お寺の紹介
- 1413年に創建されたお寺
- 1868年の戊辰戦争でお堂焼失後、同年に再建
- 近藤勇と天寧寺
- 天寧寺には近藤勇の首(又は遺髪)が埋葬されている
- 東京板橋にて処刑後、京都の三条大橋下流で首を晒され、その後天寧寺へ
- 首の埋葬時、新選組副長「土方歳三」が会津の東山温泉にて湯治中だったと言われる
- 当時の会津藩主「松平容保公」より、戒名「貫天院殿純忠誠義大居士」を贈られる
- 千葉県流山で別れて以後、「近藤勇」と「土方歳三」再開の場となった
- 現在、「近藤勇」の墓碑の隣に「土方歳三」の慰霊碑も建立されている
正式名称
萬松山 天寧寺
御本尊
釈迦牟尼仏
御朱印
案内看板
かわいい「一休さん」が目じるし。
板橋で斬首されたた後、京都に晒され会津まで運ばれる。今では考えられない。近藤勇の墓が建立された当時、土方歳三もこの墓を参詣したとのことだが、何を思い語らったのだろう。
「萬松山 天寧寺」の境内案内図
御本堂の裏手の山にお墓があることがわかる。
近藤勇の墓所にある「生涯についての説明看板」
近藤勇藤原昌宣之墓
天保五年十月九日武州調布町上石原(東京都調布市)の卿士宮川久次郎の三男として生まれる。幼名を勝太と謂う、自宅に道場を構え十五歳にして天然理心流近藤周助の代稽古をつとめ当時近藤門下の麒麟児として近郷に名を馳せた。
師近藤周助は父宮川久次郎に懇請し勝太十七歳の時養子として迎える。元服して名を勇と改め剣理を究め後試衛館を継ぐ。塾頭に沖田総司、土方歳三、山南敬助、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、客分に永倉新八らを率いた。その後郷に上り新選組の母体となった。
新選組の活躍は文久三年から慶応三年に至る五年間である。中でも最も著名なものは新選組最盛期の池田屋騒動である。長州の志士古高俊太郎の自白により、元治元年六月二十日を期して京都御所に火を放ちその虚に乗じ朝廷を長州に奪行しようと企図し、同志が祇園祭を幸いに池田屋に集結謀議中を新選組の察知する所となり、出動後世に残る大惨劇となった。
新選組はその後伏見鳥羽の戦いに際し、伏見警備につくも新式火器の前に利なく敗走、海路江戸に集結残余の者をまとめて甲陽鎮撫隊を編成。勝沼の戦いで再び敗北、その後流山に集結していた。勇は大久保大和と称していたが元隊士加納道之助の密告により逮捕され、土佐藩谷千城の厳命により辞世二詩を遺して斬首の刑に処せられた。
会津守護職の直属であった新選組隊長の首が松平容保公の居城の地に、副長土方歳三の手によって建墓された首塚と語り伝えられている。
一九七七年十月
会津若松ライオンズクラブ
天寧寺の案内看板より
※墓地へは2度参拝しており、時期の異なる画像が混在しています。
近藤勇墓所(冬)
近藤家の家紋「丸に三つ引き」がある。
近藤勇のお墓
土方歳三の慰霊碑
会津は豪雪地帯のため、冬に車で来るのはなかなか厳しかった。
近藤勇墓所(春)
局長勇と副長土方の一騎打ち(フィギュア)
両者:「いざ、勝負!」
土方:「うりゃ!!」
実際はこんな感じ…
まとめ
新選組ファンとしては、一度は必ず訪れておきたい天寧寺。人気の幕末偉人なだけあり、お墓にはいつもたくさんのお花が供えてあった。手を合わせ思ったのは、命を懸けて日本のために戦った彼らに、今の日本はどのように映っているだろうか?ということ。日本を大切にしたい。
アクセス
住所
所在地 | 福島県会津若松市東山町石山天寧208 |
最寄駅 | 「JR磐越西線 会津若松駅」下車 車で10分 |
駐車場情報 | 専用の無料駐車場あり |
公式サイト | https://www.aizukanko.com/spot/207(会津若松観光ナビ) |