千葉氏ゆかりのお寺|高徳寺
このお寺は千葉城の近くにあるお寺で、名門「県立千葉高校」のすぐそばにある。
高徳寺の説明
千葉氏胤を弔い原胤高が開いた寺
高徳寺は曹洞宗の寺院で、南北朝時代に活躍した千葉氏胤の四男、原胤高が開いたと伝えられています。氏胤は、足利尊氏に従って南朝との戦いで活躍する一方、和歌を得意とし、歴代当主の中で唯一、その歌が勅撰和歌集『新千載和歌集』に掲載されました。貞治4年(1365)に32歳の若さで死去しましたが、高徳寺も同じ年に建てられたと伝わります。しかし、胤高は当時まだ幼く、実際には成人後に父の供養のために建てたと考えられます。
原氏は、現在の中央区生実町にあった小弓 (生実) 城を本拠としました。康正元年 (1455)、原胤房 (胤高の孫)は千葉一族の長老、馬加康胤とともに千葉家当主、胤直 (氏胤のひ孫)を滅ぼします。
康胤が千葉家の新たな当主となるのを助けたことから、原氏は重臣筆頭である「家宰」となりました。
境内の閻魔堂には、明応4年(1495) 作の閻魔王坐像が安置されています。本尊の地蔵菩薩が死者を救済する一方、閻魔王は死者の生前の罪を裁くものとして信仰され、当時両者は同体とも考えられていました。 背後の亥鼻台地は、中世には墓域であるとともに聖域でもあったと考えられます。 この地蔵菩薩坐像と閻魔王坐像は、中世都市千葉における亥鼻台地周辺の位置づけを示す貴重な文化財です。
千葉市教育委員会
高徳寺 寺門前の案内看板より
閻魔様の化身である地蔵菩薩が鎮座している。
こちらは本堂。
千葉氏ゆかりの家紋(月星紋|九曜月に星)がある。
で、本堂裏まで足を延ばしてみると、
ひと際立派な宝塔があった。
こちらは歴代ご住職のお墓とのこと。
千葉氏ゆかりのお寺|胤重寺(いんじゅうじ)
続いて「胤重寺」に来てみた。こちらも千葉氏ゆかりのお寺。
胤重寺の説明
千葉常胤の孫、武石胤重を弔い開かれた寺
胤重寺は浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。本堂には千葉氏の家紋、月星紋が見えます。 永禄元年(1558)、千葉常胤の孫、武石胤重の菩提を弔うため、その子孫である雲巌上人が開山したと伝わっています。常胤には千葉六党と呼ばれた6人の男子がおり、三男の胤盛は武石郷 (現在の花見川区武石町) を与えられ、その地名から武石を名乗りました。この胤盛の子が胤重です。
『平家物語』の異本「源平闘諍録」(鎌倉時代末期~南北朝時代初期成立)には、常胤の孫干葉成胤が平家方の藤原親政を破った結城浜合戦に、胤重が参戦したことが記されています。また、嘉禄3年 (1227) に鋳造された瑞巌寺五大堂 (宮城県松島町) の鐘(現存せず) の銘文の写しから、当時、胤重が陸奥国亘理郡 (現在の宮城県亘理町) へ進出していたことが分かっています。東北に移住した武石氏は、鎌倉時代末期に亘理を名乗るようになり、江戸時代には仙台藩主伊達家の一門涌谷伊達氏となりました。
武石氏の祖である胤盛でなく子の胤重を弔う胤重寺の存在は、武石氏にとって胤重が重要な存在であったからだと考えられます。境内には胤重のものと伝わる供養塔があります。
胤重寺の案内看板より
水子地蔵が並んでいた。
戸塚派楊心流の墓の説明
千葉県指定史跡 戸塚派楊心流
流祖 戸塚彦介英俊
二代 戸塚彦九郎英美 墓
楊心流は柔術の一流派です。わが国古来の武術のうち柔術が確立されたのは、戦国時代の竹内流が起こりとされています。楊心流は江戸時代のはじめ肥前 (長崎県)の医師三浦楊心によって始められたとされています。その後、阿部観柳・江上司馬之介武経へと継がれ、幕末になって戸塚彦右衛門英澄・同彥介が流派を起こしました。とくに英俊は技量に優れた達人で、戸塚派揚心流の祖として一時期の柔術界を風靡しました。明治18年には千葉県柔道師範に往じられましたが翌19年没しました。その子彦九郎英美は父の意思を継ぎ、千葉市通町 (現中央区中央) に町道場を開き後進の養成につくし、明治41年に没しました。昭和18年8月27日指定
胤重寺の案内看板より
お墓を探したかったが、どこだか分からずウロウロするのもアレなので、やめた。
こちらが本堂。
残念ながら、中の様子を伺うことはできなかった。
次は千葉氏の居城である千葉城へ!
