お寺の紹介
- 鎌倉時代に日蓮宗の祖「日蓮大聖人」が最初に開いた日蓮宗大本山「五勝具足」の霊場
- 「五勝具足」とは5種の縁起を備えた寺の意で、日蓮の手によって開かれたことを表す
- 「授法の発初」「精舎の最初」「寺号の発軫(発心)」「本尊仏像造立の最初」「説法権与の最初」
- 「五勝具足」とは5種の縁起を備えた寺の意で、日蓮の手によって開かれたことを表す
- 鎌倉時代の一般的な仏教に否定的な日蓮は鎌倉を追放される
- 今の千葉県中山の大名によって守護され、千葉県内で発展
- 鎌倉大名や他の仏教徒から敵視されていた日蓮は、旅の途中で襲撃され負傷
- 瀕死の重傷を負うも、眼前に「鬼子母神(インド仏教の神)」が突如現れ命を救われる
- 法華経寺にて、鬼子母神への信仰を開眼
- 法華経の修行者から守護神として信仰される
- 毎年11月11日~翌年2月10日まで、100日間に亘り「日蓮宗大荒行堂」が開かれる
- 毎年全国から100名の僧侶が自ら志願し、修行に挑む
- 日蓮宗大荒行を終えた僧侶だけが、日蓮宗のご祈祷を行える
- 厳しい修行の内容
- 麻の清浄衣(死に装束)を着て、素足で過ごす
- 食事は朝夕2回の白がゆのみ
- 外部との接触は一切禁止(電話やテレビ、新聞など)
- 毎朝2時起床
- 身を清める水行を1日7回
- お堂で読誦と写経
正式名称
正中山 中山法華経寺
創建・開基
1260年・日常聖人(富木 常忍)
宗派
日蓮宗
御本尊
十界曼荼羅
お題目
南無妙法蓮華経(なむ みょうほうれんげきょう)
御朱印
御朱印所
鬼子母大尊神堂の中に寺務所があり、御朱印はこちらで頂ける。※鬼子母大尊神堂の御朱印
中山法華経寺 境内案内図
境内のど真ん中に大きな祖師堂がある。ここが本堂なのか!
敷地はかなり広く、楽しみである。
中山法華経寺 案内看板
法華経寺の説明
日蓮宗大本山 法華経寺
正中山法華経寺は、祖師日蓮の足跡がみとめられる日蓮宗の霊跡寺院・大本山です。
中世、この地は八幡荘谷中郷と呼ばれ、下総国守護千葉氏の被官である富木常忍と太田乗明が館を構えていました。彼らは曽谷郷の曽谷氏とともに、日蓮に帰依してその有力な檀越となりまた。時に鎌倉時代の中期、建長年間(一二四九~五五)頃のことです。
彼らの館には持仏堂が建立され、のちにそれが寺院となったのが法華経寺の濫觴です。若宮の富木氏の館は法華寺、中山の太田氏の館は本妙寺となり、当初は両寺が並びたって一寺を構成していました。この両寺が合体して法華経寺と名乗るのは、戦国時代の天文十四年(一五四五)以後のことです。
富木常忍は出家して日乗と名乗り、法華経寺の初代貫主となり、二代目は太田乗明の子日高が継ぎました。そして千葉胤貞の猶子である日祐が第三代貫主となった鎌倉末期から南北朝期ごろ、法華経寺は隆盛の時代を迎えます。千葉胤貞は当時、守護ではありませんでしたが、千葉氏の有力な一派として威をはり、下総・肥前などの土地を寄進して、日祐の後押しをしています。日祐は胤貞の亡父宗胤の遺骨を安置し、名実ともに法華経寺を胤貞流千葉氏の氏寺とし、その後の法華経寺の基礎をつくりました。その後、室町時代をへて江戸時代に至ると、ひろく庶民にまで信仰される寺院となります。
法華経寺には、祖師日蓮の書いた「立正安国論」「観心本尊抄」の国宝や重要文化財をはじめとして多数の聖教(仏典)類が保管されています。これは千葉氏のもとで文筆官僚の任にあたっていた日常が熱心に整理保存に意をそそいで以来、寺内の宝蔵や坊で厳重に保管されてきた結果です。現在は境内の奥の堅牢な聖教殿で保管されており、その伝統はいまも確かに受け継がれています。
また、日蓮自筆の聖教の裏からは、鎌倉時代の古文書が発見されました。これを紙背文書といいます。これは富木常念が提供した千葉氏関係の事務書類を、裏返して著作の料紙として日蓮が使用した結果、偶然のこされたもので、歴史に残りにくい人身売買や借金の実態など、当時の東国社会の生々しい現実を知る貴重な資料となっています。
寺内にはその他、重要文化財の法華堂・祖師堂をはじめとする堂舎、絵画や古記録・古文書などの数々の文化財があります。また周辺には日蓮が鎌倉にむけて船出したという二子浦(現船橋市二子周辺)の伝説など、日蓮にまつわる伝説も豊富に残されています。
これらにより大本山としてはもちろん、さながら文化財の宝庫として、法華経寺の名は全国に知られています。
市川市教育委員会
中山法華経寺 境内の案内看板より
みどころ
中山法華経寺 参道
京成線の「京成中山」駅から伸びるこの参道は、昔ながらの街並みを彷彿とさせる。
わりと車も通る道なので、歩く際は注意が必要。
法華経寺 総門(黒門)
こちらが中山法華経寺の総門。全体が黒塗のため、「黒門」と名がついたのだそう。
法華経寺黒門の説明
大本山 法華経寺 黒門 附扁額
この門は法華経寺の総門で、全体が黒塗りとなっているため黒門と呼ばれています。建立年代は明確ではありませんが赤門(仁王門)の創建と同じ、江戸時代の初期頃と考えられます。
門の型式は高麗門(こうらいもん)と呼ばれる形式で、四角の本柱二本と丸い控柱二本で構成され、本柱の上には細長い切妻屋根を掛け、本柱と控柱の間にも一段下げて直角に切妻屋根を掛けます。もともと高麗門は城郭の外門に設けられたので板扉が付けられますが、黒門には門扉が付いた痕がなく、当初から吹き通しの門でした。
建立後、度々の修理が行われましたが、これは控柱が掘立で五〇年程度での取替えが必要なこと、屋根葺替えや塗装が主なる修理内容です。本柱など本体構造は当初の状態で残っています。
なお、正面中央に掛かる扁額は掛川城主太田資順の筆で、裏面に寛政五年(一七九三)の刻銘があり、門の附指定です。全体に彩色が施され、文字は浮彫りになっています。
如来滅後
閻浮堤内
本化菩薩
初轉法輪
法華道場
平成二十一年七月より十七か月を要して解体修理を施し、基礎を新たにコンクリート造に改め、控柱を取替えて従来の掘立柱を継承した。また、屋根の銅板を葺替えたほか、腐朽していた木鼻等を取替えて塗装を塗り替えた。併せて扁額の修理も施した。
大本山法華経寺
市川市教育委員会
中山法華経寺 黒門前の案内看板より
扁額の文字は、左から「如来滅後 閻浮堤内 本化菩薩 初轉法輪 法華道場」と書かれている。
とても立派な門だ。
黒門を抜け、さらにてくてくと参道を進む。
と、見えて来たのが・・・
食べ歩きグルメ「肉の富田屋」
いい香り漂う揚げ物屋さん「肉の富田屋」を発見!!
絶対美味しいだろうと確信し、お腹も空いたので即購入。
チーズ入りハムカツ。しっかりとした厚みのハムにチーズが挟まれた、ボリューミーな一品。
とても美味しかった。今思い出しても食べたくなる~!!
他にもチキンの照り焼きやから揚げなど、美味しそうなものが並んでいた。
ハムカツチーズだけでは物足りず、から揚げも追加で購入。これもまたジューシーで大きくて、めちゃくちゃ美味しかった。通りがかりの際には是非立ち寄っていただきたいお店だ。
さて、気を取り直して参道を進むと、おっ!見えて来た。
結構大きな山門が姿を表す。これは、お寺自体も大きそうだ。
中山法華経寺 山門
参道の先に見えて来たのがこの山門。または仁王門とも呼ばれている。
先ほどの黒門に対して、こちらは赤門とも呼ばれていたとのこと。昔は朱塗りの建物だったのだろう。
中山法華経寺 ひげ題目の標柱
日蓮宗のお題目である「南無妙法蓮華経」が書かれている。
この特徴的な書き方は「ひげ題目」と呼ばれている。
日蓮宗系のお寺では、このお題目を御朱印として頂くことが出来る。ただし、お題目専用の帳面が必要。
御朱印とお題目の違いについて
日蓮宗系のお寺では、御朱印とお題目の考えがきちんと分けて考えられている。このため、日蓮系のお寺で御朱印やお題目を頂く場合には、「御朱印帳」と「お題目帳」に分けてお願いすると良い。
お寺さんによっては、御朱印帳に書いてくれることもあるが、御朱印帳にお題目を書いて頂くことは基本不可と考えた方が良い。
中山法華経寺 山門の扁額
山門の扁額には「正中山」と書かれている。
この文字を書いたのは、江戸時代の三筆「本阿弥光悦」と言われている。
なるほど、そう思うと、正の字の崩し方がさすが光悦と感じさせる。
日蓮聖人の銅像
山門の脇には、日蓮上聖人の銅像が建っている。
「立正安国を説くお祖師さま」の像。結構大きいので圧倒される。その目は何を見ているのか。
中山法華経寺 境内
山門をくぐり、いよいよ境内に。
とても広いので、見ごたえありそう!!
正面には五重塔が見える。
とても広い敷地であることが、入った瞬間に分かる。
色々と見どころもあるようなので、テンションが上がる。
中山法華経寺 絵馬堂
まず初めに気になったのが、この絵馬堂。
こちらは日蓮上人の絵なのだろうか。
裾を引っ張る猿の絵がかわいい。
所狭しと色々な絵馬や額が飾られている。昔奉納したものなのだろう。
歴史を感じるものばかりである。
中山法華経寺 祖師堂
祖師堂の説明
国指定重要文化財
祖師堂
祖師堂は、日蓮宗を開宗した日蓮聖人を祀る大堂です。鎌倉時代の正中2年(1325年)に創建され、当時は柱と柱の間が五つある五間堂という造りでした。現在の祖師堂は延宝6年 (1678年)に上棟されたものです。造りは七間堂で、正面から見た横幅が約26.5メートルあり、屋根を二つ並べたような比翼入母屋造の形式を持つのが特徴です。この造りの屋根は全国的にも大変珍しく、他には岡山県にある国宝の吉備津神社本殿だけとなります。
堂内は、正面吹き抜けの外陣、本尊が祀られた内陣、その両脇の脇陣と背面の後陣に区切られています。内陣と外陣の境上部には揚格子、下方には聖なる領域と俗なる領域を分ける結界と呼ばれる、取り外し可能な仕切りがあります。 また内陣と脇陣の境にも同様な結界があり、大きな行事の際には、これらを開け放って堂内を広く使うことができるように工夫されています。天井は格縁天井と呼ばれるもので、黒塗りされた格子を碁盤目状に組んでいます。天井板には法華経寺の寺紋である桔梗紋が描かれ、特に内陣を囲むように極彩色で塗られ荘厳な趣になっています。このような祖師堂の規模や形式からは当時の庶民信仰の盛んな様子がうかがわれます。
祖師堂は江戸時代初期の慶長6年(1601年) の修理の様子を記録した木製の棟札とともに昭和60年5月18日に国指定重要文化財に指定されました。
祖師堂前の案内看板より
え・・・・、改修工事ですって!?
改修工事中のため祖師堂の姿を見ることが出来ず…
ここがメインだったのになぁ、残念。令和5年の11月が完成予定とのこと。
大師堂の常香炉。お堂が改修中のためか、線香が一本もなかった。
祖師堂の手水舎。それでは、身を清めてから本堂に参拝したいと思う。
完全に覆われているので、全く見えない…
こちらが祖師堂の中。堂内は格子があるため見ることは出来なかった。
祖師堂と書かれた扁額も山門と同じ江戸時代の三筆「本阿弥光悦」の筆である。
日常聖人像
祖師堂を後にし、色々と境内を散策することに。すると見えて来たのが、こちらの像。
山門の日蓮聖人と同じポーズの姿であるこのお方は、法華経寺の第一代貫主「日常聖人像」である。
厳しい顔をしているので、前に立つと背筋が伸びる。
日常聖人について
鎌倉時代の中頃、下総国の守護千葉頼胤に仕えた富木常忍は、八幡荘若宮と呼ばれたこの地に館を構え、幕府のある鎌倉との間を往復しました。そこで、たまたま布教に懸命だった日蓮と出会い、熱心な信者となったのです。
そうしたところから、文応元年(一二六〇)日蓮は、鎌倉の松葉ヶ谷で焼討ちにあったとき、この常忍を頼って若宮に難を逃れました。この時、常忍は館の中に法華堂を建て、日蓮を迎えて説法を願いました。さらに日蓮は、文永元年(一二六四)安房の小松原で東条景信に襲われた後も、若宮に身を寄せました。この若宮法華堂で開かれた日蓮の説法は、実に百回に及んだといわれます。この地が日蓮の「初転法輪の旧跡」とされるのは、この理由からです。このことで中山の大田乗明、曽谷の曽谷教信など、日蓮の信者になった人々は多く、また日蓮にまつわる数多くの伝承も残されています。
弘安五年(一二八二)日蓮の入滅後、常忍は出家して日常と号し、法華堂を改めて法華寺と称しました。この法華寺は後に中山の本妙寺と合体して法華経寺となり、日常を第一世とし、法華寺は奥之院と称されるようになりました。
中山法華経寺 奥之院の案内看板より一部抜粋
次は「聖教殿」を目指し、境内をてくてく。
先の、祖師堂から見て裏手に位置する。この「寶殿門」をくぐり、聖教殿へと向かう。
中山法華経寺 寶殿門
門とあるが、この建物は、一番奥にある本殿と荒行堂及び祖師堂を結ぶ回廊でもある。
門を入って左側に、3つの題目碑が建っていた。
聖教殿
中山法華経寺聖教殿の説明
聖教殿
一、この建造物は「聖教殿」と申します。
中山法華経寺には、日蓮大聖人の御真筆、国宝、勧心本尊抄、立正安国論を始め重要文化財六四点、その他が格護されてありますが、その完全な保存を図るために建てられたものであります。盗難、火災、虫害、湿気の害等を長きに亘って受けないよう、近代科学の教えるところをとり入れた保存方法が講じれられています。
一、この宝殿が建設されたのは、昭和六年でありました。計画の発議は、そのほゞ七年前、当時の法華会理事長東京帝国大学教授法学博士山田三良氏を中心に法華経寺、日蓮宗宗務院、その他多方面の協力によって実行された事業であります。建物の設計者は、東京帝国大学教授工学博士伊東忠太氏でありました。
一、宝殿の建設と同時に「聖教護持財団」という財団が組織され、今日も引続き御真蹟の保存護持に当って居ります。御真蹟は毎年十一月初旬に展覧されます。
法華経寺
中山法華経寺 聖教殿前の案内看板より
この立派なお堂の中には、日蓮大聖人の御真筆、国宝、勧心本尊抄、立正安国論などの重要文化財が保管されている。大きな金庫といったところだ。
では、ここを後にし、次は本堂の鬼子母神堂に向けて歩いて行く。
一番奥にある鬼子母神堂へ向かう途中、建物のすぐ隣に「大荒行堂」が見えてきた。
日蓮宗大荒行堂
年に一度、100人の僧たちがこのお堂の中に100日間籠り、修行を行うのだそう。
中山法華経寺の荒行について
大荒行堂では、毎年11月1日から翌年2月10日までの100日間に渡りこのお堂にて荒行を行う。
全国からおよそ100名程の僧侶が志願し、自ら挑むための修行を行う。
寒さと飢えと睡魔に耐え、この100日間の荒行修行を終えた僧のみに日蓮宗の「祈祷」の秘法が相伝され修法師となる。
厳格な修行のスケジュール
・毎朝2時に起床
・1日に7回(3時、6時、9時、12時、15時、18時、23時)の水行を行う
・睡眠時間はおよそ2時間程度
・麻の清浄衣(死に装束)を身にまとい、常に素足で修行
・食事はわずかに朝と夕の2回、梅干しと白粥のみ
・家族や友人との連絡不可、外部情報とは一切遮断される
修行内容は大荒行堂での2つの要素に分かれる
・水行|寒水に身を清め、罪障を消滅し、心身を浄化
・読経・写経|法華経を熱心に読誦し、写経することで法華経の教えを体得
※水行は1日に7回、読経はほぼ1日中行われるため喉がやられ、このほかはひたすら写経。
修行の目的
・「死と蘇生」が秘められている
・秘法を身につけること|日蓮宗の開祖が伝えた仏の教えを具現化
・仏の智慧を得ること|あらゆる事象の本質を理解し、自己浄化と悟りの境地に到達
日蓮宗大荒行堂の修行は非常に厳格で難しいが、修行を完了すると大いなる力と理解を獲得できる
鬼子母大尊神堂
いよいよ、境内の最深部にある太客殿(本殿)へと向かう。
この建物の奥にある鬼子母神堂は、江戸の三大鬼子母神としても知られている。(他は、下谷の入谷鬼子母と雑司が谷鬼子母神)
まめ知識
鬼子母神の「鬼」の字は、なぜ一画目の点がないのか?
「釈尊の説諭によって鬼が改心し、自然と鬼の角がとれた」という仏教説話があるが、単に昔は「鬼」という文字の、一画目の点が無かっただけとも言われている。
建立の時期が古いお寺は、旧字体の「鬼」を使っているだけの可能性もある。
個人的には、鬼が改心して角が取れた、という解釈が好きである。
追記|鬼子母神と書いて(きしもじん)と呼ぶことはあまり知られていない。
とても広い建物で、天井も高い!
こちらで「鬼子母神」の御朱印を頂ける。
先ほどの広間の先に、「鬼子母神堂」が見える。
長い渡り廊下からは中庭を眺めることが出来て、とても広い建物であることがうかがえる。
そして、渡り廊下の先へ進むと、そのまま鬼子母神堂へ入ることが出来る。
堂内は撮影禁止のため、ここから。
現在の建物が、鬼子母神堂に接続する形で建てられており、別棟となっている。
中山法華経寺 奥之院
奥之院は、ここ中山法華経寺のある境内から少し離れたところにある。
日蓮聖人が1260年に鎌倉で焼き討ちにあった際、富木常忍(後の日常聖人)を頼って若宮に難を逃れと言われている。この時、常忍が館の中に法華堂を建てており、その場所が奥之院なのである。
…行くしかない。
奥之院までの道のり
まずは境内を抜け、法華経寺の駐車場を出て左へ進む。(奥に見えるのが荒行堂)
駐車場の出口がこの細い道路に面しており、左に曲がる。(写真は振り返って撮影したもの)
看板があるので迷わない。奥の院まで、体感で徒歩10分強程度。
てくてくと歩いていると、趣のある道標が案内してくれた。
この道を真っすぐ進めば良いってことね。ではどんどん歩いて行こう。
てくてく
てくてく・・
てくてく・・・・
ん?この道であってる?
この先には、いくら歩いてもそれらしき看板が無く、だんだん不安になる。
迷ったか、と焦りながら歩いていると、ついに看板が!!
やっと看板があった!
さっき見たのと同じような道標も発見。この案内の仕方は洒落ている。
ここまでくれば、あとはもう少し。
それらしい建物と「奥之院」の看板が登場!(夏場は歩くだけでバテそう)
ついたー!ここが奥之院の入口!
