天寧寺の御朱印|「會津」には近藤勇の墓所がある(福島県 会津若松市)

土方歳三
土方歳三寺院新選組!福島県近藤勇
新選組局長・近藤勇のお墓は日本に数か所あるが、そのうちの一つが福島県会津若松市の「天寧寺」である。

参拝日:2008年4月19日

スポンサーリンク

お寺の紹介

  • 1413年に創建されたお寺
  • 1868年の戊辰戦争でお堂焼失後、同年に再建
  • 近藤勇と天寧寺
    • 天寧寺には近藤勇の首(又は遺髪)が埋葬されている
    • 東京板橋にて処刑後、京都の三条大橋下流で首を晒され、その後天寧寺へ
    • 首の埋葬時、新選組副長「土方歳三」が会津の東山温泉にて湯治中だったと言われる
    • 当時の会津藩主「松平容保公」より、戒名「貫天院殿純忠誠義大居士」を贈られる
    • 千葉県流山で別れて以後、「近藤勇」と「土方歳三」再開の場となった
    • 現在、「近藤勇」の墓碑の隣に「土方歳三」の慰霊碑も建立されている

正式名称

 萬松山 天寧寺てんねいじ

御本尊

 釈迦牟尼仏しゃかむにぶつ

御朱印

案内看板

かわいい「一休さん」が目じるし。

板橋で斬首されたた後、京都に晒され会津まで運ばれる。今では考えられない。近藤勇の墓が建立された当時、土方歳三もこの墓を参詣したとのことだが、何を思い語らったのだろう。

「萬松山 天寧寺」の境内案内図

御本堂の裏手の山にお墓があることがわかる。

スポンサーリンク

近藤勇の墓所にある「生涯についての説明看板」

近藤勇藤原昌宣之墓

 天保五年十月九日武州調布町上石原(東京都調布市)の卿士宮川久次郎の三男として生まれる。幼名を勝太と謂う、自宅に道場を構え十五歳にして天然理心流近藤周助の代稽古をつとめ当時近藤門下の麒麟児として近郷に名を馳せた。
師近藤周助は父宮川久次郎に懇請し勝太十七歳の時養子として迎える。元服して名を勇と改め剣理を究め後試衛館を継ぐ。塾頭に沖田総司、土方歳三、山南敬助、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、客分に永倉新八らを率いた。その後郷に上り新選組の母体となった。
 新選組の活躍は文久三年から慶応三年に至る五年間である。中でも最も著名なものは新選組最盛期の池田屋騒動である。長州の志士古高俊太郎の自白により、元治元年六月二十日を期して京都御所に火を放ちその虚に乗じ朝廷を長州に奪行しようと企図し、同志が祇園祭を幸いに池田屋に集結謀議中を新選組の察知する所となり、出動後世に残る大惨劇となった。
 新選組はその後伏見鳥羽の戦いに際し、伏見警備につくも新式火器の前に利なく敗走、海路江戸に集結残余の者をまとめて甲陽鎮撫隊を編成。勝沼の戦いで再び敗北、その後流山に集結していた。勇は大久保大和と称していたが元隊士加納道之助の密告により逮捕され、土佐藩谷千城の厳命により辞世二詩を遺して斬首の刑に処せられた。
 会津守護職の直属であった新選組隊長の首が松平容保公の居城の地に、副長土方歳三の手によって建墓された首塚と語り伝えられている。

一九七七年十月
会津若松ライオンズクラブ

画像の看板より引用

※墓地へは2度参拝しており、時期の異なる画像が混在しています。

近藤勇墓所(冬)

近藤家の家紋「丸に三つ引き」がある。

近藤勇のお墓

土方歳三の慰霊碑

会津は豪雪地帯のため、冬に車で来るのはなかなか厳しかった。

近藤勇墓所(春)

局長勇と副長土方の一騎打ち(フィギュア)

両者:「いざ、勝負!」

土方:「うりゃ!!」

実際はこんな感じ…

まとめ

新選組ファンとしては、一度は必ず訪れておきたい天寧寺。人気の幕末偉人なだけあり、お墓にはいつもたくさんのお花が供えてあった。手を合わせ思ったのは、命を懸けて日本のために戦った彼らに、今の日本はどのように映っているだろうか?ということ。日本を大切にしたい。

スポンサーリンク

アクセス

住所

所在地福島県会津若松市東山町石山天寧208
最寄駅「JR磐越西線 会津若松駅」下車 車で10分
駐車場情報専用の無料駐車場あり
公式サイトhttps://www.aizukanko.com/spot/207(会津若松観光ナビ)

GoogleMap

合わせて読みたい新選組を巡る記事

高幡不動金剛寺の御朱印|新選組副長土方歳三ゆかりのお寺に行ってきた(東京都 日野市)
数年前に一度訪れたお寺に再び足を運んだ。このお寺は新選組のゆかりでも有名で、ファンとしては一度は訪れたい場所だ。また、関東三大不動の一つに数えられる不動堂があり、そこには他では見られない少し変わった像が安置されているのも見所の一つだろう。
大國魂神社の御朱印|武蔵の国の守り神は多くの武家から崇敬された(東京都 府中市)
大國魂神社の歴史は古く、今から2,000年近くも前に創建されたのだという。武蔵国の総社としての役割を果たし、多くの武家からも篤く信仰された。新選組局長「近藤勇」の天然理心流四代目襲名披露の野試合が開催された地としても有名だ。
土方歳三終焉の地|新政府軍に最後まで抗った「鬼副長」の足跡を辿る(北海道 函館市)
人気の観光地「北海道函館」には幕末の動乱期、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦争が終結した地でもある。幕末から明治維新を駆け抜けた新選組「鬼の副長・土方歳三」最後の地を訪ねてみた。
龍源寺の御朱印|近藤局長が生まれた故郷を訪ねて ※近藤勇の墓所(東京都 三鷹市)
龍源寺の御朱印 ※近藤勇の墓所 「新選組局長 近藤勇」が生まれた上石原村(調布市)にある「龍源寺(りゅうげんじ)」に訪問。 近藤勇が板橋刑場で処刑された後、遺族が遺体を引き取り龍源寺に墓を建てたとのこと。局長のルーツを探る旅となった。 江戸時代には徳川将軍が鷹狩りのためにこの地をたびたび訪れては休憩所として利用していたこともあるそう。
御香宮神社の御朱印|鳥羽・伏見の戦いで新政府軍(薩摩藩)の陣営が置かれた場所(京都府 京都市)
鳥羽伏見の戦いで新政府軍(薩摩軍)の陣営が置かれた神社。戦力は旧幕府側が1500以上、新政府(薩摩)側がその半数ほどであったが、御香宮神社は伏見奉行所を見下ろすような位置にあり、薩摩軍が伏見奉行所に向けて大砲で連射したため、伏見奉行所は炎上し、旧幕府側は敗退した。
光縁寺の御朱印|新選組総長山南敬助と隊士のお墓があるお寺(京都府 京都市)
光縁寺の御朱印 光縁寺は、新選組にゆかりのあるお寺で、総長の山南敬助や河合耆三郎など多くの戦士たちが埋葬されている。山南敬助は仙台藩出身の北辰一刀流の使い手で、親切な人柄で親しまれていたが、首脳陣との確執から脱走し、隊規違反で切腹に処された。後に彼が葬られた場所が、光縁寺である。
壬生寺の御朱印|新選組ファン必見!京都・壬生寺を訪ねてみた(京都府 京都市)
壬生寺の御朱印 新選組が京都を守るために使用していた屯所が壬生に位置していたため、壬生寺は新選組と関連が深いお寺として有名。壬生寺には、近藤勇の胸像をはじめ、「芹沢鴨」「河合耆三郎」「平山五郎」など、新選組の幹部のお墓もある。
金戒光明寺の御朱印|新選組の名前が生まれたお寺(京都府 京都市)
金戒光明寺の御朱印 法然上人が結んだ草庵が始まりとされる、とても歴史の深いお寺。幕末には京都守護職「会津藩主・松平容保公」が本陣を敷いた場所で、新選組ともかかわりが深い。
會津藩の街並みを散策してきた!(福島県 会津若松市)
新選組局長「近藤勇」が眠る会津の街。ここは京都守護職「松平容保公」が治めた会津藩の土地でもある。豪雪地帯でも知られる会津の街並みでは、そこかしこで幕末の歴史に触れることができた。
天寧寺の御朱印|「會津」には近藤勇の墓所がある(福島県 会津若松市)
天寧寺の御朱印 1413年に創建されたお寺 1868年の戊辰戦争でお堂焼失後、同年に再建 近藤勇と天寧寺 天寧寺には近藤勇の首(又は遺髪)が埋葬されている 東京板橋にて処刑後、京都の三条大橋下流で首を晒され、その後天寧寺へ 首の埋葬時、新選組副長「土方歳三」が会津の東山温泉にて湯治中だったと言われる 当時の会津藩主「松平容保公」より、戒名「貫天院殿純忠誠義大居士」を贈られる 千葉県流山で別れて以後、「近藤勇」と「土方歳三」再開の場となった 現在、「近藤勇」の墓碑の隣に「土方歳三」の慰霊碑も建立されている
傳通院の御朱印|新選組の前身「浪士組」結成のきっかけとなった場所(東京都 文教区小石川)
室町時代に、浄土宗第七祖「聖冏」が開創 聖冏の弟子「聖聡(増上寺の開山上人)」の切望により開山 徳川家康の側室「茶阿の方」の菩提寺がある 傳通院の境内にあった子院「処静院」で浪士組が結成 清河八郎の墓所
宝泉寺の御朱印|源さん(新選組副長助勤)の故郷を訪ねて(東京都 日野市)
宝泉寺の御朱印 大河ドラマ新選組!でも人気のあった「源さん」こと井上源三郎の墓所へ行ってきた。訪問時は大河の放送から3年程経過していたが、人気ぶりは健在であり数名訪問者が多く居た。尚、井上源三郎のお墓は「引き墓」であり、供養のためのお墓である。 お寺自体は、臨済宗建長寺派の禅寺。
石田寺(土方歳三墓所)の御朱印|鬼の副長の故郷に馳せ参じた(東京都 日野市)
石田寺の御朱印 「新選組副局長土方歳三」が生まれた石田(いしだ)村にある「石田寺(せきでんじ)」に訪問。 歳三のルーツを探る旅となった。 石田寺には土方歳三の墓と顕彰碑が置かれており、後年になって土方歳三の兄の子孫が建てた「土方歳三義豊之碑」などもあり、土方歳三の聖地となっている。
Translate »
error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました