神社の紹介
- 神武天皇元年(紀元前660年)に「武甕槌大神」を御祭神として、創建
- 神武天皇が東征時、窮地に陥った際に武甕槌大神の「韴霊剣」により救われる
- これに感謝し、天皇即位の年に勅祭を執り行った
- 「韴霊剣」は長大な直刀で国宝指定
- 「常陸国風土記」には実在していることが確認され、東国随一の歴史ある神社
- 古代、朝廷から蝦夷平定の神として崇敬される
- 奈良・平安時代には、国の守護神として篤く信仰されていた
- 源頼朝、徳川家康などの武将から、武運を司る神として尊崇される
- 全国約600社ある鹿島神社の総本社
- 東国三社(茨城県の鹿島神宮・千葉県の香取神社・茨城県の鳥栖神社)の一社
現在令和の大改修中…。
改修前はこんな感じ。
正式名称
鹿島神宮
社格
常陸国一之宮|旧官幣大社
御祭神
主祭神|武甕槌大神
鹿島神宮
御朱印の押さえ紙にあった鹿島神宮の由来より
御祭神 武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)
武甕槌大神は神代の昔、天照大御神の命を受けて経津主大神(ふつぬしのおおかみ)(香取神宮・
御祭神)と共に出雲国へ天降り、大国主命との国譲りの交渉を成就し、 日本の建国に挺身されました。
鹿島神宮の創建は初代神武天皇の御代と伝わります。 神武天皇は御東征の半ばにおいて思わぬ窮地に陥られましたが、武甕槌大神の「韴霊剣(ふみたまのつるぎ)」の神威により救われ、神恩に感謝された天皇は
御即位の年に大神をこの地に勅祭されました。
皇紀元年、すなわち紀元前六六〇年の頃といわれています。
御朱印
鹿島神宮のパンフレット
鹿島神宮の案内図
見るからに広そう・・・
見ごたえ十分だ。
みどころ
鹿島神宮 御由緒
鹿島神宮御由緒
鹿島神宮御由緒書きより
御祭神 武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)
社 格 勅祭社・別表神社・常陸国一之宮・旧官幣大社
創 建 皇紀元年(紀元前六六〇年)
例祭日 九月一日
境内地 二十一万坪
御由緒
神代の昔、天照大御神の命を受けた武甕槌大神は香取の経津主大神と共に出雲国へ向かわれ、 国譲りを成就し皇孫の国たるべき日本の建国に挺身された。
とりわけ東国における神功は大きく、関東開拓の礎は遠く大神にさかのぼる。
初代神武天皇はその御東征なかばにおいて思わぬ窮地に陥られたが、大神の「師霊剣」の神威により救われた。
皇紀元年、紀元前六六〇年の頃と言われる。
以来、皇室を始め藤原氏等の崇敬も篤く、中世・近世には源頼朝、徳川将軍家等の祈願や寄進が寄せられた。
そして江戸時代に利根川から江戸を結ぶ水が開かれると東国三社参り(鹿島・香取・息栖)が流行、庶民にも鹿島信仰は広まり、現在に至るまで東国最大最古の神社として朝野の崇敬を集めている。
何と言っても創建が紀元前660年というのががすごい。
日本神話がそのまま現代まで引き継がれていることが不思議であり面白い。
鹿島神宮 大鳥居
この鳥居は、境内に自生する杉の木を利用して作られたとのこと。
鳥居の足まわりを見るだけでも、かなり立派な巨木が使われたことがわかる。これはとても貴重だと言える。
参道の奥には楼門が見える。
鹿島神宮 社号標柱
「鹿島神宮」と書かれた大きな標柱が目に飛び込んでくる。この神社は歴史が古く、規模も大きいことが伝わってくる。
ほぼ毎月お祭りが開催している。
鹿島神宮 参道
大鳥居をくぐり、いざ参拝へ!
大きな楼門が見えてくる。
おっ。左に手水舎が見えて来たので、お清めをしよう。
鹿島神宮 手水舎
楼門と同じ朱色の建造物である。統一感は大事ですね。
体も心も洗い、清らかな気持ちで参拝しましょう。
6つ穴が開いているが、穴の間隔が狭いので6人同時でやるのは気まずい…。
鹿島神宮 楼門
日本三大楼門の一つであるこの鹿島神宮の楼門は、さすがに立派な造りだ。この楼門は、1634年に水戸徳川の初代藩主である「頼房卿」によって奉納されたのだそう。
ただ、参拝時は改修中であり、足場が組まれていた。
鹿島神宮楼門の扁額
鹿島神宮と書かれた扁額がある。
ちなみに鹿島神宮のある鹿嶋市は本当は「鹿島市」にしたかったが、既に佐賀県に鹿島市があったため、鹿島神宮とは異なる鹿嶋市となったとのこと。なお、鹿嶋市にあるサッカーチームは鹿島アントラーズであり、鹿島となっている。
鹿島神宮 授与所
こちらでは御守やお札などが販売している。
建物も大変立派だ。
御朱印はこの授与所ではなく、この角を曲がった祈祷殿・社務所にて頂ける。なので、まずは本殿にて参拝をしよう。
鹿島神宮 拝殿(本殿)
じゃーん!!見事に覆い隠されてます…
あぁ…
せっかくなので正面から。
当たり前だが特になんの変化もない。透けて見えるかなと思ったけど…
まぁこれも記念になると思うしかない。
拝殿の内部は良く見える。
奥の本殿はこんな感じ。
こちらにが御神体が祀られている。荘厳な造りであることがよくわかる。
修復は屋根がメインなのだろう。内部はとても綺麗になっていた。
こちらは在りし日の拝殿。
数年後また来る楽しみができた。
鹿島神宮 本殿
この拝殿の奥に本殿があり、御祭神である武甕槌大神が祀られている。
本殿を含め、石の間・幣殿・拝殿の4つからなる社殿は、徳川2代将軍「徳川秀忠」が寄進したもので重要文化財指定とされている。
豪華絢爛な造りであるので、拝殿だけでなく本殿も見て欲しい。
拝殿の屋根を改修しているのがここから見るとよくわかる。
鹿島 神宮仮殿
仮殿(重要文化財)
仮殿前の説明看板より
本殿を修理する時など一時的に神様をお遷(うつ)しする社殿です。現在先の摂末社所管社の御分霊をお祀りしております。
ー以下省略ー
1618年に徳川2代将軍の秀忠公にて奉納された。この仮殿は、神社の本殿を建て替えるため、一時的に神様を仮殿に移す役割があった。その後、旧本殿を奥宮まで移しその跡地に新しい社殿が建設された。
仮とはいえ立派な建物である。
鹿島神宮 祈祷殿・社務所
とても綺麗な建物で、広い。さすが鹿島神宮と思う一つである。
御朱印はこちらで頂きます。
中は広く、とても綺麗であった。
令和八年 式年祭記念事業
祈祷殿内の案内パネルより
鹿島神宮 令和の大改修
幣殿拝殿奥宮楼門保存修理
◆御奉賛のお願い
武甕槌大神は神代の昔、天照大御神の命により国譲りの大業を果たされた神です。武甕槌大神を御祭神としお鎮まり頂いております鹿島神宮は、神武天皇御即位の年に神恩感謝の意をもって使を遣わして勅祭されたことを創祀とし、古来より朝野の崇敬を殊に篤く受けてまいりました。
幣殿・拝殿・奥宮・楼門それぞれが国指定重要文化財であり、昭和の前中期にそれぞれ指定されております。しかし、江戸初期の造営時より大小幾多の修理を行ってきましたが、近年屋根や塗装及び木部の傷みが目立ち、早期に修理を行う必要が生じました。調査の結果、社殿の傷みは予想外にひどく、早急な修理工事が望まれるとの結論が出されました。