奥之院 境内
中山法華経寺奥之院(若宮館跡)の説明
奥之院(若宮館跡)
鎌倉時代の中頃、下総国の守護千葉頼胤に仕えた富木常忍は、八幡荘若宮と呼ばれたこの地に館を構え、幕府のある鎌倉との間を往復しました。そこで、たまたま布教に懸命だった日蓮と出会い、熱心な信者となったのです。
そうしたところから、文応元年(一二六〇)日蓮は、鎌倉の松葉ヶ谷で焼討ちにあったとき、この常忍を頼って若宮に難を逃れました。この時、常忍は館の中に法華堂を建て、日蓮を迎えて説法を願いました。さらに日蓮は、文永元年(一二六四)安房の小松原で東条景信に襲われた後も、若宮に身を寄せました。この若宮法華堂で開かれた日蓮の説法は、実に百回に及んだといわれます。この地が日蓮の「初転法輪の旧跡」とされるのは、この理由からです。このことで中山の大田乗明、曽谷の曽谷教信など、日蓮の信者になった人々は多く、また日蓮にまつわる数多くの伝承も残されています。
弘安五年(一二八二)日蓮の入滅後、常忍は出家して日常と号し、法華堂を改めて法華寺と称しました。この法華寺は後に中山の本妙寺と合体して法華経寺となり、日常を第一世とし、法華寺は奥之院と称されるようになりました。
今でも土が高く盛られ、大樹の繁っている部分は、住時の館を取り囲む土塁の一部で、この館の跡を「若宮館跡」と呼んでいます。
中山法華経寺 奥之院の案内看板より
宗祖最初転法輪旧蹟の石碑
日蓮開宗後、初めて100日間に及ぶ百座説法を行った場所を示す石碑が建っていた。
境内には、若宮跡の石碑も建てられている。
境内に様々な石碑?お墓?が並んでいる。
こちらにも日常聖人の銅像がある。
奥之院 日常聖人像
立派だ・・!心を見透かされそうな感じがする。
大勢のお地蔵さんが祀られていた。
ここは手水舎かな??
ん?手水舎…ではない?
中山法華経寺奥之院 浄行菩薩
こちらは「浄行菩薩」という。
自分の体の悪いところを洗うと、穢れが落ちるのだそう。
浄行菩薩とは
法華経に出現する菩薩様のこと。地涌の四菩薩の一人。
水が垢や穢れを清めるがごとく、煩悩の汚泥を洗い注いでくださる水徳をお持ちの菩薩様。
古来より、身体の調子の悪いところを浄行菩薩のお体を洗い清めながら一心に祈願すると功徳があると信仰されている。
さらに進むと、見えてくるのが
奥之院 弁財天
中山法華経寺奥之院弁財天の説明
弁財天
七福神の中で唯一の女神で、もとはサラスバティというインド古代神話に現われる大河の神で梵天の妃といわれている。
サラスバティは、「水を有するもの」を意味する女性名詞で、 その流れる水の音にちなみ、音楽の神、弁舌(知恵)の神となり日本に伝わった当初は弁才天と呼ばれた。仏教に弁才天を登場させたのは、「金光明最勝王経」で、 弁才天はこの経を説く人や聞く人に知恵や長寿、財産を受けるとしている。しかし、民衆の間では技芸の神として信仰されることが多く日本古来の神であるイチキシマヒメノミコトと習合して、白肉色で宝冠をかぶり琵琶を弾く美女の姿が一般的になった。
中世末期以降は財産の神としての信仰も生まれ、弁才天を弁財天とも書くようになり七福神のひとつとして取り入れられるようになった。 知恵財宝・愛嬌縁結びの徳があるといわれている。弁財天は古来より宇賀徳正神と表裏の関係で祭祀されることを思うと、法華経寺の宇賀徳正神と当寺の弁財天も表裏の関係と思われ◎る。願満弁財天として多くの参拝者を集めている。
弁財天前の案内看板より
「願満弁財天」とあるので、色々な願いが叶うのであろう。ありがたやあ。
大きな岩が積み上げられていた。
ここから滝が流れそうな雰囲気はあるが、この日は工事中であったので‥‥。残念。
中山法華経寺 奥之院 本堂
こちらは朱塗りのお堂である。綺麗に整備されていて、居心地の良い場所だ。
一見すると、神社にも見える煌びやかな佇まいだ。
お堂の中にも入れるので、参拝させていただくことに。
それではお邪魔します。
お堂の中はこのようになっており、右側に寺務所がある。
こちらでも御朱印を頂けるのだが、車に御朱印帳を置いてきてしまった。
書置きを頂こうかとも思ったが、帳面に書いて欲しい一心で、今回は諦めた。
常修堂(日常上人御廟所)
こちらが日常上人御廟所。まったく気づかなかった…。一番の悔いである。
おしまい
アクセス
住所
所在地 | 千葉県市川市中山2丁目10−1 |
最寄駅 | 京成本線「京成中山」駅から徒歩10分 |
駐車場情報 | 専用の無料駐車場有り |
公式サイト | https://temple.nichiren.or.jp/1041026-hokekyoji/ |