建長寺の御朱印|鎌倉五山に数えられ北条氏と深い繋がりのあるお寺だった(神奈川県 鎌倉市)

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大河ドラマ寺院鎌倉殿の13人
建長寺と言えば、まず思い浮かぶのは鎌倉五山の第一位だろう。実は、北条氏と深い繋がりがあり、意外な歴史が紡がれていることがわかる。梶原景時の逸話も、面白い。

参拝日:2023年2月27日
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お寺の紹介

  • 1253年(鎌倉時代・建長5年)「北条時頼」が禅宗寺院・建長寺を創建
  • 「吾妻鏡」によると、1251年(建長3年)から造営を開始、1253年(建長5年)に落慶
  • 開山は南宋の禅僧「蘭渓道隆」
  • 鎌倉五山(建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺)の第一位
  • 境内は「建長寺境内」として国の史跡に指定
  • 建長寺が所在する山ノ内は、北条氏の本拠地だった
    • 鎌倉の北の出入口の護りに当たる要衝の地
  • 建長寺の境内が広がるやつは元は「地獄ヶ谷」と呼ばれる処刑場だった
    • 供養のため、地蔵菩薩を本尊とする「伽羅陀山心平寺」という寺が建立されていた
    • 建長寺開創にあたり、北条時頼によって巨福呂坂に移される
    • 現在は横浜三渓園へ
  • 仏殿内には地蔵菩薩像が、千体地蔵に囲まれるようにして安置されている
    • この地蔵菩薩は「伽羅陀山心平寺」の旧本尊と伝えられている
  • 梶原景時と建長寺
    建長寺建立間もない7月15日、「施餓鬼会」と言う、餓鬼道で苦しむ一切の衆生に食物を与えて供養する法会を行っている最中に梶原の景時の霊が現れた。その様子は残念そうに見えたため、改めて施餓鬼会」を行うと、その例は自らを梶原景時であると述べ、感謝して消えて行った。以降、午前中に「施餓鬼会」を、午後に「梶原施餓鬼」を行っている。

正式名称

 巨福山こふくさん 建長興国禅寺けんちょうこうこくぜんじ   通称|建長寺

創建・開基

 947年・村上天皇の勅願により開山

御本尊

 地蔵菩薩じぞうぼさつ 

建長寺の境内がある谷は、元は「地獄ヶ谷」と呼ばれる処刑場だったそう。この谷には、もともと地蔵菩薩をご本尊とする伽羅陀山心平寺が建立されていた。建長寺建立に際し、心平寺の本尊を現在の建長寺の御本尊として引き取ったとのこと。そのため、建長寺は禅宗の一般的な釈迦如来ではなく、地蔵菩薩を御本尊としている。

御朱印

御朱印所

入口となっている受付所にて、拝観料の支払いと共に御朱印も頂ける。

北条氏の家紋、三つ鱗の印も発見!

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みどころ

建長寺の寺院標柱と天下門

増上寺の寺号標柱

建長寺の天下門

「臨済宗五山第一 建長寺」と書かれている。

「天下禅林」とは、「人材を広く天下に求め育成する禅寺」という意味である。
1628年作成のもの。

建長寺の総門

建長寺総門の説明

総門

 建長寺は、鎌倉時代、建長五年(一二五三)、禅によって国の興隆をはかるため、執権北条時頼公の発願により、中国の禅僧・大覚禅師(蘭渓道隆)を開山として創建された、日本で最初の純禅の大道場です。
 建築は、総門・三門・仏殿・法堂・方丈が一直線に連なる中国の禅宗様式にもとづいています。
 今の総門は、江戸時代、天明三年(一七八三)に京都・般舟三昧院で建立されたものを昭和十五年に移築しました。
 額「巨福山(大きな福をもたらす寺)は、中国僧、一山一寧(一山国師)禅師(建長寺第十世)の筆です。

総門の案内看板より

この総門は、1783年に京都の寺である般舟三昧院はんじゅざんまいいんで建てられたものを、1940年に移築したとある。京都から神奈川まで引っ越してきたことに驚きである。

総門に掲げられた額の「巨福山こふくさん」は「大きな福をもたらす寺」と言う意味だそう。

建長寺の三門

建長寺三門の説明

三門(国重要文化財)

 三解脱門の略。空・無相無作を表しこの三門をくぐることによってあらゆる執着から解き放たれることを意味します。
 開山様の言葉に「福山は揮て松関を掩じず無限の清風来たりて未だ已まず」とあり、建長寺はあらゆる人々(修行者)に門を開放している事を表しています。
 楼上には、釈迦如来・十六羅漢・五百羅漢(修行を完成された人)を安置しています。
 この建物は江戸時代・安永四年(一七七五)に万拙硯誼和尚などの努力によって再建されました。創建当初は三門後方左右に大坐禅堂、大食堂がありました。

門前の案内看板より

建長寺の三門
三解脱門の略。この三門をくぐることによって、あらゆる執着から解き放たれることを象徴している。

この建物は1775年に再建されたもの。

建長寺の境内案内図と文学案内図

【国宝】建長寺の梵鐘

建長寺梵鐘の説明

梵鐘(国宝 重さは二、七トン)

