お寺の紹介
- 山梨県南巨摩郡身延町に位置する日蓮宗の総本山
- 1274年(文永11年)、佐渡での流刑を終えた日蓮が、西谷に草庵を構える
- 波木井郷の地頭「南部六郎実長」の招きによるもの
- 草庵では、弟子の育成や法華経の読誦を行い、教えを広めていた
- 1281年(弘安4年)、十間四面の大坊が整備され「身延山妙法華院久遠寺」と命名
- 日蓮は湯治療養のため身延山を発つが、途中で病状悪化により命を落とす
- 室町時代、伽藍が現在の場所に移転
- 戦国時代、武田氏や穴山氏の庇護を受けて門前町が形成される
- 江戸時代、「受布施派」の久遠寺と「不受不施派」の本門寺とが「身池対論」で対決
- 幕府による、いわゆる弁論対決
- 家康は「不受不施派」を禁止していたので、久遠寺側が勝者となる
- これにより久遠寺の傘下に本門寺が入ることになる
- 江戸時代には最盛期を迎え、133坊を擁する大寺となった
- 火災により焼失を繰り返すが、その都度復興されてきている
- 明治時代の復興を最後に、現代までその姿を守る
- 日蓮宗における最高の聖地として位置づけられている
- 豊富な経典や典籍、書籍、聖教、そして身延山文書などが収蔵されている
正式名称
身延山 妙法華院 久遠寺
創建・開基
1274年・日蓮聖人
宗派
日蓮宗 ※総本山
御本尊
三宝尊(仏:釈迦如来、法:法華経、僧:日蓮)
お題目
南無妙法蓮華経(なむ みょうほうれんげきょう)
久遠寺 御朱印
まめ知識
日蓮宗の御朱印は「妙法(みょうほう)」という文字を書くことが多い。
これは、「妙法蓮華経」つまり法華経を指している。
日蓮宗はこの法華経の教えを大切にしているので、御朱印にも「妙法」の文字を書き入れている。
他にもこんな御朱印が
切り絵御朱印もあったが、やはり直接帳面に書いてもらった方が嬉しいので今回は見送りに…
御朱印所
久遠寺報恩閣はこちらから
久遠寺の総受付である報恩閣で「久遠寺」の御朱印が頂ける。
中は綺麗な寺務所となっており、とても涼しい。真夏の暑さは半端ないので、ここで少し休憩させてもらうのも良さそう。
分かりやすく看板が設置されているので、迷うことは無いハズ。
奥之院はこちらから
こちらは身延山の上にある「奥之院」の御朱印所。
こちらで「奥之院」の御朱印を頂けます。
久遠寺MAP
久遠寺久遠寺HPより https://www.kuonji.jp/precincts/
めちゃくちゃ広い!!これは見ごたえ十分だ。
久遠寺の古写真
昭和初期の三門
明治期の祖師堂
大正期の祖師堂
みどころ
久遠寺 総門
本堂までは車でさらに進むが、この総門があまりに立派だったので、門をくぐった先にある駐車場に車を停め歩いて戻ってきた。
この総門と寺号標柱がただならぬ威厳を放っている。
開山750年!大変歴史のあるお寺だ。遠路はるばる来てよかった!!
寺号標柱
「身延山八十八世・・・」とある。88世も続いているお寺もそう多くは無いだろう。すごい。
久遠寺 総門の扁額と案内看板
この立派な総門に掲げられいる扁額がこれまたすごい。
この扁額の文字は、「開会関」と書かれおり、妙法五字の尊い教えですべての人々の心を開き、平等に救い、仏と同じ寂光土に入ることが出来る関門である、という意味なんだそう。※総門の説明板より
久遠寺総門の説明
総 門
この総門は二十八世日奠(にちでん)上人の代、寛文五年(1665)三河国刈谷城主三浦志摩守明敬公の母寿応院殿の丹精によって建立されました。門柱に刻まれた丸に三の字は三浦家の家紋といいます。三十六世日潮上人のとき改修され、その折に日潮上人筆の開会関の大扁額が掲げられました。開会関とは、妙法五字の尊い教えですべての人々の心を開き、平等に救い、仏と同じ寂光土に入ることが出来る関門である、という意味です。
久遠寺 総門前の案内看板より
総門の説明看板に書いてある通り、確かに扁額の両側に「丸に三」の家紋が掲げられている。
それでは総門をくぐり、仏と同じ寂光土に入ることに。
総門抜けると、いよいよ久遠寺の雰囲気が増してきた。
車で素通りしてしまうにはもったいない場所なので、この先にある駐車場に停めるのがおススメ!!!