千葉城(猪鼻城)
あまり歴史の表舞台に登場しない千葉市周辺だが、実は千葉市にも立派なお城が建てられている。これは、最近建てられたもの。
中は県立の郷土資料館となっている。
こちらが入口。
千葉城は猪鼻(いのはな)公園の中にあり、通称「猪鼻城」とも呼ばれている。
「史蹟 猪鼻城阯」と書かれた石碑。
千葉県民として、城に対して思い入れがあるかと言われたらあまりない。
なぜだろう。やはり歴史的価値なのかな。
こんな立派なお城なのにね。
さて、次は一度行ってみたかった「千葉教会」へ!!
千葉教会
今まで何度か近くに来ることはあったが、少し奥まったところにあるため、訪ねることは無かった。
今回初めて来たが、やはり分かり辛い場所にある。
千葉教会集会案内の説明
千葉教会集会案内
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
(ローマの信徒への手紙一〇章一七節)
主日公同礼拝 毎週日曜日 10時30分~11時45分
説教に耳を傾け、讃美と祈りを捧げます。
どなたでもご参加ください。小さなお子さまもお連れいただけます。
学びと祈りの会
◆コイノニア 毎週日曜日 9時45分~10時10分
幼稚科・小学科・中高等科・ に分かれて、聖書を学んでいます。
◆聖書輪読祈祷会 毎週水曜日 10時30分~11時40分
聖書を皆で読み進めています。そのあと、教会のこと、社会のことなどをお祈りします。
この他に、青年の集い、壮年会、婦人会、聖書入門講座、家庭集会などがございます。
詳しいことは、ホームページをご覧いただくか、左記へお問い合わせください。
日本キリスト教団 千葉教会
牧師 西岡 昌一郎
教会前の案内看板より
看板にはこのようなポスターが貼られていた。
現在も礼拝やミニコンサートが行われているよう。機会があったら参加してみたいなぁ。
どう見ても裏側だ。
表側に行くにはどこから行って良いのか…
人けが全くない。が、これぞ一度見たかった千葉教会。
千葉にもこのようなレトロな教会が建っているのだ。
千葉教会教会堂の説明
千葉県指定 有形文化財 千葉教会教会堂
指定 一九七五年十二月十二日
所在地 千葉市市場町九の二〇
千葉教会の歴史は一八七五年(明治八年)英国宣教師デヴイドソン及び菊間藩士三浦徹による布教に端を発し、千葉市登戸町の商人鈴木幸助のキリスト教信仰によって布教圏を拡大したことに始まる。
その後、聖書講義所時代を経て一八九五年(明治二十八年)初秋、独乙人ゼール氏の設計により東京の大工、近江某に請負わせゼール氏監督により現在の教会堂が落成したものという。
この教会堂はヨーロッパから米国東部地方へ移って簡略化されたカルヴィン系教会の様式で、外見は洋風下見板張り、ゴシック風アーチ型の窓、天井は高い折上天井風、太く黒い柱などから成り、装飾の彫刻は簡単であるが洋風技術のすぐれた特色がみられる。
外人技師の指導による新らしい洋風木造建築は、明治文化の象徴ともいえるものである。
一九七八年六月
(注意)
〇教会堂周辺では火気を使用しないこと。
○見学は千葉市教育委員会に連絡し所有者の承諾を得ること。
一九七八年六月 千葉県教育委員会・宗教法人日本キリスト教団 千葉教会
千葉教会前の案内看板より
この時は12月だったので、ドアにはクリスマスの飾りがかけられている。
なんともモダンでお洒落な外観である。
中に入ってみてみたいなー。
で、次は千葉胤常が源頼朝を迎えた地へ!
君待橋|千葉常胤が郎党を引き連れて源頼朝を迎えた場所
こちらが『君待橋』の石碑。
もともとここには橋があったのだろう。
こちらはその名残と思われる物。一部が残っている。
今はこんな感じの小さな公園のような敷地になっており、橋の面影は全くない。
それでも、このように石碑が置かれていると昔へと思いを馳せることが出来る。ありがとう千葉市。
では、次は千葉氏ゆかりの千葉神社へ!