 この鐘は、北条時頼公の発願により広く施主をつのり、開山大覚禅師(蘭渓道隆)の銘文、関東鋳物師の筆頭である物部重光によって建長七年(一二五五)に鋳造されました。
銘文の中に、「建長禅寺」とあります。左奥は、西来庵。開山大覚禅師を祀る塔頭。現在は、建長寺派専門道場を兼ね、雲水の修行道場です。(非公開)

梵鐘前の案内看板より

北条時頼の発願により関東鋳物師の筆頭「物部重光」により鋳造されたとのこと。建長寺創建当時から残る、貴重な梵鐘だそう。

夏目漱石の俳句

「鐘突けば 銀杏いちょうちるなり 建長寺」
「どこかで聞いたような俳句だな」と思ってよく見ると、この俳句が友人の正岡子規の有名な句「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の制作に影響を与えたことがわかった。夏目漱石の俳句は美しく真面目な印象を受けるが、正岡子規の俳句は少しコミカルな印象を与える。当時の二人のやり取りを想像すると、また面白い。

この大きな鐘を鳴らしたら、すごい音が鳴り響きそうだな。

建長寺嵩山門

修行道場への通用門である嵩山門。ここから先は入れない。

嵩山門のそばにある石碑には、「墓地入口」という文字が彫られている。夜になってこれを見たら、きっと腰が抜けると思う。

建長寺ご本尊(仏殿)

建長寺梵鐘の説明

仏殿(国重要文化財)

建長寺の本尊・地蔵菩薩を安置。
 北条時頼公と開山大覚禅師(蘭渓道隆)の衆生済度の願いが込められています。
 每月一日・十五日の祝聖、二十三・二十四日の開山例月忌、開山忌などの法要がここで行われます。
 現在の建物は、創建当初より四代目のものといわれ、東京・芝増上寺にあった徳川二代将軍秀忠公夫人(お江の方、家光の母)の霊屋を建長寺が譲り受けました。
 仏殿前の庭園の柏槇は開山禅師のお手植え、古木は樹齢七百六十年です。

仏殿前の案内看板より

この仏殿には、御本尊「地蔵菩薩」を安置している。
建物は、創建当初より四代目のものと言われ、東京芝・増上寺にあった徳川二代将軍秀忠公の夫人「お江の方」の霊屋を建長寺が譲り受けたものとのこと。
なるほど、建物は納得の造りだった。かなり古いものと推察できるのに、とても丁寧に造られていることがよくわかる。

建長寺仏殿の内部

これはものすごい迫力であり、今まで見た仏像とは表情が違う。

台座を含めると5m程の高さになるお地蔵様。とても優しい顔をしている。
この建長寺が建つ場所は、かつて罪人の処刑場として使われており、そのお寺の本尊が地蔵菩薩であった。当時のものと伝えられている地蔵菩薩像は、この仏殿の千体地蔵にかこまれて建長寺仏殿内に安置されているとのこと。

建長寺法堂(はっとう)

1814年に再建された建造物である。

建長寺法堂の説明

法堂(国重要文化財)

 昔は、建長寺全体が修行道場であり、山内にいる僧侶全員がこの法堂に集まって、住持の説法を聞き、修行の眼目としました。三八八人の僧侶がいた記録があります。修行道場は、西来庵に移り雲水は、そこで修行しています。現在は法要・講演・展覧会などに使われています。
 この建物は江戸時代・文化十一年(一八一四)に建長寺派の寺院により再建されたものです。関東最大の法堂で、現在は千手観音を本尊としています。天井の雲龍図は建長寺の創建七百五十年を記念して、小泉淳作画伯によって描かれました。

法堂前の案内看板より

この法堂は、昔は修行僧たちが集まって住職の説法を聞いていた場所だったとされている。しかし、現在は法要や講演、展覧会などに利用されているとのこと。

釈迦苦行僧像

建長寺釈迦苦行像の説明

釈迦苦行像

 釈迦苦行像は、お釈迦様が極限の苦行・禁欲(断食)を行っているお姿を現したもので、顔に髪を生やした姿は、極めて稀であるとともに、徹底的に肉体をも痛めつけるような荒行をしていたことを表しています。
 この釈迦苦行像は、パキスタン北西部のガンダーラ文明の遺産で、ラホール中央博物館に安置されているお像をもとに製作され、2005年愛知万博に陳列された後パキスタン国より建長寺に寄贈されました。
※本仏像は、唯一パキスタン政府から公式承認され、国外への持ち出しが許可されたものです。

釈迦苦行像前の案内看板より

一見異様なお姿だが、これはお釈迦様が極限の苦行(断食)を行っている様子を表したものとされている。顔に生える髭や断食によってやせ細った体は、まさに人間らしい部分の象徴だ。とすると、とても貴重な瞬間を表現した像だ。

建長寺法堂天井画|雲竜図

建長寺雲龍図の説明

建長寺法堂天井画 雲龍図 2000年水墨画 小泉淳作1924-2012

 建長寺創建750年を記念し奉納された、縦10m×横12m (畳約80畳分)の巨大な雲龍図。約5分の1の「小下図」と呼ばれる習作を描いたのち、実際の天井画を制作。画面は48分割された麻紙で構成されています。完成後に組子と呼ばれる支持体をもって天井に組み上げられ、2002年10月30日に点眼法要が執り行われました。
 建長寺「雲龍図」の龍は5本の爪を持っています。もともと本の龍の爪は3本で、朝鮮半島では4本、そして古代中国王朝皇帝の象徴のみが、5本の爪を持つ「五爪(ごそう)の龍」とされていました。建長寺では、この最も位の高い「五爪の龍」が描かれています。また同時期に小泉画伯により制作された京都建仁寺法堂「双龍図」にも、同じく「五爪の龍」が描かれています。
 法堂天井に雲龍図が上げられるのは理由があります。もともと法堂とは住職が壇上に上がり仏教の教えである「法」を説く場所でした。そして、龍は大自然の力を秘め、雲を呼び雨を降らすと言われておりました。「法堂で住職の説法を聞く人々に “法”の雨が降りそそぎ、染み渡るように」との願いが込められて、雲龍図が掲げられているのです。

雲龍図前の案内看板より

仏殿の正面から少し離れた場所に、法堂が建っている。不思議なことに、広大な境内にあるにもかかわらず、仏殿に非常に近い位置にある。何か理由があるのだろうか?

大庫裏と唐門と本院

建長寺唐門

建長寺唐門の説明

唐門(国重要文化財)

 この唐門は、桃山風向唐破風(屋根の端の山形をなす所が、反曲した曲線状になっている破風)で漆塗りの四脚門です。透彫金具が各所に使用され、仏殿の装飾技法とよく似ています。
 寛永五年(一六二八)、東京・芝・増上寺で徳川二代将軍秀忠公夫人(お江の方・家光の母)の霊屋の門として建立。その後、正保四年(一六四七)、仏殿・西来門と共に建長寺に寄附され、方丈(龍王殿)の正門として使用。
 平成二十三年(二〇一)、解体修理がほどこされ、輝きをとりもどしました。

雲龍図前の案内看板より

この立派な唐門は、1628年、東京・芝・増上寺で徳川二代将軍秀忠の夫人「お江の方」の霊屋の門として建てられ、当時の豪華な造りを間近で見ることが出来る。増上寺の敷地内であれば恐らく間近で見ることは叶わないだろうから、とてもありがたい。また、東京に建てられたままであれば大空襲で焼失した可能性もあるので、移築されたことにより今その姿を見ることが出来るというのは奇跡ではないだろうか。

建長寺方丈(龍王殿)

この建物も総門と同じく京都の般舟三昧院はんじゅざんまいいんより1940年に移築されたもの。
この規模の建物を移築するのは、非常に大変な作業であることは想像に難くない。さぞかし大事業だったのだろうなあ。

方丈内部

拝観無料とのこと。見ない手はない、レッツラゴー♪

建長寺の火灯窓(かとうまど)

この形の窓のことを「火灯窓かとうまど」といい、禅宗様の窓として使われているそう。
我が家にも欲しいデザインだ。

広い!

方丈側からみた唐門。裏側も、もちろん金色。

建長寺方丈(龍王殿)の説明

方丈(龍王殿)

 方丈とは本来住持が居住する場所です。現在は法要・坐禅・研修の場所として使われています。
 この建物も、総門と同じく京都・般舟三昧院より昭和十五年に移築されました。
 建物は享保十七年(一七三二)の建立で、元は皇室のお位牌を安置するためのものでした。

方丈前の案内看板より

これより先は立ち入り禁止。いつもこういった場所には圧倒される。

建長寺方丈庭園

この庭も蘭渓道隆が作ったとされ、創建当時からのものである。

建長寺庭園(蘸碧池)の説明

庭園(国史跡)

 蘸碧池を中心とする庭園は開山大覚禅師(蘭渓道隆)の作庭。創建当時よりあります。寺院の池は寺の前にあるのが普通ですが、建長寺は最奥に位置します。
 この池のまわりには、得月楼・大客殿・方丈などがあり、檀那や貴賓の応接に用いられました。
 創建七百五十年を記念して平成十五年に大改修をして現在に至っています。
 東側の総二階の建物は得月楼と称し、創建七百五十年を記念して平成十四年に建設されたものです。
 蘸碧池とは緑の木々の色が青い水にひたって輝いていることを表しています。

庭園前の案内看板より

通路に腰掛ける椅子があるので、しばし庭を眺めながら休憩・・。この椅子があるおかげで、疲れが癒されるのでとてもありがたい。

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おしまい

アクセス

住所

所在地神奈川県鎌倉市山ノ内8
最寄駅「JR横須賀線 北鎌倉駅」下車 徒歩17分
駐車場情報専用の有料駐車場あり
公式サイトhttps://www.kenchoji.com/

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