく好き。
神田明神の由来
ズーム!
神田神社御由緒の説明
江戸総鎮守神田明神
神田神社御由緒
御祭神
一の宮 大己貴命 おおなむちのみこと(だいこく様)
二の宮 少彦名命 すくなひこなのみこと (えびす様)
三の宮 平将門命 たいらのまさかどのみこと(まさかど様)
正式名称・神田神社。 東京都心一〇八町会の総氏神で、神田・日本橋・秋葉原・大手町丸の内、そして東京の食を支える市場の発祥地の氏神様として青果市場・魚市場の人々からも篤く崇敬されております。
縁結び、家内安全、商売繁昌、社運隆昌、除災厄除、病気平癒など数多くのご神徳をお持ちの神々です。
当社は、天平二年(七三〇)のご創建で、江戸東京の中で最も歴史ある神社のひとつです。 はじめは現在の千代田区大手町・将門塚周辺に鎮座していましたが、徳川家康公が江戸に幕府を開き江戸城が拡張された時、江戸城から見て表鬼門にあたる現在の地へ遷座いたしました。それ以降、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府から江戸庶民にいたるまで多くの人々の崇敬を受けました。さらに明治に入り、准勅祭社・東京府社に列格し皇居・東京の守護神と仰がれ、明治天皇も親しくご参拝になられました。
当社のご社殿は、近代神社建築を代表する建築家大江新太郎らの設計により昭和九年、日本初の
骨鉄筋コンクリート・総漆朱塗造の権現造で建立され、現在、国登録有形文化財に指定されております。また境内には総檜造の随神門や伝統文化の継承や新たな文化発信の拠点として平成三十年
に竣工した文化交流館、令和二年にリニューアルした結婚式場・明神会館など新旧様々な建造物がございます。縁結びのご神徳から神前結婚式も多く行
われております。資料館には、数千点の貴重な絵巻や浮世絵等が所蔵されています。また小説やドラマで有名となった銭形平次等、多くのドラマやアニメの舞台としても知られています。
当社の祭礼・神田祭(かんだまつり)は二年に一度執り行われ、江戸時代には江戸城内に入り徳川将軍が上覧したため、御用祭とも天下祭とも呼ばれました。また日本三大祭・江戸三大祭の一つにも数えられております。現在は鳳輦・神輿をはじめとする祭礼行列が神田・日本橋・秋葉原・大手町丸の内の一〇八町会を巡行する「神幸祭」と、氏子の町神輿約一〇〇基が神社へ宮入りする「神輿宮入」を中心に賑やかに行われております。
当社は令和十二年(二〇三〇)に創建一三〇〇年の節目を迎えます。創建一三〇〇年を迎えるにあたり、今日この瞬間にも、そして未来においても常に新しく瑞々しい場所であり続けるよう社殿の修復を中心に一三〇〇年の記念事業を推進してまいります。
令和三年夏 神田神社社務所
隨神門前の神田神社御由緒より
隨神門の彫刻
この場所は国学発祥の地でもあるんだそう。
神田明神 随神門欄間彫刻の説明
随神門欄間彫刻
随神門四方の欄間彫刻は四神が彫られ、中央部には御祭神大國主之命の神話が描かれている。
四神とは、中国古代の天文学上、北極星を中心として、東は青龍(蒼龍) 西は白虎(白虎)南は朱雀(朱鳥) 北は玄武(玄武亀) 夫々の星を禽獣の名をもって表わされた。わが国では大宝元年(七〇一年)朝儀の儀仗に四神の矛が飾られ、それ以来、魔除けの神として崇められている。
またこれらを五色に配当され、東を青、西を白、南を赤、北を黒、中央を黄とされた。
近年身近なものとして、大相撲における土俵上の各方位には色房を垂らしてそれぞれの方角を示しているのが見受けられる。
本当に立派な門だ。では早速境内の本殿に向かうとしよう。
神田明神の本殿
運よく人が居なくなった時に撮影できたが、平日にも関わらず多くの参拝客で賑わっていた。
写真の狛犬は、昭和8年に奉献された。
何となく違和感を覚えるのではないだろうか。実はこの狛犬、他の神社で良く見る狛犬と違い、正面を向いているとても珍しい造りをしている。動物彫刻を得意とした「池田勇八」が原型を制作したのだそうで、顔つきや体つきもリアルに造られている。
提灯には江戸時代から親しまれた通称「神田明神」の文字。
昭和9年竣工で、鉄筋コンクリート造りながらそれを感じさせない工夫が施されているのだそう。
昭和20年の東京大空襲でも、焼失することなく耐え抜いた数少ない建物だ。
前社殿は、江戸時代の天明2年に幕府により建築されたそうで、社殿の内部には徳川家の象徴である葵の御門が見える。
神田明神の境内には色々あるので、早速散策をしてみたいと思う。
神田明神 境内の主な見もの
神田明神 大黒様
大きな大黒様だ。ご利益がたっぷりありそう!?