千葉神社
千葉神社は千葉氏の守護神として信仰していた「北辰妙見尊星王」をご祭神としている神社。
こちらから参拝します。
とても広い境内で、特に本殿が特徴的である!!
全国的にも珍しい上下に二つの拝殿があるんですョ。
仏教の「妙見信仰」を合わせた神社なので、「妙見」の額がある。
こちらは、妙見菩薩を描いた絵。
「月に星」と「九曜」の家紋。同じ千葉市内の「千葉寺」にも、同様の家紋を見ることが出来る。
まさに千葉市は、千葉氏によって築き上げられた街なのである。
「妙見延寿の井」
ありがたい「霊泉」とのことなので、ひと口頂くことに。
これで「増福延寿」を達成!?
妙見池の周りには、末社が14社ある。それぞれに御新徳があるので、自分に合うものを探してみるのも楽しい。
とても立派なこの「尊星殿」は、千葉神社開創1,000年の奉祝事業として平成10年に竣工した。
千葉天神
この建物は元は千葉神社の本殿であり、こちらに移築し天神様を祀っている。
天神様もあるので、受験シーズンには多くの合格祈願が行われている。
千葉常胤像
千葉神社から歩いてすぐの所に、あの鎌倉時代の戦国武将「千葉常胤公」の銅像がある。
千葉常胤に関する説明
千葉市と千葉氏
千葉市の都市としての歴史は、平安時代後期の1126年に千葉常胤の父常重が、現在の中央区亥鼻付近に本拠を移したことに始まったと言われています。
ここ通町公園は、千葉氏の信仰を集めた千葉神社に隣接し、さらに千葉氏の菩提寺であった大日寺の跡地が公園区域に含まれていることから、「千葉らしさ」 を感じられる重要な場所となっています。
千葉常胤(1118~1201)
源頼朝を支え鎌倉幕府の成立に貢献した千葉氏中興の祖
千葉常胤は常重の子として1118年に生まれた。18歳で家督を譲られたが、下総国にあった所領の多くを平氏方に奪われ、勢力を低下させることになった。
この状況を打開するため、1180年に石橋山の戦いに敗れた源頼朝が安房国に逃れてくると、常胤はいち早く頼朝に応じた。この時、頼朝は常胤に「父と思う (『吾妻鏡』)」と語ったという。
常胤が味方することで、関東の武士たちの多くも頼朝に従った。また、常胤は頼朝に鎌倉を本拠とするよう進言する等、鎌倉幕府の成立に大きく貢献した。
平氏追討や奥州藤原氏との戦いの功績により、常胤は下総国内をはじめ、東北地方から九州まで全国に多くの所領を獲得し、千葉氏を有力御家人に成長させた。常胤の所領は「千葉六党」と称された六人の息子が受け継ぎ、一族は全国に広がった。
1201年、常胤は84歳の波乱の人生を閉じた。その後、千葉氏は約300年にわたり千葉のまちを 本拠として下総国を治めることとなった。千葉氏の多くが 「胤」の字を通字として自らの名前に 受け継いだのは、常胤を中興の祖と仰いだためである。
千葉常胤像横の案内看板より
千葉公園|厳島神社
千葉公園と聞いても、あまりピンとこないくらい地味な公園・・・。
ただ、桜の咲く頃には多くの人で賑わっている。
その千葉公園の一角に『厳島神社』があるので行ってみたいと思う。
厳島神社の説明
厳島神社(通称弁天様)綿打池湖畔
一、鎮座地 千葉市中央区弁天三丁目一番一号
一、祭 神 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
一、式年祭 巳年 五月巳の日
一、例 祭 毎年八月二十二日 子孫 繁栄 学問 特に芸能の神として庶民の信仰篤くここの町名も弁天様に因むものです
一、由緒沿革
江戸の昔 綿打池の地籍について 寒川村と作草部村との間に争いがあり 藩士のいざ実地検分の前夜 寒川の綿屋太郎兵衛が弁天様の碑石を こっそり寒川寄りに移し置き この池が寒川のものである証とした
明治以降 池のほとりに ひっそりと佇む弁天碑に祠を作り 祭祀を行い 社会の福祉に貢献した村人数名の功績は境内の顕彰碑で知ることが出来る 又 千葉家が隆盛時代 千葉常胤の六男東胤頼の館が存在し 爾来この地を吾妻台と呼ばれる
神社前の案内看板より
その昔、自分たちの領土を守るために、弁天様の碑石をこっそりと移動した、と言うことらしい。
賢いと言うか、ズルいと言うか…。
弁天様の碑石の位置が、地籍を決める一つの判断材料だったというのも面白い話だ。
それでは厳島神社に参拝してきます。
こちらが手水舎。
使っている様子は… ないが、お水はとても綺麗。
てことは湧水なのかな??
