寺院

京都府

金戒光明寺の御朱印|新選組の名前が生まれたお寺(京都府 京都市)

金戒光明寺の御朱印 法然上人が結んだ草庵が始まりとされる、とても歴史の深いお寺。幕末には京都守護職「会津藩主・松平容保公」が本陣を敷いた場所で、新選組ともかかわりが深い。
千葉県

長福寿寺の御朱印|とにかくご利益(特に金運UP)が欲しい方必見!!(千葉県 長南町)

いつも参拝するお寺とはちょっと違った雰囲気の、楽しいお寺に出会いました。ゾウの像が可愛い。
千葉県

宗吾霊堂の御朱印|民のために自らの命を懸けた人のお寺(千葉県 成田市)

宗吾霊堂の御朱印 「桓武天皇」の勅命により「坂上田村麻呂」が創建(推定:700年頃) 坂上田村麻呂が房総を平定した際、戦没者供養のために建立された真言宗豊山派の寺院 佐倉宗吾の伝説 当時、度重なる凶作と、佐倉藩の追い打ちをかけるような重税に農民が苦しんでいた 見かねた名主の「木内惣五郎」ら6名が藩へ窮状を訴えるも取り合ってもらえず 覚悟を決めた「惣五郎」が徳川将軍へ直訴 ようやく訴えを聞き届けられ、佐倉藩の領民たちは救われた 面目をつぶされた藩主「堀田正信」が怒り、惣五郎夫妻を貼り付け、子供4人は死罪に これを宗吾霊堂の当時の和尚「澄祐ちょうゆう」が刑場跡に埋葬 100年後の佐倉藩主「堀田正亮まさすけ」が惣五郎に対し「宗吾道閑居士」の法号を諡号しごう 以降「佐倉宗吾様」と呼ばれ、人々から親しまれるようになった
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寺院

瑠璃光寺の御朱印|なぜ、山口発展の象徴となったのか?(山口県 山口市)

瑠璃光寺の御朱印 嘉吉2年(1442年)、「大内義弘」の菩提を弔うために弟「盛見」が建立 当時は「香積寺」の境内だった 江戸時代初期、「香積寺」が萩へ移転、跡地に「瑠璃光寺」が移転してくる 以降「瑠璃光寺五重塔」と呼ばれている 室町時代の優れた建築の一つとして、国宝指定 屋外にある五重塔としては国内で10番目の古さ 京都「醍醐寺」、奈良「法隆寺」と並び日本三名塔の一つに数えられることもある 大内文化の最高傑作 香山墓地 萩市の「天樹院」「大照院」「東光寺」とともに長州藩主の墓所となっている 明治維新当時の13代当主「毛利敬親」などの墓がある 「瑠璃光寺五重塔の下には、大内義弘の棺が埋まっている」との口伝がある
京都府

本能寺の御朱印|織田信長「自刃の地」墓所はどこにある?(京都府 京都市)

本能寺の御朱印 応永二十二年(1415年) 、日隆聖人によって「本応寺」として創建 油小路高辻と五条坊門の間の地(今とは違う場所) 日蓮大聖人の教えを広める「法華宗本門流」の大本山 7度もの建立を繰り返したお寺 1度目:日隆聖人によって「本応寺」として創建 2度目:妙本寺の教徒により壊され再建 3度目:如意王丸から土地の寄進を受け、六角大宮に「本能寺」として建立 4度目:「天文法華の乱」で焼き討ちに遭い再建 5度目:本能寺の変にて焼失し、豊臣秀吉の命を受けて現在地に再建 6度目:天明の大火で焼失し再建 7度目:蛤御門の変で焼失し、1928年に現在の本堂再建 何度も火災に遭うので「能」にある「ヒ」の文字を嫌い「去」をあてた文字としている 織田信長と本能寺 天正10年、秀吉に毛利攻めを命じ、数十名の手勢を従え本能寺入り 明智光秀に、秀吉援護を命じる 17,000の軍勢を率いて居城の亀岡城を出た光秀が、途中で反旗を翻す 「敵は本能寺にあり!」 そのまま本能寺へ向かい完全包囲、明け方攻め込む 寝込みを襲われた信長は多少の抵抗を試みたのちこれを断念 寺に火を放ちそのまま自刃  織田信長の三男「信孝」が集めた遺骨をもって墓を建てたとの伝承がある
土方歳三

天寧寺の御朱印|「會津」には近藤勇の墓所がある(福島県 会津若松市)

天寧寺の御朱印 1413年に創建されたお寺 1868年の戊辰戦争でお堂焼失後、同年に再建 近藤勇と天寧寺 天寧寺には近藤勇の首(又は遺髪)が埋葬されている 東京板橋にて処刑後、京都の三条大橋下流で首を晒され、その後天寧寺へ 首の埋葬時、新選組副長「土方歳三」が会津の東山温泉にて湯治中だったと言われる 当時の会津藩主「松平容保公」より、戒名「貫天院殿純忠誠義大居士」を贈られる 千葉県流山で別れて以後、「近藤勇」と「土方歳三」再開の場となった 現在、「近藤勇」の墓碑の隣に「土方歳三」の慰霊碑も建立されている
寺院

了仙寺の御朱印|鎖国時代、ペリー提督一行がやってきた寺!(静岡県 下田市)

了仙寺の御朱印 1854年(嘉永7)「日米和親条約」締結により、下田開港 のちに締結される「下田条約」にかかる、アメリカとの交渉場所が了仙寺 先に締結済みの「日米和親上条約」規定に基づく追加13条の付帯協定のこと
京都府

知恩院の御朱印|浄土宗総本山の迫力に圧倒された(京都府 京都市)

「法然」が開山 江戸時代初期、徳川家康が知恩院を永代菩提所と定める 家康・秀忠により、本堂や山門など多くの建物が建立される その後火災によりほぼ全焼するが、家光のもとで直ちに再建される 境内は3段に分かれている 上段:開創当初の敷地で勢至堂・法然廟がある 中段:徳川幕府によって造営された敷地で本堂など中心的な伽藍がある 下段:中断と同じく徳川幕府造営の敷地で山門・塔頭寺院がある
千葉県

證誠寺|「しょ、しょ、しょうじょうじ♪」の童謡でお馴染みのお寺は実在する(千葉県 木更津市)

證誠寺の御朱印
寺院

寛永寺 両大師の御朱印|大師様のツートップ?!(東京都上野)

両大師の御朱印 慈眼大師じげんだいし「天海てんかい大僧正」と慈恵大師じえだいし「良源りょうげん大僧正」の両大師を祀るお堂 慈眼大師「天海大僧正」 寛永寺を開山した天台宗の僧侶。慈恵大師良源大僧正を尊崇。 織田信長の焼き討ちで荒れ果てた比叡山延暦寺を、復興した僧侶。寛永寺創建の際には延暦寺に見立てた、と言われている。また、吉野の桜を取り寄せ上野を桜の名所にしたことでも有名。 慈恵大師「良源大僧正」 正月3日に亡くなったことから「元三大師がんざんたいし」とも呼ばれる。比叡山延暦寺の度重なる火災による荒廃の復興を行った。また、規律乱れる僧たちへの教学を推し進め「比叡山中興の祖」と称賛されている。優れた霊力があり、鬼の姿となって疫病神を退散させた時の姿を護符にした「角大師」が非常に有名。おみくじの創始者でもある。 江戸初期、天海大僧正を祀るために創建 もともと寛永寺の伽藍の一部で、「開山堂」・「慈眼堂」と呼ばれていた 後に、寛永寺本坊にあった「慈恵堂」から「慈恵大師像」を移設 以降「両大師」と人々から親しまれるように 平成元年の火災で、開山堂及び本堂が焼失 現在の本堂は再建されたもの
寺院

上野大仏(パゴタ)|合格祈願はココ!!受験生必見!上野公園にある合格大仏に行ってきた(東京都 上野)

上野恩賜公園の一角に、不思議な大仏がある。上野に大仏があることは今では多くのメディアで取り上げて結構有名な存在になってきた。上野に来たらぜひ大仏様に会いに来てほしい。おそらくこのような姿の大仏様は日本中でここだけなので。
寺院

不忍池辯天堂の御朱印|「財」を増やすご利益あり?!(東京都上野)

不忍池辯天堂の御朱印 江戸初期の「寛永年間」に「慈眼大師天海大僧正」によって建立された 不忍池や寛永寺を含む「上野の山」は「見立て」という思想によって設計された 「見立て」は京都周辺にある神社仏閣に見立てたことを意味する 見立て1:「寛永寺」は寛永年間創建=「延暦寺」は延暦年間創建 見立て2:「不忍池」=「琵琶湖」 見立て3:元々聖天が祀られていた小さな島=竹生島 見立て4:新たにお堂建立=竹生島の「宝厳寺ほうごんじ」 見立て5:参拝は琵琶湖から竹生島へのルートと同様に、船を使用 江戸後期には庶民の間で七福神詣でが流行したこともあり橋が架けられる 弁才天の「才」の文字「財」と読み替えて、金運を授けてくれる神として信仰されるように
大河ドラマ

傳通院の御朱印|新選組の前身「浪士組」結成のきっかけとなった場所(東京都 文教区小石川)

室町時代に、浄土宗第七祖「聖冏」が開創 聖冏の弟子「聖聡(増上寺の開山上人)」の切望により開山 徳川家康の側室「茶阿の方」の菩提寺がある 傳通院の境内にあった子院「処静院」で浪士組が結成 清河八郎の墓所
千葉県

蔵光寺の御朱印|人里離れたところにある日蓮宗の寺院(千葉県山武市)

蔵光寺の御朱印 
千葉県

波切不動院の御朱印|なんか凄いところに建ってます!!(千葉県山武市成東)

波切不動院の御朱印 海の守り神として信仰を集める 奈良時代、行基が建立したかなり古いお寺 近海に海難が多いことから、海難除けの不動明王尊像を刻まれた(行基作) 不動尊の常夜灯が沖合を漂流する漁船まで「波を切るように届いた」ことから「波切不動尊」と呼ばれるように
寺院

霊巌寺の御朱印|寛政の改革を行ったあの老中の墓所(東京都 清澄白河)

霊巌寺の御朱印 江戸初期、日本橋付近の芦原を埋め立て霊厳島に創建された 数年後、檀林だんりん(僧侶の養成所)が設置され「関東十八檀林」の一つに 寛政の改革を行った「松平定信」の墓所(国指定遺跡) 大名の墓多数→今治藩主「松平家」・膳所藩主「本多家」 江戸六地蔵の第5番(東京都指定有形文化財) 江戸の7大火葬場(荼毘所)
寺院

深川不動尊の御朱印|成田山新勝寺の東京別院 ダイナミックな護摩祈祷は一見の価値あり!(東京都 門前仲町)

深川不動尊の御朱印 千葉県成田市の大本山 成田山新勝寺「東京別院」として江戸に「深川不動堂」が建てられた。 江戸時代、成田山のご本尊を深川の地で特別拝観したことが起源と言われている。千葉の成田山には毎年参拝しているので、こちらの深川不動にも時々お邪魔している。
寺院

宝泉寺の御朱印|源さん(新選組副長助勤)の故郷を訪ねて(東京都 日野市)

宝泉寺の御朱印 大河ドラマ新選組!でも人気のあった「源さん」こと井上源三郎の墓所へ行ってきた。訪問時は大河の放送から3年程経過していたが、人気ぶりは健在であり数名訪問者が多く居た。尚、井上源三郎のお墓は「引き墓」であり、供養のためのお墓である。 お寺自体は、臨済宗建長寺派の禅寺。
土方歳三

石田寺(土方歳三墓所)の御朱印|鬼の副長の故郷に馳せ参じた(東京都 日野市)

石田寺の御朱印 「新選組副局長土方歳三」が生まれた石田(いしだ)村にある「石田寺(せきでんじ)」に訪問。 歳三のルーツを探る旅となった。 石田寺には土方歳三の墓と顕彰碑が置かれており、後年になって土方歳三の兄の子孫が建てた「土方歳三義豊之碑」などもあり、土方歳三の聖地となっている。
国分寺

甲斐国分寺の御朱印|廃寺同然であったお寺を復興したのは、やはりあのお方であった(山梨県笛吹市)

甲斐国分寺の御朱印 奈良時代聖武天皇の詔によって建立された「甲斐国分寺」。ところが、平安時代中期から律令国家の衰退と合わせるように寺の荒廃が進んでしまう。豪華絢爛なお堂などは戦乱に巻き込まれ悉く焼失し、広大な土地も次第に失い、廃寺寸前まで追い込まれる。この事態を憂慮した「武田信玄」が、寺の領地寄進や住職の入山など、手厚くサポートし見事に再興させたと伝わる。
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