神田明神 百度石
神田明神 百度石とは
神田明神 石獅子
神田明神 石獅子の説明
石獅子
千代田区指定文化財 1991年(平成3年) 4月1日指定
この石獅子は、区内に残る数少ない江戸期の石造物のひとつです。 享保年間 (1716~1735) に、 下野 (現在の栃木県) の名工・石切藤兵衛が作ったものといわれています。 1862年(文久2年) 11月に両替屋仲間が石を積んで神田神社へ奉納したという記録があります。
3頭の石獅子は、 親獅子が谷底へ突き落した子獅子を見る構図になっています。 このうち江戸期以来のものは夫婦2頭のみで、子獅子と獅子山は1923年(大正12年)の関東大震災で失われ、1989年(平成元年)に天皇即位を記念して再建されました。
*千代田区指定文化財は獅子の夫婦2頭
石獅子前の案内看板より
神田明神 銭形平次碑
寛永通宝の石の中央に「銭形平次」と彫られた石碑が建っている。
神田明神 銭形平次碑の説明
錢形平次碑
銭形平次は野村胡堂の名作「銭形平次捕物控」の主人公である。
平次の住居は、明神下の元の台所町ということになっている。
此の碑は、昭和四十五年十二月有志の作家と出版社とが発起人となり、縁
石造り寛永通宝の銭形の中央には平次の碑、その右側に八五郎、通称「がらっ八」の小さな碑が建てられた。
銭形平次碑前の案内看板より
ドラマ『VIVANT』の小さな祠があった場所
探してみたところ、たぶんココ。
ぜったいここだー!!本当にあったのが嬉しい。
まぁもちろん小さな祠はセットだろうって分かっていたけど…
神田明神 境内末社めぐり
神田明神にはいくつもの末社がある。
せっかくなので、ここでいくつかご紹介。
大伝馬町 八雲神社
大伝馬町八雲神社の説明
三天王 二の宮
大伝馬町八雲神社
御祭神 建速須佐之男命
祭礼日 六月五日
この神社は江戸時代以前に祀られていたと伝えられる。三天王の二の宮の天王祭は、六月五日明神境内を発輿し、氏子中を神幸し大伝馬町の御仮屋へ渡御して八日に還輿していた。このことから大伝馬町天王と称されていた。この祭は元和元年(一六一五)頃より行われて、江戸時代には他の天王祭と共に大変な賑わいの一つであった。今日でも大伝馬町一丁目・本町三丁目東町会の有志諫鼓会(神田祭の一番山車大伝馬町諫鼓山車より命名)の人々の篤いご信仰がある。
尚、東京の風物詩「べったら市」も神田神社兼務社日本橋宝田恵比寿神社で諫鼓会の人々により祭礼伝統文化行事として継承されている。
大伝馬町八雲神社前の案内看板より
大伝馬町八雲神社の説明
大伝馬町八雲神社鉄製天水桶
千代田区指定文化財
2004年 (平成16年)4月1日指定
大伝馬町八雲神社は、 神田神社境内の神社(摂社)で小舟町八雲神社、江戸神社とともに江戸時代には祇園牛頭天王三社と呼ばれていました。
天水桶は防火用水などに使うため、雨水を溜めるためのものです。 深川大島の鋳物師・太田近江大掾藤原正次(通称・釜六)の作です。
反物などの流通を一手に担う問屋仲間が1839年(天保10年)6月に奉納したものです。 彼らは祭礼費用を賄うなど、神社と深い結び付きを持っていました。
大伝馬町八雲神社前の案内看板より
江戸神社
こちらが祇園牛頭天王三社の一つである江戸神社。
中には御神輿がある。
江戸神社の説明
三天王 一の宮
江戸神社
御祭神 建速須佐之男命
祭礼日 五月十四日
大寶二年(七〇二) 武蔵国豊嶋郡江戸の地(今の皇居の内)に創建された大江戸最古の地主の神であります。古くは江戸大明神あるいは江戸の天王と称された。