久遠寺 表石の句碑
総門をくぐったところで、何やら歴史がありそうな石碑を発見した。横の看板には「句碑」の文字がある。どれどれ。
どうやらこの句碑は、身延元町岩の鼻から移設したものであることが分かった。芭蕉の句碑だと書いてある・・!
芭蕉は、ここ身延にも来て一句詠んでいたのだなあ。
久遠寺 発軫閣(ほっちんかく)
総門を抜けるとすぐに「発軫閣」が姿を表す。徒歩でしか行けない場所なので、車では見落としてしまいそうだ。
この急な階段の上に「発軫閣」がある。この発軫閣は、日蓮聖人が身延山に入られたことを記念して建てられた建物である。
いきなりの階段だが、まだまだ元気なので登ってみることに。
発軫閣とは
「発軫」とはあまり聞きなれない言葉であるが、これは日蓮が初めて身延山に入り「ここから始まる」という意味として名付けられたお堂のこと。
階段の左右に佇む立派な杉の木や古めかしい石積みが、時の流れを感じさせる。
結構派手な色の建物が見えてきた。
発軫の如く、「いよいよここから始まるぞ」と言う感じが出てきた。
近づいてみると、意外と年月を感じさせる。それでも近現代には塗り直されていそうな雰囲気。
残念ながら中を見ることは出来なかったが、せっかく上まで登ったのでウロウロしてみることに。
中庭みたいなスペースにも様々な石碑が建てられているようだ。
御堂の脇に小さな洞窟があり、中には浄行菩薩が安置されていた。近づいてみると、美しい佇まいだ。
菩薩の身体を洗うことで、自分の病や苦しみも洗い落とすご利益があるとのこと。ぜひともご利益にあやかるべく、菩薩のからだ全てを念入りに「ゴシゴシ」した。
先ほどの立派な総門を上から。
このようなアングルで見ることは滅多にないので、貴重な体験となった。
では、本堂に向けいざ出発!
久遠寺 三門
車で参拝する場合、この三門近くの駐車場へ止めるのがBest!!
さて、いよいよここから始まることになる。
めちゃくちゃ大きな山門(三門)!これはすごいぞ!
昭和初期の写真と比べてみると、ほとんど同じであることが分かる。すごい・・・。
さすが日蓮宗の総本山。スケールが想像を超えてくる。
この日は、なにやら装束を着た熱心な信者の方たちが大勢集まっていた。
まめ知識
こちらの山門はいわゆる「山門」、ではなく「三門」と呼ばれる。三門とは「三解脱門(空・無相・無願)」の意味があるとのこと。なるほど!!
久遠寺 三門の案内看板
久遠寺三門の説明
三 門
古く寛永十九年(1642)、二十六世日暹上人のとき、伏見宮邦房親王の第八王子尊賀院日廷上人が普請奉行として建築されたが、慶応元年(1865)に焼失し、明治四十年(1907)七十八世日良上人の代に全国寺院檀信徒の協力を得て再建されました。関東三大門のひとつに数えられています。仁王尊は横浜市金沢区六浦の上行寺より六浦平次郎入道妙法禅門が背負ってここまで運び寄進したという伝説があります。六浦平次郎は相州荒尾城主播磨守の後身で、中山法華経寺日祐上人の弟子となり日荷と名を改めたといいます。楼上には京都の仏師辻井岩次郎の十六羅漢像がまつられています。身延山の扁額は七十九世日慈上人筆です。
久遠寺 三門前の案内看板より
残念ながら三門は1806年(江戸時代)に焼失してしまい、現在のものは1907年(明治時代)に再建されたものだそう。もう100年以上前のものになる。
身延山仁王門(二王門)
こちらの仁王門は、山門であり、三門なのです。
この大きなしゃもじは「力しゃもじ」と言い、悪の心を「飯取る=召し取る」と言う意味があるんだそう。
仁王様と「力しゃもじ」
仁王門に安置されます仁王さまは正式には「執金剛神」と申し上げます。私どもがお唱えするお経「法華経」の「観世音菩薩普門品第二十五」というお経の中に「観世音菩薩は法華経の功徳によって佛に近づこうと願う人に執金剛神を現してその人の行いを助ける」と説かれております。
すなわち、仁王様の厳しいお顔やお姿で「法華経」を信仰する私達をあらゆる魔から守るというお約束をされているのであります。
また、身延山の聖域に邪心のあるものを入れぬよう邪心のあるものが聖域に入る際に三門を潜ると邪心が除かれ、清々しい心でお参りが出来るようということで、大変厳しいお顔、お姿でお立ちになっておられます。
また、大力神というお名前から「足」の功徳を頂けるということで昔から足の弱い方、足の病のある方が日々参詣され、また七面山、奥の院等へお参りされる方々が、道中安全身体健全のご祈願をなされました。「力しゃもじ」は仁王様の広大無辺のお力で「悪の心」「邪な心」を召しとる(飯取る)ということで「力しゃもじ」をお分けしております。
どうぞ仁王様の「お力」を頂けますよう心をこめてお参り下さい。
仁王門内の説明看板より
では、仁王様の力を借りて、いよいよ本堂へと向かう。途中にある大階段が名物の一つでもあるので楽しみだ。
久遠寺 菩提梯(ぼだいてい)
真夏の35℃の中、歩く一般人(観光客)はほとんどいない。不思議なことに、写真を通してみるとそこまで厚さを感じられない。参道の左右に並ぶ杉の木々のおかげだろうか。
そこへ、熱心な信者さんたちが続々と集まってくる。熱気がすごい!!
「南無妙法蓮華経~」と唱えながら、参道を進んでいった。
天気にも恵まれ、木々に囲まれた参道を散策するのはとても気持が良いものだなあ。とテクテクあるく。
暑いけれど、木々が心地よいなーと思っていたのはここまで…
え…
なんじゃこの階段は!間違いなく今まで生きていた中で、一番大きな階段である!
こりゃすごいわ。登っている人は一人もいない…
なお、この階段には名前があり、菩提梯と呼ばれている。
久遠寺 菩提梯の説明看板
久遠寺 菩提梯
二十六世日暹上人の寛永年(1632)に、佐渡の住人仁蔵の発願によって、完成したものです。高さ104mで、三門と本堂を一文字に結ぶ287段の石段は、南無妙法蓮華経になぞらえて7区画に分かれています。菩提梯とは覚りにいたる梯(きざはし)のことで、この石段を登り切れば、涅槃の本堂に至ることが出来ることから、覚りの悦びが生ずることを意味しています。
久遠寺 菩提梯前の案内看板より
もちろんこの大階段を登って行くこともできるが、この階段を縫うように、迂回の坂道のコースもある。こっちはこっちで歩く距離も増えるので、どっちもどっち。
ちなみに、石段を登り切れば、涅槃の本堂に至ることが出来るとあるので、体力に自信があれば是非とも階段から登ってほしい。が、ムリは禁物!
休みながら(休まないと無理)行くことを強くおすすめする。
上が霞んで見えない…
この日はかなり暑かったため、早々に断念することに・・。
車で一気に上を目指すことにした。(正解であった)
菩提梯の上から
恐ろしい程の高さ!!これを真夏に登るのは無理かもしれない。
前回来た時は張り切って登れたが、本当にきつかった。
なお、階段を登るだけでなく、階段と交差するようにS字のくねくね道からも登ることは可能。
斜面は緩やかではあるが、その分歩く距離があるので、結局めっちゃ疲れる。
南部實長公銅像
菩提梯の横に気になる像があったので、行ってみた。
どれどれ
身延山開基大檀越
南部實長公銅像 山崎 朝雲 作
日蓮聖人は文永十一年(1274) 5月17日、領主南部實長 (波木井) 公のお招きにより、この身延のお山にお入りになられました。
實長公は「今生は實長に及ばん程は見つぎ奉るべし、後生をば聖人助け給へ」とのお約束どおり、日蓮聖人ご在山の9年間一族をあげてご給仕されました。 また、公は 「十三里に四方の堺を立て今、日蓮聖人に之を寄附す」 との置文をして、身延山を中心とした十三里四方を日蓮聖人にご寄附され、子々孫々に亘り身延山を護ることを戒められ、永仁五年(1297) 9月25日、76歳でお亡くなりになりました。
南部實長公銅像前の案内看板より
甘露門下駐車場
ここの駐車場は20台以上は停められ、結構広い駐車場である。
久遠寺の裏門である甘露門の前に駐車場があるので、あの地獄の・・いや、菩提梯を登らずにここまで来ることも可能。
まめ知識
体力に自信が無く、階段をのぼる時間も無いよって方は、甘露門前の駐車場が絶対におススメ!!
久遠寺 甘露門
とても立派な門が見えてきた。
こちらが甘露門。1868年に再建された門である。
久遠寺甘露門
二十八世日奠上人代に建立されたものを明治元年(1868)に再建されました。法華経に「能く甘露の門を開いて広く一切を度す」とも「大慈悲を以って広く甘露の門を開く」などとあり、この門を入って法華経の法益を得せしむるの意味で門に名づけたものです。
扁額は元老院議菅中村正直博士の筆です。
久遠寺甘露門の案内看板より
久遠寺 時鐘(じしょう)
とても大きな鐘がある。
その名のとおり時を告げる鐘である。
こんな山の上から鐘がなったら結構響くだろうなー。
今もこんな文化が残っていたら良いのになと思う。
時鐘
明治十年(1877)山梨県の南条講題目結社の建立によるも、昭和二十七年(1952)焼失し、永田雅一氏が再建しました。梵鐘は四国松山城主久松家の正室養仙院殿の寄進で、延宝八年(1680)に鋳造され、三十一世日説上人の鐘銘があります。
時鐘前の説明看板より
雰囲気が最高すぎる。
久遠寺 大客殿
甘露門から入ると先ず見えてくるのがこの大きな建物。
これは「大客殿」と言って、その名のとおりお客様を迎えるための建物である。
さすが日蓮宗総本山の大客殿。
中は非公開のため見られないのが残念。中はどうなってるんだろう。
久遠寺 仏殿(納牌堂)
このクラスのお堂がいくつも並んでいるのが総本山のすごさ!
こちらも大変歴史を感じる建物である。
左手前にある建物が納牌堂となっている。
仏殿納牌堂 獅子口瓦
仏殿納牌堂 獅子口瓦
この獅子口瓦は、仏殿納牌堂の大棟西側に備えられていた鬼瓦で、昭和六年(一九三一)日蓮大聖人第六五〇遠忌の報恩事業として仏殿納牌堂が新たに建立されてより、日蓮大聖人御降誕八〇〇年の慶讃事業として、平成二十四年(二〇一二)に屋根瓦を銅版に葺き替えるまでの約八〇年間、仏殿納牌堂の屋根を平穏ならしめてきた鬼瓦である。
展示の獅子口瓦とは、京都の寺本甚平衛製瓦にて作成され、大棟両端鬼瓦のところに備えられる駒形箱型の瓦をいい、「経の巻」を頂部に配し、二本の「綾筋」の下に「井桁に橘」紋の意匠が施されている。
足下瓦から獅子口最頂部までの高さは2.8メートル、足下瓦左右の幅は2.2メートルに及び、これが地上より約21メートルの高さに備え付けられていた。もって身延山三堂の一の威容に相応しいものだったといえよう。
維時 平成二十五年八月 吉日
身延山久遠寺
久遠寺仏殿納牌堂前の案内看板より
地上から約21メートルの高さに備え付けられていたというが、地上21メートルと言うとおおよそ7階建てビルと同じくらいなのだそう。ものすごく高い・・・。
久遠寺 開基堂
こちらのお堂は、菩提梯の下にあった銅像の南部實長公をお祀りしている。
白壁が特徴的なお堂である。
開基堂
このお堂は、身延山開基大檀越南部實長公(法寂院日圓上人)をまつりしてあります。日蓮聖人は文永十一年(1274)、領主南部實長(波木井)公のお招きによりこの身延のお山にお入りになられました。實長公は「今生は実長が身に及ばん程は見つぎ奉るべし、後生をば聖人助け給へ」とのお約束どおり、日蓮聖人ご在山の九ヶ年間一族をあげてご給仕され、身延山を中心とした十三里四方を日蓮聖人にご寄付され、子々孫々に亘り身延山を護ることを戒められました。
開基堂前の説明看板より
久遠寺 御真骨堂(拝殿)
手前の朱色の建物が拝殿であり、置くに見える白い壁にグレーの瓦が見えるのが御真骨堂である。
今の場所はココ
この真後ろに日蓮上人のお骨が安置されている。
御真骨堂
拝殿の奥に望む土蔵造り八角堂が日蓮聖人の御舎利を奉安する御真骨堂です。 尾張の信徒の丹精によって明治十四年(一八八一) 七十四世日鑑上人の代に建立されました。御真骨堂の中央には精緻を極め善美を尽くした五重塔があり、その中央の水晶の宝龕中に日蓮聖人の御真骨が納められています。堂内の宝龕蓮華台は美濃国の寺院、五重塔と天蓋は長崎の講中の寄進するところであり、金銀をちりばめた四天王は後藤祐乗の彫心鏤骨の作です。
御真骨堂前の案内看板より
久遠寺 報恩閣(総合案内所)
御朱印もこちらで頂ける。
モダンな造りでとてもおしゃれ!!
中はとても綺麗で涼しい。休憩所もあるので、火照った体を休めるに丁度良い。
久遠寺 棲神閣祖師堂
報恩閣の左にあるのが祖師堂。つまり日蓮聖人の神霊をお祀りしているお堂。
この建物は江戸時代に廃寺となったお堂だそうで、明治にこちらに移築して再建しているんだとか。
廃寺でこの規模のお堂とは、びっくりである。
明治期・大正期の祖師堂
こちらが明治33年
こちらが大正7年
こちらが令和。ほぼ一緒のように見える。大切に受け継がれているのだなあ。
この建物は、日蓮聖人の神霊を祀る堂閣で、「棲神閣」と呼ばれている。
江戸時代に廃寺となった感応寺のお堂を、明治14年に移築・再建したものとのこと。
って、説明看板があったんだけど…
薄くて読めん!!
って人にはこちらをどうぞ。
棲神閣祖師堂
宗祖日蓮聖人の御尊像を奉安するお堂で、十一代将軍德川家斉公が天保七年(1836)に建立し、五年後に廃寺となった鼠山感応寺の堂宇を、明治十四年(1881)に七十四世日鑑上人の代に移築し、同年宗祖第六百年遠忌をここで奉行しました。御尊像を安置する豪華な御宮殿厨子は東京信徒により、天蓋・幢幡等の善美を尽くした荘厳仏具は大坂・京都の信徒の丹精により寄進されました。須弥壇上の御宮殿厨子の左右には、聖人のご両親妙日尊儀・妙蓮尊尼と本弟子である六老僧の木像が列せられています。内陣正面の虹梁にある立正の勅額は、昭和六年(1931)宗祖第六百五十年遠忌のとき、昭和天皇より日蓮聖人の御廟へ下賜せられたものです。
棲神閣祖師堂前の説明看板より
久遠寺のスレッズに内部の画像があったので、ご興味のある方はこちらからどうぞ。
豪華絢爛な内部に驚かされました!
お堂にも上がれるので、ウロウロできる。
右に見えている建物は本堂で、正面には鐘楼と手水舎が見える。
綺麗な色彩と細かな造りの装飾もあり、見ていてとても楽しい。
久遠寺 本堂
苦労を基調としており、堂々たる風格だ。
内部には入ることは出来るが、撮影禁止なので撮ることは出来ず…
ここ本堂には大きな龍の天井画があるので、是非見て頂きたい。
久遠寺 五重塔
菩提梯を登ると見えてくるのが、綺麗な五重塔と大本堂。視界のど真ん中にドドンと現れるので感慨もひとしお。
平成21年に復元されたのがこの五重塔。
朱塗りの塔がとても綺麗である。
五重塔
この身延山五重塔は九十一世日光上人の発願により全国皆様の御丹誠のもと、九十二世日総上人のとき百三十年ぶりに復元され、平成二十一年五月十三日より五日間に亘り落慶式が奉行された。身延山に五重塔が創建されたのは元和五年(一六一九)加賀藩主前田利常公の母・寿福院の寄進によるもので、御大工鈴木近江守長次の作であった。しかし元和の塔は文政十二年(一八二九)に焼失し、後に再建されたが再び明治八年(一八七五)の全山を巻き込む大火によって焼失した。現在に五重塔は元和五年、初代五重塔の復元であり、明治以降諸堂復興の総仕上げで、悲願ともいえる大事業であった。この五重の塔は、宮大工の伝統技術と最新工法の融合により甦ったものである。
五重塔前の説明看板より
久遠寺 手水舎
階段で死ぬほど疲れた体には、まさに恵みの水である。
この水がとても冷たくて、暑い日にはとてもうれしかった。
広い境内(本堂・祖師堂・報恩閣・仏殿・甘露門)
左から、本堂・祖師堂・報恩閣・拝殿・仏殿・正面が大客殿と並んで建っている。
このように建物同士が渡り廊下で繋がっているので、歩いて隣のお堂に行ける。
繋がっているから、靴を脱いだり履いたりの手間が無いので、本当に楽。
奥之院へ
次はいよいよ奥之院へ。
奥之院思親閣は身延山の山頂(標高1153メートル)にあるため、ロープウェイを利用して向かう。
奥之院に関する記事は別でご用意しておりますので、ご興味のある方は是非ご覧ください。
おしまい
こちらは今回の旅行では行けなかった、「日蓮聖人御廟所」である。
本堂とも奥之院とも違う場所にあるため、一度に全ては回れず断念。
次回再訪したときには必ず行きたい場所である。
日蓮宗関連オススメ寺院
アクセス
住所
所在地 | 山梨県南巨摩郡身延町身延3567 |
最寄駅 | JR身延駅 ※JR身延駅から身延山久遠寺は路線バスまたはタクシーの利用が必要です。 |
駐車場情報 | 専用の無料駐車場有り(三門前はかなり競争率が高い) |
公式サイト | https://www.kuonji.jp/ |