お寺の紹介
- 上野「寛永寺」の敷地内にいらっしゃる釈迦如来像
- 江戸中期、後国村上城主「堀丹後守直寄公」が戦で命を落とした兵たちの冥福を祈り建立
- 京都「方広寺」の大仏に「見立て」られ、当時は漆喰づくり
- その後、僧侶「木食浄雲」によって高さ6メートルの銅仏に改められる
- やがて「輪王寺宮公弁法親王」が大仏殿を建立
- 度々地震や火災に遭いながら、その都度修復により守られる
- 明治6年には大仏殿解体
- 大正12年の関東大震災で頭部が落下し大破
- 第二次世界大戦時には、軍の供出令により胴体が徴用される
- 昭和47年春、再びこの地に迎えられ、大仏殿跡地にはパゴタ(仏塔)が建立される
- パゴタには旧薬師堂本尊の「薬師三尊像」が祀られている
- 現在は顔面部のみが祀られている
- これ以上落ちようが無いので「落ちない」合格大仏として現在も広く信仰を集める
正式名称
東叡山 寛永寺 上野大佛
御本尊
釈迦如来
ご真言
オン・コロコロ・センダリマトウギ・ソワカ
御朱印
なし(持参していた御朱印帳が終わってしまったため諦めた。)
書置きをもらってもよかったが、どうせなら御朱印帳に記載頂きたかったので、次回再訪予定。
御朱印所について
境内授与所
みどころ
上野大佛と書かれた看板と大仏とパゴダの説明看板
この看板の裏手、大仏山という小高い丘の上に上野大仏がある。
上野大仏とパゴダの説明
上野大仏とパゴダ
台東区上野公園四番
正面の丘は、かつて「大仏山」と呼ばれ、丘上にはその名のとおり大きな釈迦如来坐像が安置されていた。
最初の大仏は、越後(現、新潟県) 村上藩主堀直寄が、寛永八年(一六三一)に造立した二メートル八十センチ前後の釈迦如来像であったが、粘土を漆喰で固めたものであったため、正保四年(一六四七)の地震により倒壊してしまった。
明暦~万治年間(一六五五~一六六〇)には、木食僧浄雲が江戸市民からの浄財によって、三メートル六十センチをこえる青銅製の堂々たる釈迦如来坐像を造立した。その後、元禄十一年(一六九八) 輪王寺宮公弁法親王が、同像を風雨から覆うための仏殿を建立。天保十二年(一八四一)の火事によって大仏・仏殿ともに被害を受けたが、一年半後の天保十四年には、 最初の造立者堀直寄の子孫直央が大仏を修復、幕府が仏殿を再建した。さらに、安政二年 (一八五五)の大地震では大仏の頭部が倒壊したものの、間もなく堀家が修復している。
しかし、明治六年上野公園開設の際に仏殿が取り壊され(年代については他に同九年・同十年の二説あり)、大正十二年の関東大震災では大仏の面部が落下、さらに、第二次世界大戦における金属供出令により大仏の体・脚部を国へ供出したため、面部のみが寛永寺に遣った。寛永寺では、昭和四十七年丘陵上の左手に壁面を設け、ここに「上野大仏」の顔をレリーフ状に奉安した。
なお、江戸時代の大仏は、いずれも南に向かって造立され、丘陵の南側には当時の参道(石段)が現存する。
また、同じく丘陵上の正面にある建物は、「パゴダ」(仏塔のこと)と呼ばれている。上野観光連盟が上野公園の名所のひとつとするために建設したもので、昭和四十二年三月着工、同年六月に完成した。高さ十五メートル、内部には中央に薬師如来、左側に月光菩薩、右側に日光菩薩を安置している。 この薬師三尊像は、江戸末期まで東照宮境内にあった薬師堂の本尊で、明治初期の神仏分離令により寛永寺に移管、さらにパゴダの本尊として迎えられた。
平成十三年三月
台東区教育委員会
上野大仏山前にある案内看板より
パゴダって何だ?上野だし、パンダと関係あるのかな?っと最初は思ったが全く違った。
パゴダ=仏塔のことだったのね。
東叡山 寛永寺 案内図
上野大仏と大仏殿は赤丸で囲った場所。
東叡山 寛永寺 山内散策マップ
開門時間及び大仏・パゴダの説明看板
開門時間は10:00~16:00。状況によって変わる可能性あり。
入口は二か所あります。開門前なので門が閉まっていた。
パゴダ(仏塔)
中は撮影禁止とのこと。
看板に内部の様子が書かれているので、想像をしてください♪
祈願の手順が書いてあるので、絵馬を奉納する方は見逃さないように!!