鎌倉時代には、江戸氏の氏神として崇敬され、その後江戸氏が多摩郡喜多見村に移住の後、太田道灌築城してより、上杉氏・北条氏等引続き城地に祀ったが慶長八年(一六〇三) 江戸城の拡張により、神田神社と共に神田台に遷り、更に元和二年(一六一六)に当地に遷座された。
江戸時代中期以後は牛頭天王と称され、明治元年(一八六八)に須賀神社と改称、更に明治十八年(一八八五)に江戸神社と復称された。この神社は、江戸開府の頃幕府の食を賄う菜市が開
かれその後、貞享年間(一六八四~)に神田多町一帯に青物商が相集い市場の形態が整った。こうした発祥の頃から市場の守護神として崇敬されてきました。
現社殿は平成元年神田市場が大田区東海の地に移転するにあたり江戸神社奉賛会の人々により今上陛下御即位大礼の記念として、大神輿を御神座として再建鎮座された。
◎三天王祭・一の宮江戸神社の祭について
慶長十八年(一六一三)より始まったと伝えられる神輿の神幸は六月七日の朝、明神の境内を発輿して南伝馬町二丁目に設けられた御仮屋に入り、氏子の町々を渡御して十四日還輿された。その神幸の様は実に勇壮厳粛な行列であったと伝えられる。
現存する大神輿は、日本有数の華麗にして巨大な神輿で、通称「千貫神輿」として人々に親しまれ、神田祭に担がれる凡そ二百基の神輿の象徴でもあります。
江戸神社前の案内看板より
江戸神社の説明
江戸神社(詳細は由緒板をご覧下さい)
殿内に御帳台として納められおります大神輿は 神田祭に市場発祥の地 神田多町への巡行渡御が行なわれます。
千数百人の担ぎてにより 手古舞・大獅子と共に宮入参拝が行なわれます。
神田神社の三体の御祭神をお乗せした鳳輦・神輿を中心にした神幸祭には 時代行列・付け祭の行列を従がえ 土曜日夕方のご還座時には一キロ以上に及ぶ最大の行列となります。翌日曜日には早朝より夜間に至る迄 宮入参拝の神輿が境内を埋め尽くします。 大小二百台以上の神輿が街中で担がれる江戸っ子の姿は実に壮観なものです。
今年の神田祭は
五月十一十二日の土・日曜日に斎行されます。
江戸神社前の案内看板より
なるほど!今年(2024年)の神田祭は5/11・12日にあるのか。
是非行ってみたいと思う。
鳳輦神輿奉安庫
鳳輦と書いて「ほうれん」と読む。鳳輦神輿とは、屋形の上に鳳凰を乗せた神輿のこと。通常は非公開だが、お祭りの時には公開され担がれる。
浦安神社
こちらは浦安稲荷神社。
神田鎌倉町って番地もあるんだなー。
なるほど豆知識
・江戸時代、江戸平川の河口近くの漁村に住む人々によって始まった神社は、この地の鎮守神として信仰され、浦安稲荷として知られている。
・浦安とは、「浦(海)が安かれ(安泰であって欲しい)」との意味で名付けられたとのこと。
・門柱にある「鎌倉町」は、徳川家康の江戸城築城の際、付近の海岸には鎌倉から来た材木商たちで賑わっており、その付近は鎌倉町と呼ばれていた。
中はこんな感じになっていた。
三宿稲荷神社・金刀毘羅神社
こちらは二つの神社が合祀されている。
三宿稲荷神社・金刀毘羅神社の説明
三宿稲荷神社
御祭神 宇迦之御魂神
祭礼日 十月初旬
創建の年は不詳。江戸時代より神田三河町二丁目(他に皆川町・蝋燭町 旭町の一部が合併され、昭和十年に司町一丁目に改称。 更に昭和四十一年より住居表示に関する法律により、内神田一、二丁目の一部に編入され、内神田司一会となる)の守護神として奉斎されていた。その後当社十二代神主芝崎美作守の邸内に祀られていた内山稲荷と合祀され、当社の末社として奉斎された。現在の社殿は、昭和四十一年十月七日に再建され、金刀比羅大神と共にご鎮座された。
金刀比羅神社
御祭神 大物主命・金山彦命・天御中主命
祭礼日 十月十日
天明三年(一七八三)に、 武蔵国豊島郡薬研堀 (現在の東日本橋二丁目旧両国町会)に創建された。江戸時代には、神祇伯白川家の配下となり、祭祀が齋行されていたが、明治六年(一八七三) 七月に村社に定められた。
往古は、隅田川往来の船人達の守護神として崇敬され、その後、町の発展と共に商家、 特に飲食業、遊芸を職とする人々の篤い信仰を集めている。
昭和四十一年十月七日、宗教法人を解散して氏神のこの地に社殿を建立し、三宿稲荷大神と共にご鎮座された。
三宿稲荷神社・金刀毘羅神社前の案内看板より
末廣稲荷神社
こちらは日本橋小舟町にある末廣神社。
末広稲荷神社の説明
末広稲荷神社
御祭神 宇迦之御魂神
祭礼日 三月午の日
当社御創建の年代は不詳でありますが、元和二年(一六一六)頃のもので、極めて古い神社であります。
昔より、庶民信仰が篤く、霊験あらたかな出世稲荷さまとして尊崇されている。
現社殿は、昭和四十一年二月二十八日に東京鰹節類卸商組合の有志により再建された。
末広稲荷神社前の案内看板より
本殿はこんな感じ
合祀殿
こちらの合祀殿は以下の神社が共に祀られている。
合祀殿の説明
籠祖神社
御祭神 猿田彦神・塩土老翁神
御神徳 導きの神・海上安全の神・籠造り職人始祖の神
御由緒 寛政七年(一七九五) 亀井町(日本橋小伝馬町周辺)の籠職人たちによりお祀りされた。
塩土老翁神は、山幸彦(神武天皇の祖父)に竹籠の船を与えた神で、そこから籠職人たちに崇敬されたのであろう。現在も籠祖神講の人々により祭祀が行われている。
八幡神社
御祭神 誉田別命(応神天皇)
御神徳 必勝祈願 心願成就の神
御由緒 江戸幕府が崇敬した境内の旧社で、 連雀町(神田須田町・淡路町周辺)の町人によりお祀りされた。八幡神は武の神として有名で、源頼朝や徳川家康など歴代の武将が崇敬したため、全国各地にお祀りされている。
富士神社
御祭神 木花咲耶姫命
御神徳 安産・子育て守護・火難消除の神
御由緒 文化十二年(一八一五) 神田塗師町 (鍛冶町周辺)の町人によりお祀りされた。富士山に祀られた神で、海幸彦山幸彦の母神様御神名は「桜や梅の花が咲くように美しい女性」を意味する。
天神社
御祭神 菅原道真命・柿本人麻呂命
御神徳 詩歌・文筆・学問の神
御由緒 菅原道真公は、平安時代の貴族で、右大臣や太政大臣を歴任し政治家としての手腕を発揮する傍ら、学者・詩人としても優れていたことから、学問の神様として崇敬された。
柿本人麻呂公は享保年間(一七一六~)に、「江戸砂子」の著者・菊岡沾涼により御神像がお祀りされた。 柿本人麻呂は飛鳥時代の歌人で歌聖と呼ばれ三十六歌仙の一人であります。このたび詩歌に秀でた両祭神を合祀し天神社として、勧請しました。
大鳥神社
御祭神 日本武尊
御神徳 開運招福・国土安穏・文武の神
御由緒 文政年間(一八一八~)に社殿が建立され、柿本人麻呂命の神像と共に合祀勧請されたと伝えられています。日本武尊は国内を東奔西走し、大和朝廷の統一に貢献された日本の英雄神です。 各地の大鳥神社は、おとりさまと親しまれ、十一月雨の日には、酉の市が行われている。
天祖神社
御祭神 天照大御神
御神徳 日本の総氏神皇祖の神
御由緒 古来より神社境内にお祀りされ、湯島横町の町人により崇敬されていました。 天照大御神 は、伊勢神宮のご祭神で、皇室の祖神であるとともに日本の総氏神でもあります。全国的に天祖神社・神明宮としてお祀りされています。
諏訪神社
御祭神 建御名方命
御神徳 五穀豊穣・交通安全・開運長寿の神
御由緒 古来より此の地にお祀りされていたが、享和二年(一八〇二)日本橋本町三峰講中により 社殿が造営されお祀りされた。
建御名方神は、神田神社の一の宮御祭神大己貴命の御子で、大己貴命とともに葦原中津 国を治めた武勇の神様です。
江戸時代に勧請された、右の神々は、関東大震災・戦災により社殿を焼失し、以来神田神社の本殿を仮御座として奉斎されてまいりました。
「平成の御造替事業」の締め括りに、七社の御神霊を奉鎮する「合祀殿」として新たに御造営いたしました。
平成二十四年十一月二十四日建立・遷座
合祀殿前の案内看板より
籠祖講関係石造物群の説明
籠祖講関係石造物群
千代田区指定文化財
2005年(平成17年)4月1日指定
籠祖神社は、塩土翁神と猿田疹大神が祭神で、社伝によれば:1798年 (寛政10年)に神田神社境内に筑座したとされています。籠祖講は神田青物市場や日本橋の魚河岸などで使われる籠や笊をつくっていた亀井町 (現在の千代田区岩本町一丁目と中央区小伝馬町にまたがる地域)の籠職人や葛籠職人たちによって結成されました。現在も両神を職神として、籠祖講の活動が統けられており、毎年11月に例大祭が行われています。
籠祖神社内には1850年(嘉永3年)から1961年(昭和36年)に奉納された石造物(鳥居・水盤・記念碑・拍犬・常夜燈・玉垣・石標)があります。
合祀殿前の案内看板より
合祀殿 籠祖神社の説明
籠祖神社御縁起
御祭神 援田彦大神・塩土翁神
援田彦大神は、天孫ににぎの尊降臨の時日向の高千穂の峰に御先導申し上げた神で営業の方向や土地の方位等に霊験あらたかな神として崇められて居ります
塩土翁神は竹工の神、塩の神、又船の神として古事記に、山幸彦(火遠理命)が、兄海彦(火照命)から借りた釣針を失いお困りの時無間勝間の小舟(すき間なく編んだ竹籠の舟)を作り与え海神の宮に渡り給えと教えられた神で器物を産み造る始祖として古くから崇め祀られて居ります
籠祖神社は古く寛政七卯年五月亀井組(現小伝馬町)の籠職及び、つゞら職の人々斯業の祖神として神田明神境内に鎮座されたのが始まりで、商売繁昌招、招福開運の御利益を願い祖神講を設けて今日迄百六拾六年の間絶ゆる事なく毎年十一月五日に盛大な御祭祀を致して居ります
籠工商祖神講
昭和三十六年十一月吉日
合祀殿 籠祖神社横の案内看板より
祖霊社
こちらの祖霊社は、神田明神を尊崇した氏子や崇敬者の先祖をお祀りするお社とのこと。
おしまい
秋葉原駅に近く、オフィス街として賑わっている神田。
まだ江戸の人たちの中心地として、町の人々から大切にされている神社だということがよくわかった。
アクセス
住所
所在地 | 東京都千代田区外神田2丁目16−2 |
最寄駅 | 「JR中央線(総武線)御茶ノ水駅」下車 徒歩5分 |
駐車場情報 | 専用の無料駐車場あり(若干数) |
公式サイト | https://www.kandamyoujin.or.jp/ |
GoogleMap
神田明神の甘酒屋
神田明神の参道には2件の甘酒屋がある。
今回はこちら「三河屋」の甘酒を頂くことに。
延命甘酒としても有名な三河屋さん。
こちらは、1616年に「神田明神」が建てられた同じ年に「三河屋 綾部商店」が創業された。そもそも元は徳川幕府の公式商人として三河の国で商売をしており、幕府(徳川将軍)が江戸に移るのに合わせて三河国から江戸に移ったと店主からお話を頂きました。
「宮内庁御用達」の看板もあり、由緒あるお店であることが分かった。
甘酒も、いわゆる『日本酒を作る際に出る搾りかす』ではなく、お味噌を作るときに使用する糀を元とする甘酒であった。優しい甘みで、糀の風味がある甘酒でした!
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