寛永寺 根本中堂(瑠璃殿)の御朱印|昔は上野公園の意外な場所に建立されていた!?(東京都上野)

寛永寺根本中堂 寺院
寺院東京都
現在の上野公園からは、少し離れたところに位置する、根本中堂。かつては、東叡山寛永寺の中心としての役割を果たしていた。

参拝日:2023年2月9日

スポンサーリンク

お寺の紹介

  • 上野寛永寺の中心となる「堂宇」
  • 江戸初期、現在の上野公園にある大きな噴水のあたりに根本中堂が建立される
  • 幕末、上野戦争の際に焼失
  • 明治初期、川越「喜多院」の本地堂を移築して再建
  • 移築先(現在の場所)は寛永寺の「山内子院」大慈院の地となった
  • ご本尊は、最澄上人自らが彫りだしたとされる「薬師瑠璃光如来像」

正式名称

 東叡山 寛永寺 根本中堂とうえいざん かんえいじ こんぽんちゅうどう

宗派

 天台宗 別格大本山

御本尊

 薬師瑠璃光如来やくしるりこうにょらい

よく分かる!「寛永寺(根本中堂)」御朱印の説明

解説

①[奉拝ほうはい
謹んで参拝をすること。
お寺に参拝したことを意味する。

②[徳川家家紋]の印
徳川将軍家ゆかりのお寺を意味している。

③[瑠璃殿]
「薬師瑠璃光如来像」をご本尊とする伽藍を表している。

④[宝印
薬師如来を表す梵字「ベイ」の宝印。

⑤[東叡山 寛永寺]
山号の東叡山は「東の比叡山」の意味。
寺号の寛永寺は「寛永年間」に創建された。

東叡山 寛永寺の印
お寺の印。

御朱印

中央に「瑠璃殿」、左下には「東叡山寛永寺」と記載。

参拝日:2023年2月9日

過去の御朱印

参拝日:2016年1月2日
東叡山 寛永寺 根本中堂の説明

根本中堂

 徳川幕府により創建された、幕府の安泰と天下泰平を祈る祈願寺である寛永寺の中心堂字として建立されたお堂で、日本天台宗の祖師傳教大師最澄上人の御自刻と伝えられる薬師瑠璃光如来像を御本尊とし、左右に日光・月光の両菩薩をお祀りしております。(三尊ともに国指定重要文化財)
 御朱印の中央に押された寶印は、お薬師さまをあらわす。ベイの梵字(古代サンスクリット語)です。 また、墨書された瑠璃殿”とは、東方浄瑠璃浄土の教主であるお薬師さまを御本尊とする伽藍をあらわしています。 現在、お堂の正面に掲げられている”瑠璃殿”の勅額は、根本中堂が落慶した際に賜った東山天皇の御宸筆です。
 医王とも称されるお薬師さまは、仏性を持つ私達を無明(煩悩の根源)による悪いより解放し、悟りの世界(浄土)へと導いて下さいます。また、そのはたらきにより心身の安楽や国宝的人材を御守護下さるという有り難き仏さまです。
 本日結ばれた仏縁の加護により、皆様のさらなる御多幸と御健勝を、心より御祈念申し上げます。
天台宗別格 大本山
東叡山 寛永寺

