京都御所|京都御所ってどんなところ??(京都府 京都市)

京都府
京都府
平安京の宮殿跡地に建つ京都御所、そこは圧倒的な歴史を感じる美しい庭園がある。また日本の伝統文化や、歴史の一端を垣間見ることが出来る場所でもある。

参拝日:2013年5月2日

概要

  • 平安時代、794年~1185年に造営された宮殿が前身
  • 平安中期以降、日本の皇居となる
  • 鎌倉時代以降は幕府の将軍が住み、江戸時代(1603年-1868年)まで続く
  • 明治維新後は皇居が東京に移されたため、京都御所の機能を失う
    • 1331年光厳天皇から1869年に明治天皇が東京に移られるまでの約500年間使用された
    • 現在は皇室行事等で使われることもあるが、一般の観光客にも一部を公開している
  • 京都御所は、京都御苑内にある
  • 度々火災に遭い、現存している建物の多くは1855年(安政2年)造営のもの
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京都御所の見どころ

案内MAP

京都御所順路MAP

※京都御所の公式サイトよりダウンロードできます。

以前は事前申込み必須だったが、現在は事前申込み不要で自由に参観可

上記の京都御所順路になるべく沿って紹介していきます。
見学時は、事前申し込みを行い、当日は御所のガイドの方が一緒に見どころを回りながら説明をしてくれました。

京都御所案内図

京都御所に入った瞬間、ピリッとした空気感が立ちこめ、それがこの場所が特別であることを伝えてくれている。

宜秋門(ぎしゅうもん)

宮家、摂家、公卿が参内する門

まず目に飛び込んでくるのが、宜秋門だ。 この門は、宮家や摂家、そして公卿たちが御所に参内する際に使用されていたとのこと。

新御車寄(しんみくるまよせ)

大正天皇、皇后陛下のために作られた玄関

1915年(大正4年)に、大正天皇の即位礼に際して、天皇陛下および皇后陛下のための玄関として建てられた。 皇居の玄関がどのようになっているのか、興味津々。

諸大夫(しょだいぶ)の間、殿上(てんじょう)の間

身分に応じた控室のこと

正式に参内した者の控えの間で、身分に応じて異なる部屋で控えた。
襖の絵にちなんで、「虎の間」「鶴の間」「桜の間」と呼ばれている。

桜の間(三番目に格式が高い)

襖絵は「原在照はらざいしょう」によるもの。

大名など武士の中で参内を許された方が控える所。

鶴の間(二番目に格式が高い)

襖絵は「狩野永岳かのうえいがく」によるもの。

所司代・高家・高僧が控える所であり、別名「殿上の間」と呼ばれている。

虎の間(最も格式が高い)

襖絵は「岸岱がんたい」によるもの。

公家が控える場所であり、別名「公卿の間」と呼ばれている。

月華門(げっかもん)

右近衛府によって警護した門

月華門は、紫宸殿南庭の西側に位置する門で、「右近陣」とも呼ばれている。この門は、校書殿と安福殿の間にあり、右近衛府によって警備されていた。

承明門(じょうめいもん)

紫宸殿の正門

京都御所の南側には、紫宸殿の正門である「承明門」がある。 この門は、天皇の行幸や上皇の御即位後の出入りに使用されます。

建礼門(けんれいもん)

京都御所の正門

この建礼門は、天皇はもちろんのこと、外国の首相や国賓が来訪した際にのみ開かれる特別な門だ。

紫宸殿(ししんでん)

京都御所で最も格式が高い正殿。

京都御所で最も格式が高い正殿である紫宸殿ししんでんは南向きに建ち、入母屋造りで桧皮葺の高床式宮殿建築。平面33m×23mの大きさだ。 ここは即位礼などの重要な儀式が行われてきた最も重要で格式が高い場所とのこと。映画の1シーンに出てきそう。

建春門(けんしゅんもん)

江戸時代までは勅使(天皇の使者)の出入りに使用された門

江戸時代までは勅使の出入りに使用されてたが、明治以降は皇太子や皇后、外国元首の出入りに使われるようになった。

檜皮葺(ひわだぶき)屋根実物模型

門や建物の屋根に使われている檜皮葺きの実物模型が展示されている。これを見ると、屋根がどのように作られているのかを断面から理解でる。

春興殿(しゅんこうでん)

三種の神器の一つである御鏡を奉安する

大正天皇の即位礼に合わせて大正4年(1915年)に造営された。この建物では、皇位とともに継承される三種の神器の一つである「御鏡」が皇居からお移しして奉安され、賢所大前の儀式が行われた。

小御所(こごしょ)