立派な狛犬が迎えてくれた!!
こちらが本殿。この本殿に御祭神「市杵島姫命」が祀られている。
隣には摂社?末社?が建てられている。
こちらの祠はなんだろう。人工物なのかな??
奥まで穴が続いていそうだが、よく分からなかった。
とまぁ、そんなに大きな神社でもないので、5分程度でやることもなくなった。
さて、いよいよメインの戦争遺構へ!
千葉公園の中には、かつて千葉陸軍の基地があったため、少しではあるが遺構が残っているようだ。
今まで見たことも無いので楽しみである。
結構広い公園なので自転車があると楽ちんですね♪
荒木山
千葉市に残る戦跡|荒木山
明治41年(1908年) 6月の交通兵旅団と鉄道聯隊第二大隊の椿森移転以来、本市には、陸軍歩兵学校、気球聯隊など多くの陸軍施設が中央区 (椿森、弁天) や稲毛区 (作草部、天台、穴川、小仲台、園生) の台地に集積し、その総面積は約462ヘクタール(約140万坪) に及びました。現在、跡地は、学校や公園、公共施設などに利用されています。千葉公園は昭和21年(1946年)6月に戦災復興計画により公園造成が決まり、建設されました。 綿打池付近から千葉東高校南側付近までの一帯が鉄道第一聯隊の演習用作業場であったことから、現在でも架橋演習のための橋脚やトンネルが残されています。
この小高い丘は、聯隊のラッパ手の訓練が行われ、「喇叭山」と呼ばれ親しまれていましたが、 殉職した荒木大尉を悼む鉄道第一聯隊の兵達により銅像が建立されたため、以後 「荒木山」 と呼ばれるようになりました。その後、物資窮乏の時局を迎えて、銅像の姿は消えてしまいましたが、今でも、この小高い丘は「荒木山」と呼ばれ、市民に親しまれています。
荒木山の案内看板より
鉄道なのでかなりの広範囲にわたり、鉄道が敷かれていたことが分かる。
千葉市一帯が、まさに基地そのものなのだ。
山と言っても小高い丘である。
上に何かありそうなので行ってみよう♪
ん?何かあるね
なんかのモニュメントかな??
どれどれ…
みたところ荒木山の由来であり、先ほどの看板とほぼ同じ内容が書かれていた。
うらはこんな感じだが、う~ん、よく見えん。
どうやら昔の地図のようだけど、分かりづらい・・・
角度を変えてみても結局見づらい。なんとなく町の概要が分かる程度。
では次の遺構を見に行ってみよう。
架橋演習用橋脚
なにやら大きなコンクリートの塊が見えて来た。なんだろうね。
どれどれ?