寛永寺根本中堂御朱印の台紙より

御朱印所について 

 ご本堂内にて御朱印を頂く。

スポンサーリンク

東叡山「寛永寺」とは

江戸初期、「慈眼大師天海大僧正」によって開山されたお寺である。設計時には、「見立て」という思想が用いられた。

見立て
京都周辺にある神社仏閣に見立てること

実際の見立てはこんな感じ。

実は「見立て」という手法は、意外と色々なお寺で見ることができる。京都まで行くには遠すぎた当時の人々にとって「見立て」はとてもありがたい手法だったのだろう。

スポンサーリンク

みどころ

寺院名碑

「東叡山 寛永寺」と刻まれている

東叡山 寛永寺 案内図

寛永寺はとにかく広く、すべて回るには半日以上かかりそう。
各所にこのような看板があるため、次はどこに行こうと計画が立てやすい。

東叡山 寛永寺 山内散策マップ

※クリックで拡大表示できます

東叡山 寛永寺 縁起

東叡山 寛永寺 縁起の説明

緣起―江戶開府四百年記念
東叡山寛永寺

 元和八年(一六二二)、徳川幕府二代将軍秀忠が、上野の地を天台宗の僧天海に寄進したことから、寛永寺の歴史は始まります。本坊は寛永二年(一六二五)に竣工。根本中堂の完成は元禄十一年(一六九八)のことです。江戸末期までの寛永寺は、いまの上野公園をはじめ、その周辺にも堂塔伽藍や子院が立ち並ぶ文字通りの巨刹であり、徳川将軍家ゆかりの寺にふさわしい威容を誇っていました。明治維新の際の上野戦争で大半が炎上し、その後明治政府の命令で境内も大幅に縮小され(約三万坪、江戸時代の十分の一ほど)現在に至っています。江戸開府四百年を記念し、往時の寛永寺を描いた錦絵などで、江戸と現代を比較しつつここに寛永寺の歴史を紹介致します。

寛永寺根本中堂前の看板より

東叡山 寛永寺 縁起の説明

「江戸図屏風」右隻第4~6扇より(国立歴史民俗博物館)
三代将軍家光の事蹟を顕彰記念するために製作された屏風といわれ、秩序整然とした寛永頃の江戸が描かれている。台東区域に絞ってみると、隅田川、そして浅草橋から浅草寺に至る街並み、寛永寺と上野東照宮、それに不忍池が描かれ、いずれの寺社も森に囲まれた静寂な空間として表現されている。さらに左手、つまり当区域の南部には武家屋敷が並んでおり、街道の裏手には、田んぼのある農村風景もみられる点が注目される。江戸の名所には、京都の名所を見立てたものが多い。東叡山寛永寺は京都の比叡山延暦寺に見立て、寛永寺の大仏は京都方広寺の大仏清水堂は京都の清 水寺不忍池は琵琶湖弁天堂は竹生島に見立ててつくられた。

寛永寺根本中堂前の看板より

根本中堂の看板

「根本中堂」と書かれた、迫力ある大きな看板。

瑠璃殿と書かれた扁額

最澄上人作と言われる「薬師瑠璃光如来像」が秘仏として祀られている。

御本堂|瑠璃殿

青銅の灯篭

寛永寺根本中堂

青銅の灯篭には「葵の御紋」がある。かっこいい。

大正時代の御本堂

川越喜多院から移築された、現根本中堂。今の本堂と変わらない姿だったことがわかる。当時は石灯籠が6つ並んでいたのがわかる。

こちらが今の御本堂。現在は、青銅の灯篭が2つ並んでいる。

寛永寺本坊

この奥の建物が寛永寺の「本坊」。なんとなく、格式の高さを感じさせる佇まい。

徳川将軍家墓所

徳川将軍家の菩提寺であった寛永寺には、今も徳川将軍家のお墓がある。
寛永寺に来たのであれば、将軍家のお墓もぜひ参拝頂きたい。

徳川家綱霊廟勅額門(4代将軍 家綱公)

家光公の長子
・保科正之(2代将軍家光の子)を重用し、文治政治を行った。
・39歳没

こちらは上野寛永寺の敷地内にある

厳有院霊廟勅額門(徳川家綱霊廟勅額門)

東叡山 寛永寺 徳川家綱霊廟勅額門の説明

徳川家綱霊廟勅額門 (重要文化財)
台東区上野桜木一丁目十六番

 四代将軍家綱は、慶安四年(一六五一)四月に父・家光の死に伴って、わずか十才で将軍の座につき、延宝八年(一六八〇)五月八日に三十九才で没した。法名を厳有院という。
 病気がちであった家綱時代の政務は、主として重臣の手に任されていたが、とくに後半の政治を担当した大老・酒井忠清が有名である。時代は家綱の襲職直後に起った由比正雪の乱の解決を機に、ようやく安定期に入った。
 家綱の霊廟の一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したが、この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災を免れた重要な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。
なお、このうち水盤舎は延宝八年に家綱のために造立されたものであるが、この勅額門は昭和三十二年の改修時に発見された墨書銘によって、もと家の上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられる。
平成六年三月
台東区教育委員会