文化庁より格別なご高配を賜り、7ヵ年計画で完成される見通しとなりました。
何分にも当神宮にとって大きな事業であり、心ある皆様方の物心両面にわたる絶大なるご援助なくしては到底達成は困難であります。この修理工事を完遂することで神宮の尊厳の護持はもとより、その行為を通じて大神様の御神威のもと多くの方々とつながり明るい人づくりがなされ、この国の伝統的な信仰の在り方と文化を将来に正しく伝えていくことを期するものであります。
この事業を完遂するためにも、何卒格別の御高配を以て御奉賛賜りますようお願い申し上げます。
令和三年四月吉日
鹿島神宮
奥宮楼門 保存修理
◆各社殿
幣殿 拝殿
御祭神 武衰槌大神
本殿・石の間・幣殿・拝殿の4棟からなる社殿は、元和五年(1619)、徳川二代将軍秀忠公が寄進したもので、重要文化財に指定されています。
本殿は参道から見て一番奥にある三間社流造の建物で、御祭神の武甕槌大神をお祀りしています。
奥宮
御祭神 武甕槌大神荒魂
現在の社殿は、慶長十年(1605)に徳川家康公が関ヶ原戦勝の御礼に現在の本殿の位置に本宮として奉納した
ものを、その十四年後に新たな社殿を建てるにあたりこの位置に遷してきたものです。
現在改修真っ只中。
鹿島神宮 奥宮・御手洗池へ
奥宮や御手洗池へ行くにはこの参道を進んだところにある。
結構歩くが、散策気分を楽しめる。
関所みたいな門。
左奥の建物は現在は使用されていなそう。
境内案内
鹿島神宮境内の案内看板より
奥宮
ここより三〇〇メートル
本宮御祭神の荒魂を奉祀する。
社殿は慶長十年(西暦一六〇五)に徳川家康公奉納の旧本殿を元和五年に引遷したもので明治三十四年国宝指定。 現重要文化財。
要石
ここより四五〇メートル
奥宮の後方一五〇メートルのところにある石で別名を山の宮、御座石といい幾多の神秘的な伝説がある。特に地震を起す大鯰を押えているという説話により当地方は大地震にも被害が少ないという。
御手洗
ここより五〇〇メートル
宮の前の坂を下ったところにある潔斎の池で、古くはこの池のあたりが参道の起点であった。池の水温は一定して夏は冷たく冬は温かく感じられる。
鹿園
ここより一ニ〇メートル
御祭神の神として親しまれている神が三十牧頭柵の中に飼育されている。
樹叢
鹿島神宮境内的七〇ヘクタール(七〇町歩)に繁茂する植物は一千種の多種にわたり特に南北の植物が同生して植物学上貴重なため県の天然記念物の指定を受けている。
鹿島七不思議
要 石 その根底ふかくて回り知れずという
御手洗 池の深大人 小人によらず乳を過ぎずという
末無川 川の水流れ行くほど追々かれて行末知らず
藤の花 御山の菜の花の多少によりその年豊凶を予知すること
海の音 浪の響が上(北)の方に聞えれば日和下(南)に響けば雨降るという
根上がりの松 すべて御山の内の松。幾度伐れとも伐り跡に出て枯れることなし
松の箸 鹿島の松で作る箸は松脂の出たことなしという
鹿園まで120m、奥宮まで300m、要石まで450m、御手洗まで500mと、結構距離がある。
せっかくなので全部行ってみよう。
てくてくと歩くだけでも森の中なので気持ちが良い。
鹿島神宮 鹿園
見えて来た!
神鹿について
神鹿園前の案内看板より
古くから鹿は鹿島神宮の御祭神・武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)のお使いであると言われています。 これは国譲り神話で、天照大御神のご命令を武甕槌大神に伝えに来られたのが、鹿の神霊とされている天迦久神(あめのかくのかみ)であったことによります。
神護景雲二年(西暦七六八年)、藤原氏が氏神である鹿島の大神の御分霊を奈良にお迎えして春日大社を創建するにあたり、御分霊を神鹿の背に乗せ奈良へと進みました。
その足跡は、東京都江戸川区鹿骨鹿島神社を始めとして、東海道を三重県の名張まで言い伝えが残されており、この伝承から奈良の神鹿の起源は鹿島に求めることができます。
鹿島の神鹿は長い間大切に保護されており、一時絶えた時期もありましたが、昭和三十二年、奈良と神田神社から神鹿を迎え現在の鹿園が開園されました。
膝折るや かしこまり鳴く 鹿の声 曾良
河合曽良は松尾芭蕉の門人で、 鹿島神宮を訪れた際にこの句を詠みました
鹿は武甕槌大神 の使いとされ、神鹿として迎えた。
ここにいる鹿は奈良と神田神社から迎えたとのこと。
遠~くに居る。餌とかあればあげたかったが残念。鹿煎餅とか売ってれば良いのにな。
さざれ石
鹿園の前にあるのがさざれ石の碑。
歌詞のように苔むしているので、全く読めない…
鹿島神宮 奥宮
この建物は、かつての本殿であり、1605年に徳川家康によって現在の場所に奉納されたもので、その後ここに移築されたとのこと。2022年には、檜皮葺と呼ばれるこの屋根の吹き替え作業が行われた。
こちらは以前の奥宮。苔むした屋根は、神の領域のような雰囲気を醸し出している。
過去と比べると、現在はこんなにも綺麗になった。
木の色そのままを使ってるのが良い。歴史と風格を感じる。
奥宮
奥宮前の案内看板より
祭神
武甕槌大神荒魂
社殿
慶長十年(一六〇五)に徳川家康公により本宮の社殿として奉納されたが元和五年(一六一九)に二代将軍秀忠によって現在の本宮社殿が奉建されるに当たり現在地に引移して奥宮社殿となった
重要文化財
お宮の屋根の下は過去のままなのであろう。経年劣化が時代を感じる。
奥宮の裏側にも回れそうなので、行ってみた。
屋根だけ綺麗になっているのが分かる。
まだまだ先はあるので、ズンズン進もう。
次は、、、要石に行ってみる。
鹿島神宮 要石
完全に山林の小径って感じになってきた。わくわく。
味のある方向看板。サッカー場までは2.5Kmとあるが、ここから歩いて行く人居るの!?
やっと着いた。これが要石がある場所。
要石
要石の案内看板より
神世の昔、香島の大神か座とされた万葉集にいう石の御座或は古代における大神奉斎座位として座とも伝えられる霊石である。
この石地を掘るに従って大きさを加え、その極まるしらずという。
水戸黄門仁徳録に ヒロヒ掘っても掘っても掘り切れずと書かれ、地震押えの伝説と相俟って著名である。
信仰上からは、伊勢の神宮の本殿床下の心の御柱的存在である。
ん?
これか!
この地面にひょこっと顔を出しているのが要石。
小さく見えるが地中の奥深くまであり、この要石が、地震を起こすナマズの頭を押さえていると言伝えられている。
こちらの下の要石は香取神宮と対になっていると言われ、香取が凸、鹿島が凹となっている。
こちらは香取神宮の要石。こちらには窪みがないのがわかる。
それでは最後の御手洗池へ!
こちらは武甕槌大神の石像。
一旦こちらまで戻ってきてから御手洗池へ。
鹿島神宮 御手洗池
下り坂を降りると見えてくるのが・・・
この御手洗池。
鯉も気持ちよさそうに泳いでいる。
一日に40万リットル以上の湧水があるらしく、透き通っている。
水が本当に綺麗で、冷たい。
おしまい
アクセス
住所
所在地 | 茨城県鹿嶋市宮中 2306-1 |
最寄駅 | 「JR総武快速鹿島線 鹿島神宮駅」下車 徒歩10分 |
駐車場情報 | 専用の無料駐車場あり |
公式サイト | https://kashimajingu.jp/ |