千葉市に残る戦跡|架橋演習用橋脚の説明
明治41年(1908年) 6月の交通兵旅団と鉄道聯隊第二大隊の椿森移転以来、本市には、陸軍歩兵学校、気球聯隊など多くの陸軍施設が中央区 (椿森、弁天) や稲毛区 (作草部、天台、穴川、小仲台、園生) の台地に集積し、その総面積は約462ヘクタール (約140万坪) に及びました。
大正7年(1918年)、鉄道聯隊の改編により千葉町に鉄道第一聯隊、津田沼町に第二聯隊が設置されました。現在の千葉公園綿打池付近から千葉東高校南側付近までの一帯は、鉄道第一聯隊の演習用の作業場となっていました。このコンクリート製の橋脚は架橋演習に使用されており、このほかにも、千葉公園内にはトンネル工事演習に使用されていたコンクリート製のドームが残るなど、昔日の面影を今に伝えています。
架橋演習用橋脚前にある案内看板より
橋脚とのことなので、訓練ではこの上に鉄道を敷いていたのだろう。
全く想像がつかない。
当時の写真があるが、分かりづらい。
橋脚が破壊されたことを想定した訓練を行っていた様子。
そんなこともやっていたのですね。
鉄道聯隊トンネル跡
少し高いところには「鉄道聯隊トンネル跡」が残っている。
この日は残念ながら、トンネルの周りを工事していたので、近づくことが出来ず。
説明看板も探すことが出来なかった…。
では次に行ってみよう。
陸軍気球聯隊 第二格納庫のダイヤモンドトラス
なんじゃこりゃ。初めてみた。
説明があるので見てみよう。どれどれ…
かつての戦跡|陸軍気球聯隊 第二格納庫のダイヤモンドトラス
陸軍気球聯隊は、昭和2年(1927年) 現在の埼玉県所沢市から千葉市稲毛区作草部に移転してきた日本陸軍で唯一の軍用気球を扱う聯隊でした。 気球聯隊では敵地の偵察や砲弾の着弾点を観測するための訓練を行い、戦時中は気球部隊を戦地に派遣し、太平洋戦争末期には風船爆弾の実施部隊となりました。
気球聯隊には気球を入れる格納庫が2つあり、第二格納庫は昭和9年(1934年)に完成、大きさは間口38m、奥行き44m、高さ 18.5m、かまぼこ屋根の巨大な建物でした。昭和20年(1945年) の千葉空襲で焼け残った第二格納庫は戦後長く民間の倉庫として使われましたが、令和2年(2020年) に老朽化のため解体されました。
この鉄骨は第二格納庫で使われた「ダイヤモンドトラス」と呼ばれる立体構造材の一部で、解体時に切り出したものです。細い鉄骨材で三角形をつくり、アーチ型に組み合わせることで、柱のない大きな空間を足場なしで建設することができる、構造技術者 野澤一郎氏による戦前の著名な発明でした。この展示はコンクリート基礎から斜めに立ち上がるダイヤモンドトラスを再現しており、外側には赤いサビ止め、内側は銀色のペンキで塗られていたものを復原しています。
陸軍気球聯隊 第二格納庫のダイヤモンドトラス前の案内看板より
陸軍気球部隊と言うと、アメリカ本土へ風船爆弾投下を試みた、と言うエピソードを思い出す。実際には戦争末期に限定されたもので、最も多く活躍したのは敵地の偵察や観測だったのだな。
以上が千葉公園にある戦争遺構の説明でした。
千葉公園には、まだ色々とあるので、もっと巡ってみたいと思う。
C型タンク飽和蒸気機関車
公園内に突如現れた蒸気機関車。さてはこれが陸軍で使われていたやつだな!!と思って近づいてみたところ…
蒸気機関車の説明
この蒸気機関車は、C型タンク飽和蒸気機関車といいます。神戸市の川崎車輌 (現 川崎重工業)で製造され、昭和36年10月から昭和44年4月まで川崎製鉄千葉製鉄所(現 JFEスチール)において資材や原材料の運搬に使用されました。
やがてディーゼル機関発達に伴い、蒸気機関車は使用されなくなり、 千葉市に寄贈されたものです。
蒸気機関車前の案内看板より
戦争とは全く関係が無かった。子どもたちに人気の設備に違いない。
でも、汽車ってかっこいいね。
忠魂塔|各慰霊碑について
いよいよ最後の目的地である慰霊碑が建てられた広場。
綺麗に管理されているので気持ちが良い。
千葉公園の一角には戦争で亡くなった方の慰霊碑が集まっているので、それぞれ紹介いたします。
①日中戦士鎮魂碑
日中戦争で亡くなった兵士の鎮魂碑
日中戦士鎮魂碑の石碑の説明
由来記
我が楓四二五六部隊(歩兵二一二聯隊)は、昭和十四年陽春、佐倉五十七聯隊に於て第三十二師団管下の部隊として編成、軍旗を親授され、同年端午節屯営を出発、北支派遣、山東省魯西道の治安警備に当たり、昭和十九年壕北ハルマヘラに転進、現地において軍旗を奉焼。
渡支数ケ月後には、第一大隊、長田部隊長を始め数百名の戦死者を輩出、部隊は壊滅状態となる。所謂「梁山事件」である。各隊は駐屯地周辺における寧日なき作戦、討伐行は、日中彼我双方に数多くの戦死者を出す。日中両国戦士の立場は相反し、砲火を交え、救国の美名の下、戦線に立ち散兵戦に散華した。
日中両国戦士の遺族一統の心中を思う時、正に断腸の感あり。
日中国交正常化した今、我が魯桜会有志は、「永久不戦」を誓い両国戦没者の怒れる魂よ鎮まり給えと、「日中戦士鎮魂碑」を建立したものである。
昭和五十二年四月吉日
日中戦士鎮魂碑の石碑より
②千葉県出身 陸軍少年飛行兵 慰霊之碑
千葉県出身 陸軍少年飛行兵 慰霊之碑の説明
平和の翼(由来)
戦火絶えて二十七年。いま私達の胸に去来するものは、大空に憧れ、大空に生き、そして大空に散って行った君達のあの林檎のような頬っぺと澄みきった眼差しだ。今日の平和な日本の繁栄は君達の尊い死によって築かれたものなのだ。
若くして大空の華と散った君達の至純な姿を忘れぬために、再び戦争を繰返さぬことを誓いながら、私達は「平和の翼」の碑を此の地に建てた。
亡き友よ、安らかに眠り給え。そして、愛する日本を、美しい郷土を、永久に護り給え。
昭和四十七年八月
元陸軍少年飛行兵 千葉県出身 生存者一同
千葉県出身 陸軍少年飛行兵 慰霊之碑より
若くして戦地に散った多くの兵士たちへの想いが伝わってくる。絶対に、戦争を繰り返してはいけないのだ。
③慰霊碑|支那駐屯地歩兵第三聯隊
慰霊碑|支那駐屯地歩兵第三聯隊の説明
碑誌
この聯隊は 北清事変以来北支に駐留した支那駐屯軍の伝統を継ぎ 昭和十三年三月中国北京において編成され その兵員は千葉県人を主体として東京埼玉山梨その他各府県出身者により構成されていた
その後聯隊は 北京保定附近の警備に任じ同年五月一部をもって徐州会戦に臨み 同年七月新たに編成された第二十七師団(極兵団)の基幹部隊として武漢攻略戦に参加し赫赫たる武勲を遺し 発祥の地北支に帰還し冀忠及冀東地区の警備討伐に任じ 昭和十八年戦力培養のため満州国錦県に移駐した 翌十九年再び中国戦線に出動 京漢作戦湘桂作戦に参加し転じて江西省在支米空軍基地を覆滅しさらに広東省に進出し三南作戦江西作戦を闘い北上中 南昌南方地区において終戦を迎えた
この間将兵は 炎熱に耐え酷寒を忍び峻嶮に挑み困苦欠乏を極めたなかに常に勇戦して聯隊の名誉を高めた 不幸戦歿した二千三百余柱の英霊は故国の平和と繁栄を知ることなく今なお中国大陸の山野に眠っている この尊い犠牲こそ今日の礎石であったことを銘肝し ここ郷土の地に碑を刻んで諸霊の冥福を祈る
昭和五十四年七月二十二日
支駐歩三会戦友一同
慰霊碑|支那駐屯地歩兵第三聯隊の石碑より
こちらは「愛馬」慰霊。軍馬として何頭も犠牲になったのだろう。
④鎮魂 シベリア強制抑留死没者慰霊碑
鎮魂 シベリア強制抑留死没者慰霊碑
鎮魂
悲惨を極めた第二次大戦は、日本が連合国のポツダム宣言を受諾して終結した。
しかし、多くの将兵は、酷寒の地シベリアなどに抑留され、長期にわたり、労役に就かされた。
戦友の多くは、厳しい環境の中で病と戦いながら望郷の願いも空しく、凍土の中に永遠の眠りについている。
亡き同胞の昔日を偲び、世界の恒久平和を祈念して、この碑を建立する。
一九九六年三
財団法人 全国強制抑留者協会千葉県支部連合会
鎮魂 シベリア強制抑留死没者慰霊碑より
この中央にあるのが鎮魂碑。この敷地内には、「千葉県陸軍合同碑」「海軍の碑」が建っている。
まとめ
千葉市には、あまり歴史が無いと思っていたが、今回散策してみることで数多くの歴史的な建造物や史蹟を発見することが出来た。
観光地とまでは言えないが、千葉市を知るにはちょうどいい機会となった。
アクセス|千葉公園
住所
所在地 | 千葉県千葉市中央区弁天3丁目1−1 |
最寄駅 | 「千葉モノレール 千葉公園」下車 徒歩1分 「JR千葉駅」下車 徒歩15分 |
駐車場情報 | 専用の有料駐車場あり |
公式サイト | https://www.city.chiba.jp/toshi/koenryokuchi/kanri/chuo-mihama/chibakouen.html |