皇太子の儀式が行われた場所

明治維新の有名な「小御所会議」も、ここで行われた。 小御所会議とは、王政復古の大号令において新たに設置された三職によって開催された会議のこと。

御学問所(おがくもんじょ)

芸能に関わる儀式などに使用された場所

安政年間に造営された御学問所は、文学や芸能に関する儀式や和歌の会などに使用されるだけでなく、対面の場や臨時の居所としても利用された。また、孝明天皇が徳川家茂や徳川慶喜と対面する際にも使用された建物だ。「王政復古の大号令」は、この御学問所で発せられたとされている。

京都御所の庭園

御池庭

水面に映る木々と紅葉がとても美しい回遊式庭園。

御常御殿(おつねごてん)の御内庭(ごないてい)

この御庭は、土橋や板橋、石橋、そして飛石などが数多く配置され、特に天皇の好みが取り入れられている庭園である。なお、樹木、自然石、灯籠などの多くは、献上品であるとされている。

迎春(こうしゅん)

孝明天皇の御書見の間として、1858年(安政5年)に建てられた。
御常御殿の北側から渡り廊で結ばれており、南から南の間・北の間・北取合の間が並んでいる。

清涼殿(せいりょうでん)

天皇の日常のお住まいとして使用された御殿

平安時代の内裏では、天皇の日常生活の場として使われた御殿であったとのこと。このような場所で、どのような日常生活が送られていたのだろう。屏風や御簾など、生活の一部を垣間見える品々を見ていると、想像が膨らむ。


ここからは、京都御所が含まれる京都御苑の見どころをご紹介!

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京都御苑の見どころ

京都御苑

※京都御苑の公式サイトよりダウンロードできます。

京都御所は、平安の頃から皇居として使用され、政治の中心地であった。しかし、東京への都の移転に伴い、御所と公家屋敷街は荒れ果ててしまった。その様子を苦しく思った明治天皇により、公園として整備された。新たに「京都御苑」として生まれ変わり、現在では、多くの人々から広く愛されている場所だ。

蛤御門(はまぐりごもん)

禁門の変(蛤御門の変)で知られている

禁門の変とは、長州藩勢力が前年の八月十八日の政変により京都から追放された後、京都市内で松平容保らを排除するために挙兵し、市街戦を繰り広げた事件のこと。
門の梁には、その時の鉄砲の跡が今も残っており、当時の様子を感じ取ることが出来る。

蛤御門の由来
江戸時代の大火で、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため、「焼けて口開く蛤」に例えて、蛤御門と飛ばれるようになった。例えが上手い!!

有名な建物の跡地

公家「清水谷家」の跡

凝華洞跡

江戸時代初期に、後西天皇ごさいてんのうが退位後の仙洞御所として使用していたと伝えられている。
また、京都守護職に任じられていた会津藩主の「松平容保」が病を患い、朝廷の配慮もあり、ここを借りて本陣にしたとされている。

九条邸跡

九条家
五摂家の一つ。
平安時代以降、摂政や関白など朝廷の重要職に多くの人物が就き、その娘たちも多くが天皇妃になった名門だ。大正天皇の皇后である節子妃も、その一人に数えられる。

鷹司邸跡

鷹司家
鎌倉時代中頃、近衛家から分かれた五摂家の一つ。
鎌倉時代中頃に誕生した。江戸時代中期には、閑院宮家の皇子が鷹司家を継ぎ、朝廷での重要な役割を担い、幕末期には30年以上にわたって関白を務めた。
禁門の変では、長州藩士が鷹司邸に入り、屋敷に火を放ち、京都大火につながったとされている。長州藩が超過激派であるにもかかわらず、なぜ公家や天皇を味方にして新政府軍とりえたのか。一見すると無理なことに思えるが、それぞれに思惑があったのだろうか。興味をそそられる歴史だ。

堺町御門

この堺町御門の警備担当は、長州藩が担当していたとされている。八月十八日の政変当日には、会津藩や薩摩藩の兵士によって門が固められ、門内への侵入を阻まれたとされる。その後、長州藩は京都から追放された。

まとめ

見学当時は、ガイドさんに案内してもらいながら1時間程度で京都御所の見どころを巡った。歩いて回るには本当に広大な敷地で、改めて京都御所の壮大さを感じた。すでに天皇はここに住んでいないが、御所を漂う空気はやはり背筋が伸びる思いだった。

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アクセス

住所

所在地京都府京都市上京区京都御苑3
最寄駅「京都市営地下鉄烏丸線 今出川駅」下車 徒歩3分
駐車場情報専用駐車場なし
公式サイトhttps://sankan.kunaicho.go.jp/guide/kyoto.html

GoogleMap

公式PDF集

施設別の《京都》御所と離宮の栞 - 宮内庁
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