徳川家綱霊廟勅額門前の看板より

この霊廟勅額門は、第二次世界大戦の戦災から免れたとても重要な建造物なのである。
尚、この廟も上野寛永寺の敷地内にある。

徳川綱吉霊廟勅額門(5代将軍 綱吉公)

家光公の四男
・館林徳川家の創設
・堀田正俊を大老とした
生類憐れみの令を行う
・66歳没

東叡山 寛永寺 徳川綱吉霊廟勅額門の説明

徳川綱吉霊廟勅額門(重要文化財)
台東区上野桜木一丁目十六番

 五代将軍綱吉は、延宝八年(一六八〇)五月に兄・家綱の死に伴って将軍の座につき、宝永六年(一七〇九)一月十日に六十三で没した。法名を常憲院という。綱吉ははじめ、善政を行い「大和の治」と賛えられたが、今日では「生類憐みの令」などを施行した将軍として著名。
 元禄十一年(一六九八)九月、この綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立された。造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀之国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門である。又、それに伴って先聖殿(現湯島聖堂)が 上野から湯島に移されている。
 綱吉の霊廟は宝永六年の十一月に竣工したが、それは歴代将軍の霊廟を通じてみても、もっとも整ったものの一つであった。ただ、その一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失した。この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災を免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。
平成六年三月
台東区教育委員会

徳川家綱霊廟勅額門前の看板より

増上寺にある徳川将軍家墓所は別記事でまとめたので、以下からご覧ください。

まとめ

東叡山寛永寺の中心地であった、根本中堂。当時の姿を今見ることはできないが、これまでの歴史や文化として人々に脈々と受け継がれていることをひしひしと感じた。

アクセス

住所

所在地東京都台東区上野桜木1丁目14−11
最寄駅「JR線・上野駅」下車 徒歩19分
「京成線・京成上野駅」下車 徒歩18分
駐車場情報専用駐車場なし
公式サイトhttps://kaneiji.jp/#gsc.tab=0

GoogleMap

合わせて見たい上野「寛永寺」敷地内の見どころ

寛永寺 両大師の御朱印|大師様のツートップ?!(東京都上野)
両大師の御朱印 慈眼大師じげんだいし「天海てんかい大僧正」と慈恵大師じえだいし「良源りょうげん大僧正」の両大師を祀るお堂 慈眼大師「天海大僧正」 寛永寺を開山した天台宗の僧侶。慈恵大師良源大僧正を尊崇。 織田信長の焼き討ちで荒れ果てた比叡山延暦寺を、復興した僧侶。寛永寺創建の際には延暦寺に見立てた、と言われている。また、吉野の桜を取り寄せ上野を桜の名所にしたことでも有名。 慈恵大師「良源大僧正」 正月3日に亡くなったことから「元三大師がんざんたいし」とも呼ばれる。比叡山延暦寺の度重なる火災による荒廃の復興を行った。また、規律乱れる僧たちへの教学を推し進め「比叡山中興の祖」と称賛されている。優れた霊力があり、鬼の姿となって疫病神を退散させた時の姿を護符にした「角大師」が非常に有名。おみくじの創始者でもある。 江戸初期、天海大僧正を祀るために創建 もともと寛永寺の伽藍の一部で、「開山堂」・「慈眼堂」と呼ばれていた 後に、寛永寺本坊にあった「慈恵堂」から「慈恵大師像」を移設 以降「両大師」と人々から親しまれるように 平成元年の火災で、開山堂及び本堂が焼失 現在の本堂は再建されたもの
Translate »
error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました