お寺の紹介
- 1690年(元禄3年)、林羅山が孔子廟を造営
- 上野忍が、現在の上野恩賜公園に位置した私邸内に建てた忍岡聖堂「先聖殿」に代わる
- 将軍綱吉がこの孔子廟を「大成殿」と改称し、自ら額の字を執筆
- 付属する建物を含めて「聖堂」と呼ぶように改められた
- 1691年(元禄4年)2月7日に神位の奉遷が行われ、完成
- 林家の学問所もこの地に移転
- 大成院の建物は当初、朱塗りにして青緑に彩色された
- 火災で度々焼失し、幕府の方針が「実学重視」へ転換されたことで再建が困難になった
- 「寛政異学の禁」で聖堂の役割が見直され、林家の私塾が「昌平坂学問所」となる
- 「昌平黌(しょうへいこう)」とも呼ばれ、孔子の教えを学べる学校として有名になる
- 1799年(寛政11年)に湯島聖堂の大改築が完成し、敷地面積も拡大
- 大成殿の建物も黒塗りに改められ、規模も創建時の2.5倍まで拡大された
- 明治以降もこの大成殿は残存していた
- 多くの人材が集まったが、明治維新後の新政府は1871年(明治4年)に昌平学校を閉鎖
- その後、文部省や国立博物館と共に、東京師範学校・東京女子師範学校を設置
- 教育・研究機関としての昌平坂学問所は、後の東京大学へと繋がる
- 幕府天文方の流れを汲む「開成所」「種痘所」も共に
- 1870年(明治3年)に、東京府中学が仮校舎として設置される
- 学問所の跡地は、その殆どが現在の「東京医科歯科大学」湯島キャンパスとなっている
正式名称
湯島聖堂
祀られている人物
孔子
創立
1690年|徳川五代将軍 徳川綱吉
御朱印
御朱印所について
こちらの建物(斯文会館)にて御朱印を頂く。
こちらの受付で御朱印を頂ける。
湯島聖堂について
史跡湯島聖堂の説明
■湯島聖堂と孔子
孔子は、2500年ほど前、中国の魯の昌平郷(現山東省済寧市曲阜)に生まれた人で、その教え「儒教」は東洋の人々に大きな影響を与えた。儒学に傾倒した徳川五代将軍綱吉は、元禄3年(1690) この地に「湯島聖堂」を創建、孔子を祀る「大成殿」や学舎を建て、自ら『論語』の講釈を行うなど学問を奨励した。
■昌平坂学問所跡
寛政9年(1797) 幕府は学舎の敷地を拡げ、建物も改築して、孔子の生まれた地名をとって「昌平坂学問所」(昌平黌ともいう)を開いた。
学問所は、明治維新 (1868年)に至るまでの70年間、官立の大学として江戸時代の文教センターの役割を果たした。
学問所教官としては、柴野栗山、岡田寒泉、尾藤二洲、古賀精里、佐藤一齋、安積艮齋、鹽谷宕陰、安井息軒、芳野金陵らがおり、このうち佐藤一齋、安積艮齋らはこの地が終焉の地となっている。
■ 近代教育発祥の地
明治維新により聖堂は新政府の所管となり、明治4年(1871)に文部省が置かれたほか、国立博物館(現東京国立博物館・国立科学博物館)、師範学校(現筑波大学)、女子師範学校(現お茶の水女子大学)、初の図書館「書籍館」(現国立国会図書館)などが置かれ、近代教育発祥の地となった。
■現在の湯島聖堂
もとの聖堂は、4回の江戸大火に遭ってその都度再建を繰り返すも、大正12年 (1923) 関東大震災で焼失した。その後「假聖堂」を営み、昭和10年 (1935) 鉄筋コンクリート造で寛政の旧に依って再建され、今日に至っている。入徳門は宝永元年(1704)に建てられたものがそのまま残っており、貴重な文化財となっている。
湯島聖堂正門前の案内看板より
在りし日の湯島聖堂
江戸時代の湯島聖堂。手前には神田川が流れており、地理的な位置関係が現在も変わらないことが分かる。
歌川広重|名所江戸百景 昌平坂・聖堂・神田川
壁が上記の絵と同じ!!歌川広重が見ていた壁と同じ壁を今、見ている!
関東大震災後の湯島聖堂
柱の根本だけを残し、跡形もなく焼失してしまった……
東京大観 昭和10年頃の湯島聖堂
こちらはもうほとんど同じと言って良さそう。当時の人々が圧倒されたであろう建物と、たくさん踏みしめたであろう石畳だ。
みどころ
昌平坂石標
学生時代に頑張って暗記した、あの「昌平坂学問所」はここ湯島聖堂にあったのだ。
あの時、寝ずに勉強しといて良かったなあ、と思う瞬間だ。
湯島聖堂 正門より
こちらが正門とのことなので、ここからお邪魔します。
湯島聖堂のMAP
右下の赤い文字が現在地。ここから孔子廟まで向かう。
この日はエアコンの納品だったのか、業者の車でイッパイ…
湯島聖堂標柱と仰高門
それでは、これより湯島聖堂の孔子廟に向け出発!!
仰高門にある昭和11年の説明看板
湯島聖堂の説明(昭和11年当時)
説 明
寛永九年(一六三二)、尾張藩主徳川義直林道春(羅山)をして、上野忍ヶ丘に先聖殿を造営せしめしに始まる。その回祿(火災)の災に罹るや、元祿三年(一六九〇)、将軍綱吉之を今の地に移し、大成殿と稱せり。後、寛政十一年(一七九九) 大成殿及び杏壇・入徳・仰高諸門を再建し、明治維新の際、大學を此地に置くに及び、一旦孔子以下の諸像を撤去せしも、後、舊に複せり。
建造物は暫らく東京博物館の一部に充てたりしが、大正十二年(一九二三)九月一日、関東大震災の為、入徳門・水屋等を除くの外、悉く焼亡せしを昭和十年(一九三五)四月四日鐵筋混凝立構造に依りて原型に復せり。昭和十一年三月
文部省
仰高門の裏にある案内看板より
湯島聖堂 孔子銅像
仰高門を抜け、少し歩くと「孔子銅像」の姿が見えてくる。
近くで見ると、意外と大きい。造りはまだ新しい印象。
像の手前に案内看板があるので見てみよう。
楷樹の由来の説明
楷樹の由来
楷 かい
学名 とねりばはぜのき うるし科
楷は曲阜にある孔子の墓所に植えられている名木で、初め子貢が植えたと伝えられ、今日まで植えつがれてきている。枝や葉が整然としているので、書道でいう楷書の語源ともなったといわれている。
わが国に渡来したのは大正四年、林学博士 白澤保美氏が曲阜から種子を持ち帰り、東京目黒の農高試験場で苗に仕立てたのが最初である。これらの苗は当聖廟をはじめ儒学に関係深い所に頒ち植えられた。その後も数氏が持ち帰って苗を作ったが性来雌雄異株であるうえ花が咲くまでに三十年位もかかるため、わが国で種子を得ることはできったが、幸いにして数年前から二三個所で結実を見るに至ったので、今後は次第に孫苗がふえてゆくと思われる。
中国では殆んど全土に生育し、黄連木黄連茶その他の別名も多く、秋の黄葉が美しいという台湾では燗心木と呼ばれている。牧野富太郎博士はこれに孔子木と命名された。
孔子と楷とは離すことができないものとなっているが、特に当廟にあるものは曲阜の樹の正子に当る聖木であることをここに記して世に伝える。
昭和四十四年己酉秋日 矢野一郎 文
平成二十年戊子秋日 松川玉堂 書
孔子銅像前にある案内看板より
こちらが楷の葉だ。普段の生活圏では見かけることのない木で、今回調べて初めてその存在を知った。
綺麗に並んでいる葉は見ていても気持ちが良い。
確かに綺麗に並んでいる。文字が整然と並ぶ様子を木の葉に例えるとは、何とも風流だ。
孔子についての説明
孔子は、紀元前551年に中国の山東省、かつて魯と呼ばれる国の昌平郷陬邑(しょうへいきょう すうゆう)で生まれる。
孔子は苦しい幼少期を送りながらも、勉学に励み、役人として働きながら教育活動を行う。50歳を過ぎ魯の宰相代行として数々の改革を試みるも失敗。
その後は『徳』によって世の中を治めようと試みましたが、当時の世の中との考え方とは異なっていた(国益であれば悪も正とする考え)ため、孔子が生きているうちは孔子の思想を理解を得ることが出来ずにいた。
孔子の教えは弟子によって『論語』としてまとめられ、後世に大きな影響を与えることになった。
雰囲気の良い道を発見。都会の喧騒から少しだけ遮断され、静かな歩道を辿るだけでも気持ちが落ち着く。
湯島聖堂 入徳門
この立派な門は「入徳門」。
こちらは江戸時代から残る遺構で、関東大震災に遭っても倒壊を免れ、今にその姿を残している。
真っ黒に輝く像の彫刻が兎に角カッコイイ。訪れた際にはお見逃しなく!
湯島聖堂 手水舎
手水鉢はロープで囲われており、現在は使用できない様子。残念。
見えて来た立派な門は「杏壇門」だ。日本にはない造りである。
階段の上からみた入徳門。
湯島聖堂 大成殿(孔子廟)
階段を登ると、ドーーンと間近に迫る杏壇門。これはこれは立派な門だ。当時はたくさんの人がここへ足を運んだことだろう。
孔子を祀っている聖堂と言うことで、門の両サイドには多くの「合格」を祈願する絵馬が掛けられていた。
肝心の「大成殿」は、固く扉が閉ざされていた…。なーんにも見えん。
湯島聖堂 説明パネル
湯島聖堂 ・ 昌平坂学問所の説明
湯島聖堂 ・ 昌平坂学問所
徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690) 湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。これが現在の湯島聖堂の始まりです。その後、およそ100年を経た寛政9年 (1797) 幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(通称「昌平黌」) 」を開設しました。
明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管するところとなり、当初、学問所は大学校・大学と改称されながら存置されましたが、明治4年 (1871) これを廃して文部省が置かれることとなり、林羅山以来240年、学問所となってからは75年の儒学の講筳は、ここにその歴史を閉じた次第です。 次いでこの年わが国最初の博物館 (現在の国立東京博物館)が置かれ、翌5年(1872)には東京師範学校、我が国初の図書館である書籍館が置かれ、7年 (1874 ) には東京女子師範学校が設置され、両校はそれぞれ明治19年 (1886)、 23年 (1890) 高等師範学校に昇格したのち、現在の筑波大学、お茶の水女子大学へと発展してまいりました。このように、湯島聖堂は維新の一大変革に当っても学問所としての伝統を受け継ぎ、近代教育発祥の地としての栄誉を担いました。
大正11年(1922) 湯島聖堂は国の史跡に指定されましたが、翌12年(1923) 関東大震災が起こり、僅かに入徳門と水屋を残し、すべてを焼失いたしました。この復興は斯文会が中心となり、昭和 10 年 (1935) 工学博士東京帝国大学伊東忠太教授の設計と(株)大林組の施工により、寛政時代の旧制を模し、鉄筋コンクリート造りで再建を果しました。この建物が現在の湯島聖堂で、昭和 61 年度 (1986) から文化庁による保存修理工事が、奇しくも再び(株)大林組の施工で行われ、平成5年(1993)3月竣工いたしました。
昭和10年(1935)の再建から70年余を経過した諸門 (仰高門・入徳門・明神門) や参道は傷みが激しく、繁茂した樹木による建造物への悪影響が顕著となり、文化庁・東京都・文京区から補助金を得て、平成18年度より3ヶ年計画で昭和10年当時に戻す 「修復」 工事 (「湯島聖堂改修釈奠復活百周年記念事業」) を行い、平成21年 (2009)3月に竣工いたしました。
湯島聖堂回廊の説明パネルより
湯島聖堂と斯文会の説明
湯島聖堂と斯文会
斯文会は、明治13年 (1880) 東洋の学術文化の興隆を意図した岩倉具視が、谷干城らとはかって創設した 「斯文学会」を母体とし、これが発展して大正7年 (1918) 財団法人斯文会となったもので、孔子祭の挙行、公開講座の開講、学術誌 『斯文』の発行などを中心に活動を行ってまいりました。 関東大震災で焼失した湯島聖堂についても斯文会が中心となって聖堂復興期成会を組織し、全国に募金を展開して昭和10年 (1935) 再建を果し、その建物を国に献納、国はその管理を斯文会に委託いたしました。昭和31年(1956) 、新たに制定された文化財保護法に基づき、改めて本会は史跡湯島聖堂の管理団体に指定されております。
このような次第で斯文会の事業活動の第一は、史跡湯島聖堂の歴史環境をいっそう整備し維持管理に万全を期するとともに、これを公開活用して江戸時代以降聖堂が果たしてきた役割を社会一般に認識していただくことにあります。
湯島聖堂回廊の説明パネルより
帰りは西門から出られるので、入口まで戻る必要はない。
まとめ
湯島天神とは違う場所に建っており、なかなか行くことも無かった「湯島聖堂」。どんな所かあまり把握せずに訪ねたが、日本の学問の歴史に触れることができて、なかなかに面白かった。
「湯島」という名がついてはいるが、御茶ノ水駅からすぐの場所にあるので、近くを通りがかった際は足を運んでみるのも良いと思う。
アクセス
住所
所在地 | 東京都文京区湯島1丁目4−25 |
最寄駅 | 「東京メトロ御茶ノ水駅」下車 徒歩4分 「JR御茶ノ水駅」下車 徒歩5分 |
駐車場情報 | 専用の駐車場なし |
公式サイト | http://www.seido.or.jp/index.html |
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