富岡八幡宮の御朱印|深川の八幡様・富岡八幡宮:江戸最大のパワースポットと相撲の聖地を巡ってきた(東京都 門前仲町)

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「深川の八幡様」として親しまれ、江戸最大の八幡様として親しまれている。江戸勧進相撲発祥の神社として有名で、境内には「横綱力士碑」をはじめ大相撲ゆかりの石碑が多数建立。徳川将軍家の手厚い保護も受けていた。江戸三大祭りの一つ「深川八幡祭り」も、ここで開催される。境内には「日本一」のお神輿が保管されており、ガラス張りなので外からいつでも見ることが出来る。

参拝日:2023年1月30日

目次

神社の紹介

  • 歴史
    • 1627年(寛永4年)、菅原道真公の末裔「長盛法印」が神託を受け創建
      • 現在の東京都江東区深川にあった小島「永代島」に創られ「永代嶋八幡宮」と呼ばれた
      • 同じ地に別当寺院として「永代寺」も建立
    • 周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地60,508坪を開いた
      • 門前町が形成され、規模が大きくなるにつれ商業地として発展していった
        • 現在の「門前仲町」
    • 江戸時代、「徳川将軍家」の手厚い保護を受ける
    • 「深川の八幡様」として親しまれ、江戸最大の八幡様として信仰を集める
    • 広く美しい庭園があり、名所としても人気だった
    • 明治維新後「准勅祭社」として定められ、朝廷から「幣帛」を受ける
    • 「永代寺」は明治の神仏分離令により廃寺
      • 現在の永代寺は1896年(明治29年)に旧永代寺の塔頭である「吉祥院」が名前を継いだもの
  • 神社の特徴
    • 江戸最大の八幡宮で、8月に行われる「深川八幡祭り」は江戸三大祭りの一つ
    • 江戸勧進相撲発祥の神社
      • 境内には「横綱力士碑」をはじめ、大相撲ゆかりの石碑が多数建立されている
  • 相撲とのかかわり
    • 1684年(貞享元年)、寺社奉行の許しを得て勧進相撲が行われた
      • いわゆる「江戸勧進相撲」発祥の神社
    • 新横綱誕生の際には、境内で横綱力士碑刻印の儀や奉納土俵入りなどの式典が行われる
    • 相撲にまつわる数々の石碑が境内に建つ

正式名称

 富岡八幡宮

社格

 旧府社

御祭神

 主祭神|応神天皇「八幡神」

御朱印

御朱印所について

 本殿向かって右側の御朱印受付所にて御朱印を頂く。

富岡八幡宮の案内図

みどころ

富岡八幡宮の社号標柱

東京の門前仲町にこんなにも広大な境内があるとは
この入口の様子から、とても立派な神社であることが分かる。参拝が楽しみ♪

相撲と富岡八幡宮

鳥居をくぐり、先ず右手に見えてくるのが「大関力士碑」。
大きな石碑が並んでいるのですぐに分かる。

大関力士碑

大きな力士碑に圧倒される。

こちらが「大関力士碑」。
当時の力士の身長が刻まれた「巨人力士慎重碑」も立っている。

とてつもなく大きく、当時巨人力士として活躍した226cmの「釈迦ヶ獄雲右ェ門」らの名前と身長が彫り込まれている。
「釈迦ヶ獄雲右ェ門」は松平家お抱えの力士だったそう。最強のボディーガードだ!!

釋迦ヶ嶽等身碑

この等身碑は、身長七尺五寸(二二六センチ)の巨人力士として活躍した釋迦ヶ嶽雲右ェ門(しゃかがたけくもえもん)の十三回忌追善として、天明七年(一七八七)に建立されました。釈迦ヶ嶽は寛延二年(一七四九) 出雲国(島根県)に出生し、松平家のお抱え力士として大阪で初土俵。明和七年(一七七0)には江戸に進出し、江戸在場所中の成績は二十三勝三敗二分と高い勝率を残しましたが、惜しくも安永四年(一七七五)、二十七歳の若さで逝去しました。

参照|釋迦ヶ嶽等身碑前の案内看板より

横綱力士碑

本殿の裏手側にも、とても大きな石碑が立っている。
「横綱力士碑」と彫り込まれている。
これは横綱の功績と相撲の歴史を後世に伝えるために、江戸時代最後の横綱である「陣幕久五郎」が中心となり建てたとのこと。
江戸幕府が初めて江戸での勧進相撲を認めたのが、富岡八幡宮の境内であると伝えられている。

「勧進相撲」とは?
勧進相撲は神社や寺の修復費用を集めるための相撲興行として戦国時代に始まった。興行が元でトラブルが多発したため後に禁止されたが、徳川家の厚い保護を受けていた「富岡八幡宮」が寺社奉行の許しを得る形で再開。現在の大相撲の基礎となった。2024年には、能登半島地震の復興支援のために行われた。

江東区指定有形文化財(歴史資料)
横綱 力士碑

陣幕・不知火顕彰碑二基 日月石寄附碑 地固め寄附碑
土台石垣 魚かし石柱二本 土台下玉垣
富岡一ノ二〇ノ三 富岡八幡宮

 この横綱力士碑は、横綱の顕彰と相撲の歴史を伝えるため、江戸時代最後の横綱第十二代陣幕久五郎が中心となり、明治三十三年に建てられました。
 古くから庶民に親しまれてきた相撲は、江戸時代には幕府公認の勧進相撲(寺社修復などを目的に実施)へと発展し、大坂・京・江戸で興行として開催されました。幕府がはじめて江戸での勧進相撲を認めたのは、貞享元年(一六八四)の富岡八幡宮境内でした。その後、明和年間(一七六四~七一)には、春・秋二場所のうち一場所がこの地で開催され、享和元年(一八〇一)までに本場所三十一回を数えました。その意味で、富岡八幡宮は江戸勧進相撲の発祥地といえます。
 偉容を誇る横綱力士碑は、同時期に建てられた陣幕・不知火顕彰碑や周辺の石造物(魚かし石柱、土台下玉垣は大正末ごろ)とともに、相撲と地域のつながりを示す貴重な文化財です。

平成十六年二月 江東区教育委員会

参照|横綱力士碑前の案内看板より

伊能忠敬像

鳥居をくぐってすぐ左側には伊能忠敬の銅像が目に入る。
日本地図の始祖である伊能忠敬は、自身の事業引退後、現在の東京都門前仲町に隠宅を構えていたのだそう。富岡八幡宮が近くだったこともあり、日本測量の旅に出る前には必ず富岡八幡宮に参拝して、成功を祈願したと伝えられいる。

伊能忠敬銅像

 近代日本地図の始祖である伊能忠敬先生は、事業に成功したあと五〇歳のとき江戸に出て、当宮近くの黒江町(現在は門前仲町一丁目)に隠宅を構えていました。
 約二〇〇年前の寛政十二年閏四月十九日(陽暦では一八〇〇年六月十一日)の早朝に当宮に参拝して蝦夷地(北海道) 測量の旅に出かけました。
 忠敬先生はこのときを含めて全部で一〇回の測量を企画しましたが、遠国に出かけた第八回までは出発の都度必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣して、無事を祈念したのち、千住、品川宿など測量開始地点に向かって歩き出しました。当宮は伊能測量にとってたいへん御縁の深い場所であります。
 伊能測量開始二〇〇年にあたり、「伊能ウォーク」、地図・測量、土地家屋調査士、伊能忠敬研究会などの関係者が中心となって、広く一般から浄財を公募して建立されました。
 
 平成十三年十月 伊能忠敬銅像建立実行委員会

参照|伊能忠敬銅像前の案内看板より

なんと伊能忠敬先生が門仲に住んでいたとは!!きっとお正月にも参拝にきていたのだろう。

日本一の黄金神輿

富岡八幡宮の例祭が毎年8月15日を中心に行われ、「深川八幡祭り」とも呼ばれている。これは、赤坂日枝神社の山王祭・神田明神の神田祭とともに「江戸三大祭」の一つとして数えられている。

53基の街神輿が勢揃いし、八幡宮の「御鳳輦」が渡御を行う年は本祭りと言われ、見ることが出来るのは3年に1度のことだそう。
写真の宮神輿は、平成3年に奉納された日本一の黄金大神輿と言われている。関東大震災により、当時3基あった純金張り宮神輿が惜しくも全焼してしまい、これ以降宮神輿が存在していなかったが、ようやく68年ぶりに宮神輿として奉納されたのだそう。

富岡八宮御本社神輿
(日本一の大神輿)

・当八幡宮には、江戸時代深川に屋敷のあった紀伊国屋文左衛門より三社託宣に因み八幡造り・神明造り・春日造りの三基三様の神輿が奉納され、みこし深川と云われて参りましたが大正十二年の関東大震災で惜しくもその全てを焼失してしまいました。それ以来、御本社神輿の復活は深川の念願でありましたが、平成の御世になり漸く、昔に優るとも劣らない豪華な大神輿が復活致しました。

・型の名称   屋根延神社型金地塗神輿
・台輪幅    五尺
・高さ     十四尺五寸
・重量     四・五トン(渡御時における推定)
・屋根の大きさ 最大幅十尺(蕨手装着時)
・担ぎ棒    十本(本林三本・縦添棒四本・横添棒四本)

●ダイヤモンド
 鳳凰の目(四カラット二個)鳳凰の火焔(七カラット)
 狛犬の目(三カラット 二個、一対)
 隅木の目(一カラット二個、四体)
 小鳥の目(一カラット 二個、四体)
●ルビー
 鳳凰の鶏冠(二〇一〇個)

金張りが美しいが、それだけではなくダイヤモンドルビーなどの宝石類も、ふんだんに使われている。超豪華な宮神輿だ。ギリギリバブル時代であった平成3年に奉納とのことだけあり、時代を感じさせる。ぜひ一度、間近で見てほしい。

「昭和天皇・救国の御決断」記念碑と「天皇陛下御野立所」石碑

御神輿の隣にあるのがこの「昭和天皇・救国の御決断」記念碑

御野立所(おのだてしょ)とは、主に天皇などの貴人が移動中に野外で休憩した場所。

昭和天皇 救国の御決断と富岡八幡宮

 昭和十九(一九四四)年十一月に、アメリカ軍による東京空襲が始まった。昭和天皇はこの年十月に靖国神社例大祭に行幸されたのを最後に、皇居から出られなかった。
 天皇は三月十日に東京大空襲が行われると、被災地を視察されたいと仰言せられた。軍は天皇の抗戦の御決意が揺らぐことを心配して強く反対したが、天皇が固執された。
 宮内省と軍が「御巡幸」の日時について打ち合わせ、三月十八日日曜日午前九時から一時間と決定された。
 御料車からボンネットに立つ天皇旗を外し、いつもは沿道に警官が並ぶが、天皇であることが分からないように、できるだけ少なくし、交通を寸前まで規制しなかった。
 御料車が永代橋を渡り深川に入ると、見渡すかぎりの焼け野原だった。
 天皇は富岡八幡宮の焼け焦げた大鳥居の前で降りられると、大達内相の先導によって、延焼を免れた手水舎の前に向かわれた。粗末な机が置かれていた。
 内相が被害状況の御説明を終えると、天皇は「こんなに焼けたか」としばし絶句されて、立ちすくまれた。
 この時に、昭和天皇は惨禍を目のあたりにされて、終戦の御決意をされたにちがいない。
 大戦が八月十五日に終結した。八月十五日は江戸時代を通じて、富岡八幡宮の例大祭に当たった。終戦は富岡八幡宮の御神威によるものだった。
 新日本の再建は、富岡八幡宮から始まった。

富岡八情室友会一同 加瀬英明


当時の悲惨な状況が浮かぶ。

願掛けの八角十二支石碑

昭和天皇記念碑の近くに、願掛けの八角十二支石碑を発見。昭和天皇の記念碑に一礼をしてから願掛けをするらしい。折角なので、祈願してきた。

鳳凰の手水舎

「天皇陛下御野立所」石碑の横には手水舎がある。

先ほどの昭和天皇御巡幸の際、「延焼を免れた手水舎の前に向かわれた。」とあるのが、この手水舎。

鳳凰型の吐水口からはセンサーで自動で水が出た。太陽の光を受けて綺麗に輝いている。

授与所

こちらでは御守等を購入することが出来る。※御朱印は本殿右にて頂けます。

御本殿

手水舎にて身を清めていざ本殿にお参りに向かう。
ここまで様々な見どころがあり、結構時間が掛ったくらい楽しい。

参拝日が1月末であったため、節分の準備が進められていた。

朱色が鮮やかな本殿である。

こちらで御朱印が頂けますよ。

中では御祈祷が行われていた。

最後に

江戸末期の建立から、激動の時代を静かに見守り続けた富岡八幡宮。相撲から終戦まで歴史を改めて振り返った参拝だった。

アクセス

住所

所在地東京都江東区富岡1丁目20−3
最寄駅「東京メトロ東西線 門前仲町駅」下車 徒歩3分
「都営地下鉄大江戸線 門前仲町駅」下車 徒歩6分
「JR京葉線 越中島駅」下車 徒歩15分
駐車場情報専用の無料駐車場あり
公式サイトhttp://www.tomiokahachimangu.or.jp/

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