パゴダ薬師堂の説明
パゴダ薬師堂 本尊 薬師瑠璃光如来
心と身体の健康祈願
薬師如来は大医王仏とも称され、災いや病苦から救ってくださる仏様です。
祈願の仕方
はじめに薬師如来の絵馬を札所にて授かり、願意と願主名を記入します。
絵馬を合掌にはさみ、正面で一礼してから、真言を唱えながら時計回りにパゴダを一周します。正面に戻り一礼し、絵馬をかけて祈願完了です。
真言「オン・コロコロ・センダリマトウギ・ソワカ」
ひと回りする間に七回唱えてください。
東叡山寛永寺 パゴダ薬師堂
上野大仏 パゴダ前の案内看板より
上野大佛
関東大震災で頭部を失い、第二次世界大戦では胴体を失ってしまい、現在はなんとお顔だけの姿で祀られている。お顔の下には、在りし日の写真も供えられていた。
大仏様のお顔を間近で見る機会は滅多にないので、貴重な経験となった。じっくり観察すると、彩色が施されていた様子や、細部まで作りこまれていることがよくわかる。
横からはこんな感じ。奥行きもないのね。
注連縄が木製であった!めずらしー。
合格祈願!!!
もうこれ以上落ちることは無い つまり 落ちない!
と言うことにあやかって、多くの受験生が合格祈願に来ている。
もうこれ以上落ちようが無い大仏様「落ちない合格大仏」なだけあって、左右には合格祈願の絵馬がびっしり。皆さん合格しますように。
上野大佛の石碑
上野大仏の歴史が書かれている。
幾多の難を乗り越えた上野大仏の説明
幾多の難を乗り越えた 上野大仏
この大仏は寛永八 (一六三一)年、越後国村上城主であった堀丹後守直寄公がこちらの高台に、戦乱に倒れた敵味方の冥福を祈るために建立した「釈迦如来」です。京都・方広寺の大仏に見立てられ、当初は漆喰で作られましたが、明暦・万治の頃(一六五五~六〇年) 木食浄雲(もくじきじょううん) という僧侶により高さ六メートルの銅仏に改められました。
また元禄十一(一六九八)年には輪王寺宮公弁法親王により大仏殿が建立され、 伽藍が整いました。しかし大仏は江戸時代以来、地震や火災といった災難に何度も見舞われました。幕末の上野戦争では辛くも被害を免れましたが、明治六年に大仏殿が解体され、さらに大正十二年の関東大震災でついにお顔が落ちてしまったのです。
その後、寛永寺で保管された大仏は再建される計画もありましたが、残念ながら復元されることなく、お体は第二次世界大戦時に供出されてしまいました。 昭和四十七年春、再び旧地に迎えた大仏は建立当初より大きくお姿を変えましたが「これ以上落ちない合格大仏」として広く信仰を集めています。
寛永寺教化部
昭和十五年「幻の東京オリンピック」にあわせて再建されようとした大仏で したが、お体の部分は戦時中の金属類 回収令により供出されました。
穏やかなお顔のなかで戦争の悲惨さと おろかさをお諭し下さるかのようです。
上野大仏前にある案内看板より
在りし日の大仏殿と大仏様
大仏殿は明治6年には解体された、とあるのでこの写真はそれ以前のものとなる。歴史を感じる。
当時はとても立派で大きな大仏だったのが分かる。
関東大震災により落下してしまった頭部
頭部が無残にも大破している様子がわかる。関東大震災の被害の大きさを伺える資料ともいえる。
まとめ
上野恩賜公園に顔だけの大仏様がいることは以前から知っていたが、寛永寺の広大な敷地内に存在していたとは全く意識していなかった。現在も上野恩賜公園は人々が集まる憩いの場所となっているが、江戸の当時も広大なお寺として、参拝する人々に愛されていたのだろう。一日では回り切れないほどみどころがたくさんあるので、再訪したいと思う。
アクセス
住所
所在地 | 東京都台東区上野公園4−8 |
最寄駅 | 「JR線・上野駅」下車 徒歩6分 「京成線・京成上野駅」下車 徒歩5分 |
駐車場情報 | 専用駐車場なし |
公式サイト | https://bentendo.kaneiji.jp/#gsc.tab=0 |