お寺の紹介
- 807年(大同2年)に「最澄」が天台宗の寺院として創建
- 1479年(文明11年)、京都妙満寺の「十世日遵上人」により顕本法華宗に改宗へ改宗
- 上総国土気城主「酒井定隆」の援助を受ける
- 1941年、日蓮宗・本門宗と合同
- 第二次大戦後、日蓮宗から独立し「顕本法華宗」となり、1954年には単立寺院となる
- 1703年(元禄16年)から6年かけて、八鶴湖畔から現在の位置へ移築
- 当時のべ1万人あまりが従事
- 移築時、江戸浅草にあった観音像の古材を譲り受け、本堂の丸柱40本に使用したと伝わる
- 鷹狩り中「徳川家康」が訪れ、当時の住職「日善上人」と親交を深めたと言われる
- 日善上人は、後に家康から駿府城に招かれた
- 江戸時代には幕府から朱印状が与えられていた
- 2011年の東日本大震災で被災し、傾いた本堂が2013年に修復される
正式名称
安國山 最福寺
創建・開基
807年(大同2年)|最澄
宗派
日蓮宗系
御本尊
一塔二尊四師
御朱印
中央に「南無妙法蓮華経」と記載。訪問時はコロナ禍のため書置きのみの授与となった。
御朱印所について
大黒殿にて購入
みどころ
門前に広がる「八鶴湖」
お寺の目の前にある東金八鶴湖! 天気も良く眺めは最高♪
日蓮宗のお題目の石碑と寺号標柱
日蓮宗の特徴でもある髭題目。大きな石碑には[南無妙法蓮華経]と彫られている。
こちらが山門。入口の大きな石には「安國山 最福寺」と彫られてる。
本堂へと続く階段
門をくぐるとさっそく急な階段が現れる。もちろん頑張って登る。
結構上にあるのね…
家康公と並んだ日善聖人像
本堂に向かう途中に見えてきたのがこの像。
家康公と日善上人とある。 どれどれ??
- 家康公と日善上人
- 一六一三|家康公七十二才
-
十二月
来春上総東金で鷹狩りの指示。
船橋→東金まで直線で平坦な道路三十七キロメートル、御殿中間点中田村、東金の八鶴湖畔各一箇所造成命ず。 - 一六一四|家康公七十三才
-
一月八~十七日
鷹狩りの鶴・白鳥など収穫多数。十四日
雨のため狩りは中止、八鶴湖の対岸の西(最福寺住職日善上人と御殿内で対談。お互いに通い合うものを認識。九月二十日
駿府記や台徳院実紀に記録あり。家康公は、東金から日善上人を駿府城 (静岡)に招き二人だけで密談。
この銅像はその場面の想像図。家康公|「大坂方の豊臣家は自分にとっては恩人であり、御主人方にあたる。とりつぶすのは人間として忍びない。」
日善上人|「家康様、お気持ちはわかりますが、 民のこと、国全体の将来のことを考えますと、心を鬼にして決断されるのは『今』しかありません。」
(十日後) 十月一日
豊臣征伐を決定し諸大名に出陣を命ずる。十一月十九日~十二月二十一日
大阪冬の陣 - 一六一五|家康公七十四才
-
五月六日~八日
大坂夏の陣 淀君、秀頼自害。豊臣家は大坂落城とともにすべてを失い、血筋も根絶やしになる。十一月十七日~二十四日
東金で二回目の鷹狩り
大坂の陣直前に縁起の良いや白鳥を多く収穫できたことが精神の支えになったこと。また幕府の長期的な安泰と、自らの長寿の願いとお礼を込めて、再度の鷹狩りを実施したものと思われる。 - 一六一六|家康公七十才
-
四月十七日
家康公駿府城で没す。 - 一八六七|
-
十二月
十五代将軍慶喜 大政奉還
江戸幕府により二百六十年余の間、争いのない安らかな国家が続いたのである。家康公、日善上人の出会いが基になったのかと考えると、この像にそっと頭を下げたくなる。
四百年たった今、平和の尊さをしみじみと思い、建立した。平成十年三月 三十七世 日俊
作者 日展会員 上野弘道氏
徳川家康と日善上人との関りについて解説している看板。
鷹狩りでつかの間対談した日善上人が、家康の晩年を大きく左右したことがわかる。どのような対談だったのだろう。
家康と密談している様子を石像にしたとのこと。歴史が動く瞬間を切り取ったものになる。面白い。
坂道の上に見えてきた本堂
急な坂道を息を切らしながら登り、ようやく到着。
こちらの本堂は、807年に日本天台宗の祖「最澄」により創建されたという歴史あるお寺。
なお最澄と言うと天台宗であるが、1479年に当時の住職が法華宗に改宗。現在は日蓮系の単立本山とのこと。
本堂の中はこんな感じ。金ぴかである。
「切られ与三郎の墓」
切られ三郎のモデルになった 四代目伊三郎の墓。
切られ三郎のモデルになった 四代目伊三郎の墓
芳村伊三郎の名は、江戸長唄の名家で、現代まで製名され続けています。
四代目伊三郎は、このお寺から南西四キロの清名幸谷の紺屋の中村家の二男として寛政十二年(一八〇〇年) に生まれました。名を中村大吉といい若い頃から長唄に親しみ、その美声と男ぶりは近隣でも有名だったようです。
大吉は長じて木更津で型付職人として腕を磨き、年季が明けて清名幸谷に帰兄の紺屋を手伝けしておりました。根が好きな長唄を唄うために家からキ口ほどの東金と大網の中の新堀の茶屋に足しげく通っておりました。そこで見そめたのが茂原生まれのきち(お富のモデル)でした。
しかし、きちには近くの堀畑の親分山本源太左衛門という旦那がいたのです。美男美女の間柄はすぐに親分に知られました。若い二人は勝手知った木更津に逃げましたが、子分達に追われ大吉は切り刻まれむしろに巻かれて海に投げ込まれました。しかし、奇跡的に漁師に助け上げられたのでした。一方きちは連れもどされ、すぐに江戸に売られてしまいました。
後年江戸へ出て唄方となった大吉は、四代目伊三郎を襲名しましたが、若い日の仕打で受けた顔から身体中の数十のが八代目団十郎の目にとまり、鶴屋南北の門下、三世瀬川如阜に伊三郎、おきちをモデルに人物名、地名などを含その筋書き、おもしろおかしく善玉、悪玉を誇長して書きあげさせました。
それが「富与三郎」で知られる歌舞伎狂言【与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)】なのです。
五代目伊三郎は、東金の岩崎の秋山嘉吉さん方で、明治十五年に亡くなり、師の墓の隣りにという遺言で、葬儀も当寺で営み、過去にも残っております。東金のお祭りのおはやしは、この五代目の長唄の影響を受けた珍らしいリズムです。
お墓は当初三十メートル先にありましたが戦前、秋の豪雨で崩れました。戦後歌舞伎役者、当市有志のきもいりで、この地点に新し建てかえられたものです。
境内には大きな石碑が多く並んでいた。歴史のあるお寺なのだろう。
「聖徳太子像」を祀る太子堂
古びたお堂を発見し、よく見てみると聖徳太子を祀る「太子堂」というものだった。
字が薄れているが「聖徳太子像」の文字が見て取れる。
お堂の中には「聖徳太子像」が安置されていた。
大黒殿
こちらのお堂は、大黒天を祀っている。開運の御利益を期待したい。
奥には八鶴湖が見えるいい場所。
日蓮聖人の像が迎えてくれる。
大黒天像
大黒天像は、安国山最福寺にあり、「東金町誌」に、寺宝として「大黒天像伝運慶作、品親王台徳院殿尊信の「像」と記されている。
最福寺内の大黒天堂に安置されているが、像高は七十センチ、橙色に着彩の米俵の上に蓮の葉を敷き、その上に立つ。
銅色にぬられた木造である。参詣者をじっと見つめる目は厳しくもあるが穏やかさも秘めている。又、その目は玉眼で、成立年代、技法の高度なことを物語っている。
「大黒天」という仏は、梵語の「摩阿迦羅」で訳して「大黒天神」というそうであるが、三法を愛し、五界を守り、飲食を豊にする厨の神であると同時に、久成如来で貧しい衆生大福をもたらす菩薩としてあがめられ、古来より、東金住民の厚い信仰をうけている。
運慶は、鎌倉時代の仏師として名高く、運慶作の東大寺南大門仁王東方金剛力士像や、東大寺の四天、辰巳方多門天、東福寺の山門、六羅漢等々は国宝又は重要文化財とされている。
東金市教育委員会指定第四十七号
平成五年十月一日指定
日蓮聖人「思親の像」
故郷を思い 父母を懐かしむ
日蓮大聖人が身延山より はるかに生まれ故郷である 房州小湊の両親に 心ゆくまで追孝の誠をお寄せになるお姿
大聖人は法華経に身をささげ 広めるために波乱の多かった生涯の中でも 喜びにつけ 悲しみにつけ 父母の慈愛に感謝し追懐め情を持ち続けられたのであります
開目鈔
孝と申すは高なり 天高けれども 孝より高からず 又 孝とは厚なり 地あつけれど 孝よりは厚からず
昭和四十七年春 第三十六世 日幸 建立
聖人像台座石 身延山麓産
日蓮聖人が、身延の山より房総の両親に思いを寄せている姿を現した「思親」の像を発見。
どこかで見たことあるような・・・。
山梨県にある久遠寺でも同じ日蓮像に出会っていました!
実際の久遠寺での日蓮聖人像。
色々訪問していると、つながりがあるのが面白い。
大黒殿からの眺望
アクセス
住所
所在地 | 千葉県東金市東金1693 |
最寄駅 | JR外房線東金駅下車、徒歩7分 |
駐車場情報 | 無料駐車場あり |
公式サイト | http://saifukuji-togane.org/ |
GoogleMap
ご当地グルメ
世界一小さなチョコレート工場
千葉県茂原市の「あられちゃんち」というお店が展開している、チョコレート菓子専門のお店。「あられちゃんち」自体は、お煎餅をはじめとした色々なお菓子の直売所となっている。このお煎餅類を利用して「世界一小さなチョコレート工場」では、店内の小さな製造工場でチョコレート菓子を製造・直売している。お店を訪れるタイミングによっては、お買い得な商品を発見できることもあり、東金市に行ったら必ず立ち寄るところ。柿ピーがおいしいので、一度試して頂きたい。